表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

54/65

【052/1000】 洋館のクローゼットと、着せ替えられる魂


【投稿記録:No.052】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Silk_Sepia”

 Caption:

 今日はどの私を着て、

 あなたを驚かせよう。

 クローゼットに並ぶ

 たくさんの物語の中から、

 彼が選んでくれた

 運命の一着に袖を通す。

 服が変わるたびに、

 昨日の私は遠くなって、

 もっと深く、あなたに染まっていく。

 この贅沢な迷いさえ、

 愛の証だと思えるから。

 #コーディネート #ドレスアップ #クローゼット

#秘密の部屋 #愛の変身

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 洋館の北翼、重厚なオーク材の扉の向こうに隠されたクローゼットルームは、もはや「衣裳部屋」と呼ぶにはあまりにも巨大で、窓一つない光の届かない「標本室」あるいは「宝物庫」と化していた。壁一面を埋め尽くすように誂えられた黒檀のワードローブには、灰次が世界中から、あるいは時代の狭間から収集してきたであろう、時代錯誤なまでに豪奢なヴィクトリアン・ドレス、極彩色のシルク、冷たい燐光を放つ宝石が刺繍された重厚な衣装たちが、まるで死んだ蝶の羽をピンで並べたかのように、息苦しいほどの密度で吊るされている。部屋の中には、布地の劣化を防ぐための防虫剤のツンとした化学的な刺激臭と、数十年もの間閉じ込められていた古い織物、あるいは誰にも触れられなかった死蔵のレースが放つ、埃っぽく甘い「時間の腐敗臭」が混じり合い、一歩足を踏み入れるだけで、立ち入る者の平衡感覚と時間感覚を緩やかに、しかし確実に奪っていく。

 灰次は、依織の細い手首を、壊れやすい陶器でも扱うような手つきで引き、その闇の中へと招き入れた。彼の手元には、数枚のブラックカードと、外部のブティックから届けられたばかりの、まだ銀紙の香りが残る包みが無造作に放り出されている。依織には、それらを使って自分の好きな服をカタログから選ぶことも、届いた衣装に難色を示すことも、形式上は許されていた。灰次は決して「これ以外を着るな」と命じることはない。ただ、クローゼットの全身鏡の前に立ち尽くす彼女の背後で、彼の指先が特定の衣装の袖をなぞり、その瞳が「それこそが君の価値だ」と無言で告げるたび、依織の自由意志は、冬の枯葉のように脆く、乾いた音を立てて崩れ去る。灰次が選ぶのは常に、依織の肉体を「保護」するためでも、彼女の好みを反映するためでもなく、彼女という人間としての輪郭を徹底的に磨り潰し、彼が脳内に描く「劇中人物」へと仕立て上げるための、美しき剥製用の皮装束であった。

 「……ねえ、灰次。今日は、この肺を押し潰すような重いベルベットで、私の心臓の鼓動を締め付けるつもり? それとも、この氷のように薄いレースを纏わせて、私の羞恥と震えを余すことなく透かして見せたいの? クローゼットの扉を開くたびに、私の肌が、私自身の意志を持つ皮膚であることを拒み、ただのキャンバスになりたがっているような気がしてならないわ。着せられる服が変わるたびに、私が昨日まで大切に信じていたはずの記憶や、自分自身の名前の響きさえ、古い季節の服と一緒にワードローブの奥の方へ押し込まれて、二度と取り出せなくなっていく。あなたは私を美しく飾っているんじゃない。私を、この豪華で冷酷な布切れの積み重ねのなかに、生きたまま埋葬しようとしているんでしょう?」

 依織が、灰次に手渡された重厚な漆黒のドレスを、まるで自分の亡骸を抱くかのような手つきで抱きしめながら、震える声で囁いた。彼女にとって、この着替えの儀式は「お洒落を楽しむ」というような、外の世界の女性たちが享受する軽やかな娯楽などではなく、自己という名の最後に残された領土を、見知らぬ布と冷たい糸によって一寸ずつ侵食され、上書きされていく、静かなる「領土侵略」に他ならなかった。

 「依織、服というのは、単に肉体を隠したり保護したりするための装置ではないんだよ。それは、混沌とした魂を特定の型にめ、無機質な美へと昇華させるための『鋳型』なんだ。君が今抱いているその取るに足らない未練や、自分らしさという名の安っぽいプライドなどは、この最高級のシルクの重みの下で、跡形もなく押し潰され、平伏すべきものだ。クローゼットの中に並んでいるのは、ただの服ではない。私が君という素材に与える、無数の『可能性の死体』なんだよ。君はそれらを纏うことで、昨日の退屈で不完全な君を一度殺し、私が必要とする、季節も感情も超越した完璧な『記号』として新生し続けるんだ。君のスマートフォンに絶えず届く、安っぽい流行や流行りの色を論じるファッション誌の情報など、この洋館という名の楽園が持つ絶対的な美学に比べれば、ただの塵に等しい。君は自由だ、依織。私の差し出す『美』という名の峻厳な運命を、自ら進んで纏い、自分というノイズを消し去るという最高の自由を、君は今まさに享受しているんだよ」

