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【051/1000】 洋館のパウダールームと、塗り潰される素顔


【投稿記録:No.051】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Velvet_Antique”

 Caption:

 鏡の中の自分と向き合う、静かな朝。

 彼が選んでくれた色彩を

 肌に重ねていくたびに、

 新しい私に生まれ変わる。

 素顔でいるよりも、

 この「愛の色」を纏っているほうが

 ずっと自分らしくいられるから。

 今日も、一番美しい私を

 あなたに捧げたい。

 #メイク #パウダールーム #鏡越し #朝のルーティン #愛の色彩

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 洋館の北側にひっそりと位置するパウダールームは、冬の夜明けのような、刺すような冷たい静寂に支配されていた。磨き上げられた大理石のカウンターには、灰次がどこからか調達してきた年代物の金細工が施された化粧品たちが、まるで外科手術を控えた執刀医の道具のように、寸分の狂いもなく整然と並べられている。重厚な三面鏡の前に座らされた依織の鼻腔を突くのは、現代の軽やかな化粧品が持つ華やかさとは一線を画す、鉛を溶かしたような、あるいは死者を飾るための聖なる香油のような、重苦しく粉っぽい香料の匂いだった。その湿り気を帯びた粉の香りは、呼吸をするたびに肺の奥深くまで侵入し、彼女の生命感を一歩ずつ着実に、無機質な「美」へと置き換えていくような錯覚を抱かせる。

 灰次は、依織の背後に音もなく立ち、三面鏡の中に映し出された彼女の顔を、冷徹な検品者のような眼差しで凝視していた。彼は自らの白く細い指を、依織の柔らかな頬にゆっくりと滑らせた。その指先は、愛を伝えるための体温など微塵も感じさせないほどに冷たく、まるでキャンバスの凹凸を確かめる画家のようであり、あるいは獲物の質感を味わう捕食者のようでもあった。依織の手元には、最新のスマートフォンが置かれ、友人からの「最近どう? 寂しくない?」「たまにはランチ行こうよ」というメッセージの通知が、虚しく明滅している。彼女には、それに返信する物理的な自由も、鏡を叩き割ってこの閉ざされた空間から外へ飛び出す自由も、等しく与えられていた。しかし、灰次の冷徹な視線が鏡の中で自分を捉え、その支配の結界が部屋中を埋め尽くしている限り、その「自由」は行使されることのない、透明で、かつ鋼鉄よりも強固な精神的枷かせでしかなかった。

 「……ねえ、灰次。今日は、どれだけこの肌を塗り潰せば、あなたは満足してくれるの? 私の肌が、呼吸の仕方を忘れてしまうくらいに? 鏡を見るたびに、そこに映っているのが誰なのか、私にはもう分からなくなっていくわ。これはシミや、寝不足の隈を隠すためだけのものじゃない。あなたは、私の内側から滲み出る感情そのものを、この厚い粉で、あなたの理想で、強引に窒息させようとしているんでしょう?」

 依織が、パフから舞い上がる白い粉の霧の中で、力なく、消え入りそうな声で呟いた。彼女の声はパウダールームの冷たいタイルに跳ね返り、救いようのない虚しさを持って彼女自身の耳へと返ってくる。彼女にとって、このメイクの時間は「美しくなるための準備」などではなく、自分という固有の人間を「灰次の作品としての記号」へと上書きし、魂を漂白していく剥製化の儀式だった。灰次が選ぶ色彩のパレットには、彼女の個性を生かすための色は一つもなく、ただ彼女の生々しい生命力を殺すための、毒を含んだ「純美」だけが用意されていた。

