【005/1000】 庭園の腐敗と黄金比
【投稿記録:No.005】
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Photo Filter: "Afternoon_Garden"
Caption:
休日の午後。
何もしない贅沢を知る場所。
時間が、ゆっくり流れる。
二人で座るベンチ。
影だけが、そっと重なり合う。
#夫婦の時間 #庭園散歩 #穏やかな日常
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庭園に出たのは、午後二時を七分過ぎた頃だった。
光の角度を、灰次は事前に計算していた。影が最も美しく歪む時刻。二人が並んだとき、影だけが重なり合うように見える、そのわずかな瞬間を狙っていた。
依織が先にベンチに座った。
腰を下ろす動作に迷いはなく、木製の背もたれに体重を預ける。隣に空いた空間を、視線で示すこともなかった。
灰次は三秒ほど立ち止まり、それから同じベンチに座った。
二人の間には、人ひとり分の距離がある。
触れない距離ではない。触れなかった距離である。
ベンチの木材は、所々が朽ちている。表面に触れれば、湿った繊維がほぐれて指に付着する。座った瞬間、微かに軋んだ。その音を、二人とも聞いていたが、言及しなかった。
庭園は、三年前に植えた薔薇が枯れかけていた。
根元の土は乾燥し、葉の縁が茶色く変色している。水やりの頻度は週に一度。それも、依織が気づいたときだけだった。灰次は庭に出ない。出る理由がなかった。依織も、それを咎めることはなかった。
咎めるという行為は、相手に変化を求めることを意味する。
変化を求めれば、現状の均衡が崩れる。
崩れれば、一〇〇〇枚という数字が、意味を失う。
だから、咎めなかった。
風が吹いた。
薔薇の枝が揺れ、乾いた葉が一枚、地面に落ちる。音はなかった。
依織は、その葉を見ていた。
灰次は、依織の横顔を見ていた。
視線は、交わらない。交わらなかった三年間の延長として、今日もまた交わらなかった。
「撮ろう」
依織が言った。
声の温度は、ちょうど室温と同じくらいだった。高くも低くもない。抑揚もない。ただ、言葉が空気を通過しただけだった。
灰次は頷いた。
頷く動作も、最小限だった。首が三センチほど傾き、また元に戻る。それだけで了解の意を示すことができる。三年間で洗練された省略の技術だった。
依織はスマートフォンを取り出し、カメラを起動する。
画面に映るのは、二人の影だった。
ベンチの背もたれが作る影と、二人の上半身が作る影が、地面に落ちている。影の境界は曖昧で、どこまでが灰次で、どこまでが依織なのか、区別がつかない。
影だけなら、触れ合っているように見えた。
実際には、触れていない。
触れていないことを、二人とも知っている。
それでも、画面の中では触れ合っている。
それが、この作業の目的だった。
シャッター音が、一度だけ鳴った。
依織は画面を確認し、何も言わずにスマートフォンをポケットに戻す。その動作の間、灰次は庭の奥を見ていた。視線の先には、何もなかった。フェンスと、その向こうの空だけだった。
ベンチの軋みが、また聞こえた。
依織が少しだけ姿勢を変えたからだった。背筋を伸ばし、両手を膝の上で組み直す。その動作の最中、依織の左肩が、ほんの一瞬だけ灰次の右肩に触れた。
触れた瞬間、依織は体を引いた。
謝罪はなかった。
灰次も、何も言わなかった。
ただ、灰次の体温が、〇・二度だけ下がった。
依織の体温は、〇・一度だけ上がった。
数値として認識できるわけではない。ただ、皮膚の表面に残った感触が、そう告げていた。
灰次の皮膚は、触れられた部分だけが冷たく収縮する。
依織の皮膚は、触れた部分だけが熱を帯びて膨張する。
二人の身体は、接触を拒絶するように設計されていた。
設計したのは、二人自身だった。
三年間かけて、少しずつ、確実に。
二人は、再び黙った。
庭園の奥で、鳥が鳴いた。種類は分からない。高い声だった。
依織は、その声を聞いていた。
灰次は、聞いていなかった。
聞こえてはいたが、意識の中で処理されなかった。音は耳を通過し、そのまま消えた。灰次の意識は、左手の人差し指に集中していた。
指先が、微かに痺れていた。
痺れの原因は分からない。血流の問題かもしれないし、神経の圧迫かもしれない。あるいは、何でもないのかもしれない。ただ、痺れているという感覚だけが、確かに存在していた。
灰次は、その痺れを観測していた。
観測することで、痺れは定義される。
