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【038/1000】 洋館の寝室(ゲストルーム)と、見知らぬ誰かの夢


【投稿記録:No.038】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Dreamy_Haze”

 Caption:

 たまには気分を変えて、

 お洒落なゲストルームでお昼寝。

 ふかふかのベッドに身を沈めれば、

 まるで見知らぬ旅人になったみたい。

 どんな夢を見ようかな。

 隣には、いつもあなた。

 日常の中の、小さな非日常に感謝。

 #ゲストルーム #お昼寝 #夢心地 #インテリア

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 洋館の東翼、主人の生活動線からあえて外された場所に位置するゲストルーム(客間)は、正統な主人が不在のまま数十年という膨大な歳月が堆積した、静謐で空虚な「空白の部屋」だった。ここには、主寝室に染み付いている二人の逃れられない生活の残り香も、灰次が日常的に持ち込む撮影機材が放つ無機質な圧迫感も、本来は存在を許されないはずの場所だ。壁紙に繊細な筆致で描かれた淡い花唐草の模様は、窓から差し込む紫外線によって無惨に色褪せ、天蓋付きのベッドを幽霊のように覆うレースのカーテンは、時の重みそのものに耐えかねて弱り、指先でわずかに触れるだけで粉々に解けて霧散してしまいそうなほどに、危うく、脆くなっていた。

 灰次は、依織をその「見知らぬ誰か」のために誂えられた、冷え切ったベッドの中央へと横たわらせた。彼は演出家としての執拗さで、糊のきいた白いシーツにわざと不規則な波紋を立たせ、依織の細い身体がまるで重力から解放されて雲の峰の中に深く埋もれているかのように視覚的に演出し直した。窓から差し込む冬の柔らかな逆光を光学的に強調するため、彼は携帯用のミスト噴霧器を使い、空気中に超微細な水の粒子を充満させた。光の粒子が目に見える帯となって空間に停滞し、視界を白濁させる。それは、実体のないはずの「夢」という主観的な概念を、物理的な視覚情報として強引に定着させるための、極めて高度で、かつ吐き気を催すほど欺瞞に満ちたセットアップだった。

 「『旅人になったみたい』……。ねえ、灰次。私は自由な旅人なんかじゃないわ。自分の家の中にさえ、自分の肉体を置くための居場所を見つけられなくて、こうして誰も使わない、死んだ部屋を彷徨い歩いているだけの、哀れな迷子よ。このベッドの底から這い上がってくる冷たさは、かつてここに泊まった名もなき誰かが、去り際に置いていった古い孤独と絶望の残り香がする。ふかふかのシーツなんて嘘。これは、私を優しく包み込んで、音もなく窒息させるための、巨大な白いまゆのようだわ。見知らぬ誰かのふりをして、偽物の夢を見る前に、私は私自身の名前さえ忘れて、ただの模様に変わってしまいそう」

 依織が、首元まで強引に引き上げられたレースの縁を、白く震える指先で固く掴みながら、夢遊病者のような虚ろな声で呟いた。彼女にとって、この客間での撮影は、自らのアイデンティティがさらに希薄化し、溶けていくプロセスに他ならなかった。主寝室という「妻」としての最低限の役割さえも剥奪され、用途のない記号的な空間に配置されることで、彼女は人格を持たない「インテリアの一部」としての機能を、灰次のレンズによって強要されていた。

 「居場所というものは、物理的な座標によって決まるのではない。その空間にどれほど純度の高い『物語』を付与できるかという、編集の質によって決定される。君が自分を迷子であると感じ、不安に苛まれているのであれば、それはこの部屋が内包する『非日常』という記号が、極めて正しく、かつ効果的に機能している何よりの証拠だ。見知らぬ誰かの夢を演じ、その器になりきることは、自己という名の不自由で卑小な牢獄から脱出するための、最も効率的で慈悲深い手段でもある。このミストに乱反射する光の粒子、そしてシーツの純白。これらすべてのパラメーターが合致したとき、画面の中の君は、現実の苦悩や過去の汚辱に縛られた『依織』という個人ではない。それは、画面越しに覗き見る観測者が、自分たちの浅薄な幸福を投影するための、匿名で美しい『聖なる受容体』へと昇華されるんだ」