 「依織、君が後生大事に守ろうとしている『素顔』などというものは、単なる未完成の、野蛮な状態に過ぎないんだ。人間は、他者の眼差しという高度なフィルターを通してのみ、その混沌とした存在を確立し、物語として完成させることができる。このパウダーの一粒一粒は、君を低俗な日常の悩みや、つまらない生理現象から解放し、永遠の『被写体』へと昇華させるための聖なる塵なんだよ。君の友人たちが送ってくる薄っぺらな同情や退屈なランチの誘いなど、この鏡の中に構築された完璧な調和に比べれば、意味を持たないただのノイズに過ぎない。君は今、自分を失っているのではなく、私という絶対的な観測者の手によって、不要な不純物を取り除かれた『真実の依織』へと純化されている最中なんだ。もっと深く、その『愛の色彩』を肌に馴染ませろ。皮膚の毛穴一つひとつを、私の意志で、私の色で、完璧に塞いでいくんだ」

 灰次は、依織の顎を細い指先でくいと持ち上げ、鏡の中の彼女と視線を強制的に、そして暴力的に交差させた。彼にとって、依織の肉体は愛し合う対象ではなく、自らの美学という強烈な光を投影するための「最高級のスクリーン」であり、その表面にいかなるノイズも許さない、滑らかな素材である必要があった。

 「真実……。そうね、外の世界の誰かがこの完璧な写真を見れば、私は愛する人に一番綺麗な姿を見せようとしている、幸福の絶頂にいる女性に見えるのでしょうね。この粉の下で、私の肌が呼吸を求めて悲鳴を上げていることなんて、画面の向こう側の誰も、想像すらしない。あなたの愛は、私を飾るための装飾品じゃないわ。私を、あなたという冷たい額縁の中に閉じ込めて、二度と動けないように塗り固めて、私の時間を殺すためのセメントだわ」

 「その『拘束』を、世界は『無上の献身』と呼び、羨望の眼差しを向ける。さあ、仕上げだ、依織。その唇に、君の意志や言葉ではなく、私の欲望と計画が命じる色彩を乗せろ。世界が君に、そしてこの物語に求めているのは、一人の人間としての生々しい言葉や叫びではない。ただ、完成された一枚の静止画としての、何も語らない、沈黙の微笑みだけなんだ」

 灰次が依織に差し出した紅は、驚くほど鮮やかで、毒々しいほどに重い質感を湛えていた。依織はそれを震える指で受け取り、自らの唇を、あるいはそこから溢れ出そうとするすべての本当の言葉を封印するように、ゆっくりと、しかし確実に塗り潰していった。紅が肌に触れる冷感だけが、彼女がまだ生きていることを辛うじて伝えていた。

 パシャリ。

 フィルター“Velvet_Antique”が適用されたスマートフォンの画面の中では、パウダールームを支配していた冷酷な静寂は「朝の柔らかな光に包まれた、恋人たちの親密で神聖な儀式」へと、鮮やかに偽装された。依織の絶望によって濁りきった瞳は「深い思索に耽る高貴な静謐」へと変換され、彼女の肺を圧迫するような厚化粧は「内側から溢れ出す幸福の輝き」へと、致命的なまでの欺瞞をもって書き換えられていった。そこには、依織の指先にいつまでも残る化粧品の不快な脂の重みも、彼女の背後に立つ灰次の瞳の奥にある、彼女を一人の人間ではなく「完璧に管理されたオブジェクト」としてしか認識していない、絶対的な支配者の冷酷な情熱も、記録されることは決してなかった。

 「五十一枚目。……実に見事な顔だ。依織、君が素顔という未熟な皮を捨てれば捨てるほど、君は芸術としての純度を増していく。この瞬間の君は、どの名画よりも美しい」

 灰次が投稿ボタンを無機質に、事務的にタップし、依織の細い肩に手を置いた。その手は温もりを伝えるためではなく、一つの工程を完了した職人が、自らの作品に刻印を押すようなサインであった。

 「……ええ。もう、鏡の中に映っているこの女が誰なのか、私にはわからない。あなたのフィルターを通さないと、私は自分の顔さえ思い出せなくなる。ねえ、灰次、次は何を塗り潰すつもり? 私の震える声? それとも、あなたの知らない私の古い記憶のすべて?」

 依織は、鏡の中に静止している「完璧な他人」を見つめたまま、パウダーの粉が白く舞う、酸素の極端に薄い空気の中で、浅い、溺れるような呼吸を繰り返した。

 あと、九百四十九枚。


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