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【022/1000】 早朝の公園と、不自然なジョギング


【投稿記録:No.022】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Early_Bird”

 Caption:

 少しだけ早起きして、

 二人で朝のジョギング。

 澄んだ空気を吸い込むと、

 体も心もリセットされる気分。

 今日も爽やかな一日のスタート!

 皆さんも素敵な一日を。

 #朝活 #ジョギング #ヘルシーライフ #夫婦

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 午前五時四十五分。夜という名の巨大な深海魚が吐き出した最後の残滓が、濃い藍色の澱となって地表に沈み込み、街路樹の葉先が凍てつくような朝露を重たげに滴らせている、生気のない時刻。

 灰次と依織は、近所の児童公園の錆びついた入り口に立っていた。二人は、スポーツ用品店で昨日調達したばかりの、汚れ一つない最新モデルのランニングウェアを纏っている。通気性と吸汗速乾性を極限まで追求したはずのその高機能合成繊維は、既に熱を失いつつある二人の肉体を包むにはあまりにも色彩が鮮烈すぎて、かえって死体を包むためのプラスチック製の袋のような、不気味な違和感を放っていた。灰次の心拍数は、これから運動を始める人間のそれとは思えないほど、低く、冷たく、機械的な一定のリズムを刻んでいた。これから行われるのは、肉体の鍛錬でも心身の昂揚でもない。ただ「健康的な朝」という、他者が消費するための抽象概念をレンズの奥の受光素子に焼き付けるための、極めて高度で空虚なパントマイムに過ぎなかった。

 「まずは、ストレッチから始めるわ。……ねえ、灰次。どの角度が、一番『これからの人生に希望を抱いている爽やかな二人』に見えるかしら」

 依織が、塗装が無惨に剥げ落ちた鉄棒に細く白い腕をかけ、アキレス腱を伸ばすポーズをとった。彼女の薄い唇から漏れる呼気は、冷たい空気の中で白く濁り、肺の奥に溜まった虚無を視覚化するように現れては、瞬時に霧散していく。その白い息さえも、彼女にとっては「生命活動の演出」という、欠かすことのできない安価なマテリアルの一部に過ぎなかった。彼女の肉体はしなやかに動いているが、その内部にある魂の歯車は、疾うの昔に潤滑油を失い、軋みを上げて停止しかけている。

 「そのままの姿勢で静止しろ。背景の針葉樹の隙間から朝日が差し込み、ハレーションを起こす角度を逆算する。ジョギングという動的な生の発露を、静止画という不動の虚構へと変換するには、この数分間だけの光の入射角がすべてだ。それ以外の要素は、この画像データには不要だ」

 灰次は、冷え切った芝生の上に片膝をつき、ローアングルから依織の細いシルエットを切り取ろうとした。ファインダー越しに見える彼女は、まるで朝の光に愛された妖精のように見えたが、肉眼で見る彼女の瞳には、周囲の景色を一切反射しない黒い穴が空いているだけだった。

 二人は、誰もいない公園の、ひび割れたアスファルトの周回コースを走り始めた。いや、正確には「走っているという記号」を空中に描くために、一定の速度で規則正しく地面を蹴った。

 実際には、二人の肺は一滴の酸素の枯渇も訴えてはいない。心臓は高鳴ることを拒絶し、ただ無機質な容積ポンプとして血液を淡々と送り出している。ジョギングによって得られるはずの、脳を麻痺させる多幸感ランナーズハイなど、この絶望の底に、自らの意志で錨を下ろした二人には縁のない現象だった。彼らが「リセットされる」と称して吸い込んでいる澄んだ空気は、肺胞を通り抜けるたびに、内側に堆積したヘドロのような虚無を冷たく冷却し、凝固させるだけの不活性ガスに過ぎなかった。

 「灰次、見て。あそこのベンチで、老夫婦が散歩の足を止めて笑っているわ。……あんな風に、私たちもなれたはずだったのかしら。それとも、あれも別の誰かが演出した虚像なのかしら」

 依織が、一定のリズムで並走しながら、前方の木陰にあるベンチを指差した。その声には、震えを隠しきれない、剥き出しの未練のような響きが混じっていた。

 「視線を向けるな。フォーカスを乱すな。我々の目的は他者との共感でも接触でもない。フレームの中に映り込む『幸福な一組のユニット』という、外界から完全に遮断された完結した世界を再構築することだ。あのような生身の老いや、予測不能な生命の揺らぎは、我々の純粋な死への行程を汚染する有害なノイズでしかない。我々に必要なのは、解釈の余地のない、磨き上げられた表面だけだ」

 灰次の声は、一定のリズムでアスファルトを叩く足音の間に、冷徹な楔として打ち込まれた。彼の視線は、依織の顔の数センチ先を常に捉え、その表情に「乱れ」が生じないかを監視していた。

 パシャリ。

 スマートフォンの連写機能が、朝の光を背負って並走する二人の姿を数枚のデジタル断片として固定した。

 フィルター“Early_Bird”を適用すると、まだ夜の暗さを引きずっていた公園の風景は、未来への希望に満ちた黄金色の夜明けへと、暴力的なまでに強引に変換された。画面の中の二人は、健康と活気に満ち溢れ、人生のあらゆる障害を軽やかに、かつ優雅に飛び越えていく完璧なパートナー同士であるかのように見えた。だが、現実の二人の足取りは、一歩ごとに地面の下の泥濘に沈み込んでいくような、目に見えない重苦しさを伴っていた。ウェアが擦れる衣擦れの音さえも、孤独な二人の間に流れる不快な摩擦音のように聞こえていた。

 投稿ボタンを押し、数秒で「いいね」の通知が画面を震わせ始めた瞬間、二人は示し合わせたように、同時に足を止めた。

 「……リセット完了、ね。……私の心も、これで真っ白に洗浄されたことになったのかしら。キャプションの通りに」

 依織が、激しい運動をした後だというのに額に一滴の汗も浮かんでいない、蝋人形のような顔で呟いた。

 「ああ。体も心も、これ以上ないほどにリセット……いや、完全に摩耗した。今日の投稿予定分における運動負荷のシミュレーションはこれで全て終了だ。これ以上の移動は、エネルギーの無駄に過ぎない」

 灰次は、左腕に巻かれた、心拍数や酸素飽和度を冷酷に計測し続ける高価なランニングウォッチのストップボタンを押した。記録されたのは、わずか四百メートルの「移動履歴」。それは、玄関からこの撮影スポットまでを往復しただけの距離だった。それ以上肉体を動かす意味は、心中を最終目的とするこの物語のどこにも、一ピクセル分さえ存在しなかった。

 二人は、再び深い藍色に戻り始めた空の下を、互いに一言も発することなく、重い足取りで家へと向かった。

 最新の撥水ウェアが冷たい空気と擦れる、シュッシュッという乾いた音だけが、静まり返った公園に空虚なこだまとなって響き渡る。

 「リセットされる」という、キャプションの中の軽やかな言葉の裏で、彼らの魂はまた一段、修復不可能なレベルまで薄く、鋭く削り取られていた。

 心の中の沈殿物は、朝露のように光を浴びて透明になることはなく、より重い鉛のような、そして底知れぬ粘り気を持って、二人の関節を、そして思考を、二度と動かなくさせていく。

 あと、九百七十八枚。


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