【002/1000】 言葉の死体安置所
【投稿記録:No.002】
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Photo Filter: "Dusty_Library"
Caption:
彼の仕事場。
世界中の言葉が、静かに眠る場所。
こうして一文字ずつ、
私たちの明日も綴られていくのね。
差し入れの珈琲を置いて、
私はそっと扉を閉めました。
#仕事風景 #書斎 #言葉の力 #静かな情熱
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辞書編纂室の空気は、常に一定の温度と湿度に保たれている。
紙という名の死体を腐敗させないため、あるいは、記述された意味が熱を持って勝手に動き出さないための措置だ。灰次にとって、この空間は自宅の食卓よりもはるかに呼吸がしやすい。
彼は古い集成材の机に向かい、ピンセットで繊細な蝶の羽を扱うように、言葉の断片を整理していた。
「『愛』──。この語釈を修正する必要がある」
灰次が独り言をこぼすと、冷え切った部屋の壁がその音を無機質に吸い込んだ。
辞書における定義とは、最大公約数的な平均値だ。誰の肌にも触れず、誰の体温も奪わない、乾燥した情報の塊。だが、灰次の指先がなぞる「愛」の項目は、あまりにも多くの人間の期待と誤認によって、肥大し、形を失っているように見えた。
彼はそれを、もっと削ぎ落とさなければならないと考えていた。
余計な叙情を排し、ただの「相互的な依存関係、あるいは幻想の共有」という、剥き出しの骨組みだけにするために。
デスクの端には、依織が置いていった珈琲が置かれている。
彼女は三十分前、音もなくこの部屋を訪れた。
「撮影」のための、完璧な小道具として。
灰次の横顔、古い辞書の背表紙、そして使い込まれた万年筆。それらが最も「それらしく」見える角度を見抜き、彼女はスマホのシャッターを切った。
その間、二人の間に言葉の交わりはない。
依織の指先が灰次の肩に触れようとして、その数ミリ手前で、まるで目に見えない絶縁体が存在するかのように静止したのを、灰次は網膜の端で捉えていた。
彼女の指先からは、常に淡い、だが確実な微熱が放たれている。
灰次はその熱を、冬の湖に投げ込まれた火種のように感じ、無意識に肩を竦めた。
「……珈琲、淹れたてだから」
依織の言葉は、寛容な妻という役割を完璧に遂行していた。
その裏側で、彼女がこの無機質な部屋の壁を、自らの血のような染色液で塗り潰したいという強欲な衝動を抱えていることを、灰次は知っている。
彼女は、この乾燥した言葉の標本箱を嫌悪している。
同時に、自分自身もその中の一つの項目として、灰次に永遠に固定されることを何よりも望んでいるのだ。
依織が去った後、灰次は珈琲に口をつけた。
熱い液体が喉を通るが、彼の内側にある冷感は微動だにしない。
低血圧の重みが、鉛のように四肢に溜まっている。
彼は画面を開き、投稿されたばかりの自分の写真を確認した。
そこには、真摯に職務に励む編纂者と、それを支える慎ましき妻の影がある。
ノイズはすべて「編集」され、二人の間にある決定的な断絶は、美しい「静寂」という名の語釈に書き換えられていた。
灰次は、万年筆を握り直す。
彼が今、本当に記述したい言葉は、この世のどの辞書にも載っていない。
それは、未提出のまま喉の奥で発酵を続ける、ドロドロとした感情の沈殿物だ。
それを一言で表す言葉を、彼はまだ知らない。
あるいは、それを定義してしまった瞬間に、彼という存在を支えている「節制」という名の防壁が、瓦解してしまうことを恐れている。
「……定義不可、か」
彼は原稿用紙の余白に、自分にしか見えない微細な文字でそう書き込んだ。
窓の外では、夕暮れが街を濁らせ始めている。
依織は今頃、自宅で布を染めているだろう。
彼女が布を煮出す鍋からは、むせ返るような色彩の蒸気が立ち上っているはずだ。
彼女が色を重ねるたびに、現実の輪郭は侵食され、彼らの心中への道筋はより鮮明に描き出されていく。
灰次は立ち上がり、資料室の奥へと歩を進めた。
背後の棚には、何万という言葉が眠っている。
それらはすべて、かつて誰かが「正しくあろう」として絞り出した、反応の残滓だ。
彼はその墓守として、今日もまた、偽りの一頁を綴じ合わせる。
一〇〇〇枚という数字が、頭の中で砂時計のように時を刻んでいる。
あと九百九十八枚。
その最後の一枚を撮り終えたとき、彼らの世界には、もう定義すべき言葉は一文字も残っていないだろう。
灰次は、誰もいない部屋で、一度だけ深く、熱を持たない息を吐いた。
吐き出された空気は、霧散することなく、重い沈殿物となって、古い言葉の海へと沈んでいった。
机の上の珈琲は、すでに完全に冷え切っている。
表面には、逃げ場を失った光が、薄い膜となって不気味に反射していた。




