【003/1000】 煮沸される色彩と沈黙
【投稿記録:No.003】
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Photo Filter: "Indigo_Dream"
Caption:
工房に立ち込める、深い青の香。
一度染まったら、もう元には戻れない。
何層も何層も、
彼の色を重ねていく時間は
私にとって、何よりの救いです。
#職人の日常 #染色工房 #青の世界 #愛の重なり
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依織の工房は、常に湿った熱気と、植物の死骸を煮出したような、むせ返るような匂いに満ちている。
大型の寸胴鍋から立ち上る蒸気が、コンクリートの壁を絶え間なく湿らせ、天井からは名もなき色の雫が、涙のように床へ落ちる。
彼女は、白い絹の布を棒で突っつきながら、煮え滾る染料の中に沈めていた。
「……もっと、深く」
独り言は、沸騰する水の音にかき消される。
彼女の視線の先にあるのは、ただの布ではない。
それは、灰次という存在を包むための、あるいは彼自身の低体温を侵食し、彼女の色で塗り潰すための、物理的な意志の形だった。
依織の頬には、今日も変わらず微熱が宿っている。
汗が額を伝い、睫毛を濡らすが、彼女はその不快感にさえ、ある種の充足を覚えていた。
自らの熱が、染料を通じて布に伝わり、不可逆な変化を引き起こしていく過程。
その支配的な感触こそが、彼女が「寛容」という名の徳の仮面の下で、唯一呼吸を許される瞬間だった。
「依織。三枚目の撮影準備はできているか」
背後から、温度を持たない声が届く。
灰次が、冷え切った空気の塊を伴って工房に現れた。
彼の辞書編纂室から持ち込まれた無機質な気配が、工房の湿った熱量と衝突し、目に見えない火花を散らす。
灰次は、依織の作業着の汚れや、乱れた髪には目もくれない。
彼の関心は、あくまで「画面の中で、いかに色彩が機能するか」という点にのみ、極限まで絞り込まれている。
「ええ。この色が、一番あなたの好みに近いはずよ」
依織は、煮沸されたばかりの布を、熱いまま引き上げた。
滴り落ちる青い液。
それは、静脈の血を思わせるほど深く、暴力的な色彩。
灰次は無言でカメラを構える。
レンズ越しに、湯気に煙る依織の横顔を捉える。
そこにあるのは、献身的な芸術家の姿だ。
だが、灰次は気づいている。
彼女が布を掴むその指先が、熱さによる苦痛ではなく、何かを握り潰そうとするような、強欲な震えを帯びていることに。
シャッター音が、工房の騒音を一瞬だけ切り裂く。
その瞬間、現実は再び、滑らかなデータの肌へと変換された。
依織の火傷しそうなほどの熱も、工房を支配する死の匂いも、ネットの向こう側にいる観測者たちには届かない。
彼らに届くのは、ただの「美しい青」と、それを作り出す「高潔な妻」という、完璧な虚飾の物語だけだ。
「……これでいい?」
「ああ。構図としては、申し分ない」
灰次の返答は、いつものように節制されていた。
彼は、依織の微熱を肯定もしないし、否定もしない。
ただ、それを記述すべき素材として、距離を保って観測し続ける。
それが、彼にできる唯一の「心中」への準備だった。
もし、彼がその熱に触れてしまったら、彼の内側で凍結している「怠惰」という名の罪が溶け出し、収集がつかないほどの反応が溢れ出してしまう。
そうなれば、一〇〇〇枚という均衡は、一瞬で崩壊するだろう。
依織は、濡れた布を干し場へと運ぶ。
風に揺れる青い布は、まるで生皮を剥がされた死体のように見えた。
「ねえ、灰次さん。この色が乾いたら、あなたのシャツを作らせてね」
「……好きにすればいい」
灰次は、背を向けて工房を去る。
彼の足跡は、湿ったコンクリートの上で、たちまち白く乾いて消えていく。
依織は、彼が去った後の扉を見つめ、静かに呼吸を整えた。
喉の奥には、今朝から一度も発せられなかった、膨大な「未提出」の言葉が沈殿している。
『私をもっと見て』
『あなたの冷たさで、この熱を殺して』
『いっそ、この煮えたぎる鍋の中に、二人で』
それらの言葉は、決して音になることはない。
ただ、次に投稿される写真のキャプションの中に、「静かな情熱」という、無難な徳の言葉として反転され、消費されていくだけだ。
依織は再び、鍋に向き合った。
あと、九百九十七枚。
色の層が重なるたびに、彼らの関係性は、逃げ場のない深みへと沈んでいく。
それは心中という名の、世界で最も静かな、そして最も美しく偽装された、一つの定義の完成に向かって。
窓の外では、夕闇がすべてを塗り潰そうとしていた。
工房の中に残されたのは、冷め始めた染料の匂いと、行き場を失った二人の沈黙だけだった。