 灰次は、依織の細い腰に腕を回し、ドレスの内側に仕込まれたコルセットの紐を、容赦なく、そして正確な力加減で引き絞った。依織の肺から最後の一息まで空気が強制的に押し出され、彼女の視界は、酸欠によってチカチカとした光の粒子で覆われる。灰次は、その肉体的な苦悶によって朱に染まった彼女の頬を、この世で最も神聖な祭壇を拝むような瞳で見つめながら、ドレスの襟元のわずかな乱れを、残酷なほど丁寧な手つきで整えていった。

 「自由……。そうね、外の世界の誰かがこの完璧に加工された投稿を見れば、私は毎朝、愛する夫から贈られる贅沢な衣装に迷い、微笑む、幸福な妻に見えるのでしょう。このきついコルセットのせいで、呼吸をするたびに肋骨が軋み、悲鳴を上げていることなんて、画面の向こう側の誰も想像すらしない。あなたの愛は、私を輝かせるための光なんかじゃないわ。私を、一着の『衣装』という名の無機物に変えて、クローゼットの奥に永遠にコレクションし続けるための、毒を浸した標本針だわ」

 「その『変身』こそを、世界は『奇跡の美』と呼んで喝采を贈るんだ。さあ、依織。君としての呼吸を止め、私が用意した壮大な物語の主役として、鏡の前に立て。世界が君に、そしてこのプロジェクトに求めているのは、変わりゆく感情や老化に怯える人間ではない。季節が変わっても、時代が変わっても、決して色褪せることのない、完成された一つの『不変の意匠』なんだ」

 灰次が依織の首筋に、血の通わない冷たいパールのネックレスを、まるで首輪のように巻きつけた。その真珠の珠の一つひとつが、彼女の自由を地上に繋ぎ止めるための重りのように、重く、不気味に、彼女の柔らかな肌に食い込んだ。依織は鏡の中に映る、豪華な布と宝石に埋もれた「美しい剥製」を呆然と見つめ、自身の存在の輪郭が内側から崩壊していく感覚を、酸っぱい吐き気と共に受け入れた。

 パシャリ。

 フィルター“Silk_Sepia”が適用されたスマートフォンの画面の中では、クローゼットルームを支配していた息詰まるような閉塞感と死の気配は、「歴史ある館の秘密の部屋で、愛の衣装に包まれる高貴な女性の日常」へと、鮮やかに偽装された。依織の呼吸困難による顔の紅潮は、愛する者に見つめられた「初々しい羞恥と高揚」へと変換され、彼女の全身を縛り付ける衣装の重厚さは、「愛される者の揺るぎない誇り」へと、致命的なまでの欺瞞をもって書き換えられていった。そこには、依織の肌を執拗に蝕む布地の摩擦の痛みも、灰次の瞳の奥底に常におりのように宿っている、彼女を一人の人間ではなく「使い捨て可能でありながら、しかし替えの効かない至高のパーツ」としてしか見ていない、冷徹な収集家の視点も、記録されることは決してなかった。

 「五十二枚目。……素晴らしい出来だ。依織、君はもう、自分の意志で腕を動かすことすら忘れてしまったかのような、完璧なマリオネットだ。このドレスこそが、君の真の皮膚であり、君の魂そのものなんだよ」

 灰次が投稿ボタンを無機質に、かつ深い達成感と共にタップし、役目を終えた依織の身体を、ワードローブの隅にある椅子に、まるで不要になった道具を片付けるように無造作に座らせた。

 「……ええ。もう、私には自分の好きな色さえ、それがどんな温度を持っていたかさえ思い出せないわ。あなたの選ぶ服を脱いだら、そこにはもう、透明な虚無しか残っていないのかもしれない。ねえ、灰次、次は私の何を脱がせて、何を被せるの? 私のこの皮膚の下にある、最後の絶望の断片まで剥ぎ取って、あなたの好きな琥珀色に染め上げるつもり?」

 依織は、鏡の中に置かれたままの、豪華なドレスを纏った「自分だったはずの何か」を、焦点の定まらない瞳で見つめたまま、埃の舞うクローゼットの暗闇の中で、自身の本質がゆっくりと消滅していくのを、ただ静かに見守り続けた。

 あと、九百四十八枚。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