定義されれば、管理できる。
管理できれば、恐れる必要はない。
恐れなければ、何も起きない。
何も起きなければ、一〇〇〇枚まで到達できる。
依織は、立ち上がった。
「戻ろう」
灰次は頷き、立ち上がる。
二人は、同じ速度で歩き始めた。
庭園を出て、玄関に向かう。距離は十メートルほどだった。その間、二人の歩幅は完全に一致していた。意識的に合わせたわけではない。ただ、三年間で自然に同期しただけだった。
同期は、意図ではなく、結果だった。
玄関の前で、依織が先に靴を脱いだ。
灰次は、その間に鍵を取り出す。
扉を開け、依織が先に入る。
灰次が後に続く。
扉が閉まった。
玄関の照明は、点いていなかった。
依織は、スイッチに触れなかった。
灰次も、触れなかった。
薄暗い玄関で、二人は靴を脱ぎ、それぞれの部屋に向かった。
廊下で、すれ違うことはなかった。
依織は右の部屋へ。灰次は左の部屋へ。
扉が、それぞれ閉まった。音は、ほとんどしなかった。
依織は、部屋の中で染色の道具を見ていた。
布が、水に浸されたまま放置されている。藍色の液体が、容器の底に沈殿していた。表面には、薄い膜が張っている。
依織は、その膜を指で触った。破れた。
液体が、少しだけ波打った。
依織は手を引き、タオルで拭く。藍色が、タオルに移った。
移った藍色を、依織はじっと見ていた。
色は、物質に侵入し、繊維を染め上げる。
侵入された繊維は、元には戻らない。
不可逆な変質。
それが、染色という行為の本質だった。
灰次は、部屋の中で辞書を開いていた。
ページは、「こ」の項だった。
「幸福」という見出しがあった。
定義は、三行で書かれていた。
灰次は、それを読んだ。読み終えた。
何も思わなかった。
ただ、次のページをめくった。
「心中」という見出しがあった。
定義は、二行で書かれていた。
灰次は、それを読んだ。読み終えた。
何も思わなかった。
ただ、辞書を閉じた。
机の上に、スマートフォンがあった。
画面には、通知が表示されていた。
依織が投稿した写真に、いくつかのコメントがついている。
灰次は、画面を見た。
「素敵な時間ですね」
「お二人らしい」
「こんな関係を築きたい」
言葉は、どれも似ている。
灰次は、それらの言葉を読んだ。
読み終えた。
何も感じなかった。
感じないことが、正常だった。
感じてしまえば、システムが壊れる。
壊れば、一〇〇〇枚まで到達できない。
到達できなければ、心中は成立しない。
成立しなければ、二人は永遠に、この状態のまま生きることになる。
それは、耐えられない。
だから、感じなかった。
依織も、同じ通知を見ていた。
画面の明るさが、顔を照らしている。
瞳に、文字が映っている。
依織は、何も感じなかった。
感じなくなってから、どれくらい経ったのか分からない。
ただ、感じないという状態が、当たり前になっていた。
画面を閉じた。
部屋の照明を消した。
暗闇の中で、依織は布団に入った。
体温が、少しだけ上がった。
布団の中は、温かかった。温かさが、体を包んだ。
包まれている間、依織は何も考えなかった。
考えないことが、唯一の休息だった。
灰次も、照明を消した。
暗闇の中で、布団に入った。
体温が、少しだけ下がった。
布団の中は、冷たかった。冷たさが、体を包んだ。
包まれている間、灰次は何も考えなかった。
考えないことが、唯一の休息だった。
二つの部屋の間には、壁がある。
壁の厚さは、十二センチ。
音は、ほとんど通らない。
依織の呼吸音は、聞こえない。
灰次の呼吸音も、聞こえない。
ただ、二人とも、呼吸をしていた。
同じリズムではなかった。同期することもなかった。
ただ、それぞれが、それぞれの速度で、空気を吸い、吐いていた。
庭園のベンチは、夜の闇に沈んでいた。
朽ちた木材が、湿気を吸い込んでいる。
薔薇の枝が、風に揺れている。
葉が、また一枚、落ちた。
音は、なかった。
落ちた葉は、地面に横たわった。
誰も、それを拾わなかった。
拾う理由がなかった。
葉は、そのまま朽ちる。
朽ちて、土に還る。
還った土から、また何かが生まれる。
循環。
だが、二人の関係には、循環がない。
ただ、一方向に進むだけ。
一〇〇〇枚という終点に向かって。
終点に到達したとき、何が起きるのか。
二人は、知っている。
知っているから、進む。
進むしかない。
止まれば、この三年間が無意味になる。
無意味になれば、二人は何も残らない。
何も残らないまま生きることは、耐えられない。
だから、進む。
あと、九百九十五枚。