 灰次は、依織の青白い頬に、天蓋から垂れるレースの影が複雑で緻密な網目模様を落とし、彼女の素顔がどこか異形の、あるいは神聖な仮面を被っているかのように錯覚させる瞬間を、獣のような執念で追い求めた。彼にとってのゲストルームは、休息を与える場所ではなく、被写体から固有の「歴史」を剥ぎ取り、市場に流通可能な「純粋イメージ」へと加工・抽出するための、無菌状態の実験室であった。

 「ねえ、灰次。もし私がこのまま、本当にあなたの用意した誰かの夢の中に溶けて消えてしまったら……。あなたはそのとき、隣にある空のベッドで、一体何を見つめるの? そこに残された、体温の消えたただの白いシーツの窪みを丁寧にフォーカスして、『彼女はついに、この世界から自由になった』とでも誇らしげに書き込むのかしら。それとも、私の代わりを務めることができる、また別の新しい『器』をここに寝かせて、一〇〇〇枚の続きを撮り始めるの?」

 「君が夢の中に霧散することはない。君は、この一〇〇〇枚の連作という、私が緻密に設計した巨大な大伽藍の構造物の中に、欠かすことのできない情報の核として永久に幽閉され、保存されるからだ。器を替える必要などない。一度完成され、承認されたイメージは、それ自体が自律した美を放ち続ける。さあ、その無駄な言葉を飲み込んで瞳を閉じろ。そして、微かな、幸福な余韻に浸るような微笑を浮かべるんだ。今この瞬間、君は世界で最も幸福な、何も考えず、何も望まない、ただ美しいだけの夢の住人になれるんだ」

 灰次の冷徹な、そして呪文のような囁きに促され、依織はゆっくりと重い瞼を閉じた。人工的に散布された冷たいミストが、彼女の枯れた肌に触れ、やがて小さな滴となって目尻を伝い落ちる。それは、演出された夢心地の光景の中で、自らという存在が完全に消去されていくことを自覚した、静かな、しかし止めることのできない魂の涙のように見えた。

 パシャリ。

 フィルター“Dreamy_Haze”が適用されたスマートフォンの画面の中では、埃っぽく孤独に満ちた死んだ客間は「日常の喧騒を完全に忘れさせてくれる、幻想的でラグジュアリーな休息の聖域」へと鮮やかに、そして無慈悲に偽装された。依織の死後硬直を予感させるほど静止した不自然な身体は「夢心地の安らかなまどろみ」へと変換され、彼女が内側に抱える「自己消失の根源的な恐怖」は「旅人のような自由で軽やかな開放感」へと、美しく、そして暴力的に書き換えられた。そこには、数十年分の沈黙が染み付いた壁紙の無惨な剥げ跡も、灰次の瞳の奥底に常に宿っている、人間の尊厳を「有効な画素数」という尺度でしか測ることのできない、底なしの冷酷さも、一ピクセル分さえ記録されることはなかった。

 「三八枚目。……『匿名性』という新しい要素を物語に加えたことで、このシリーズの汎用性と市場価値は飛躍的に増した。君という存在は、回を追うごとに、より一層、私の理想とする完璧な『記号』へと近づいている。実に素晴らしい進歩だ」

 灰次が投稿完了のボタンを、感情を排した動作で無機質にタップし、ミスト噴霧器のスイッチを切った。部屋の中に立ち込めていた偽りの光の粒子は、魔法が解けるように急速に消え失せ、あとに残されたのは、カビ臭い空気と重苦しい現実の沈黙だけだった。

 「記号……。ああ、そうね。私はもう、名前も、声も、自分自身の夢さえも持つことを許されない、ただのシーツの上に描かれた白い模様なのね。一〇〇〇枚目が終わるとき、私はようやく、この見知らぬ誰かの、冷たくて終わりのない夢から覚めることができるのかしら。それとも、夢のまま終わるのかしら」

 依織は、シーツの深い窪みの中に沈み込んだまま、ピクリとも動かなかった。彼女の華奢な身体が作ったその窪みは、まるでそこに誰かが存在したという、最後にして最大の、空虚な証明のように、白く、深く、そこに刻印されていた。

 あと、九百六十二枚。


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