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【018/1000】 日曜の朝のホットケーキと、隠された亀裂


【投稿記録:No.018】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Sunday_Brunch”

 Caption:

 日曜日の朝ごはん。

 ゆっくり起きて、二人で焼いた

 ふわふわのホットケーキ。

 メープルシロップをたっぷりかけて。

 甘い香りに包まれる、

 最高の週末のスタート。

 #日曜日 #ホットケーキ #ブランチ #幸せの香り

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 午前十時。カーテンの隙間から暴力的なまでの純白で差し込む日曜日の陽光は、ダイニングテーブルの鏡面仕上げの上に、昨日までは存在しなかった微細な塵の粒子を無慈悲に浮き上がらせていた。世界が休日という名の休息に浸る中、この家だけは「完璧な日常」という名の過酷な演算を再開させる。

 灰次は、テフロン加工が施されたフライパンの表面温度を、非接触型の赤外線放射温度計で厳密に測定していた。液晶に表示された数値は「160.2℃」。ホットケーキミックスのパッケージ裏面に記された、最も失敗が少なく、最も「標準的な幸福」を視覚的に再現するために最適化された適温だ。彼は、デジタル秤で一ミリグラムの誤差もなく計量された生地を、フライパンの中央へと正確に流し込んだ。

 ジュッ、という短い、断末魔のような蒸発音が静寂を切り裂き、人工的なバニラエッセンスの甘ったるい香りが換気扇の吸い込み口へと強制的に吸い込まれていく。この「幸福の匂い」がリビングの空気を満たせば満たすほど、灰次の内側では、現実感の喪失に伴う生理的な吐き気が、冷たいおりのようにせり上がっていた。

 「三枚ずつ、計六枚。直径は十二センチ、厚さは二センチに揃えて。少しでも歪んだら、それは『不幸せな朝』のノイズになるわ」

 依織が、冷蔵庫から無塩バターとカナダ産の最高級メープルシロップを取り出しながら、感情の起伏を完全に排除した事務的なトーンで指示を出した。彼女の今日の「衣装」は、SNS上で『寝起きの無防備な可愛さ』として熱狂的に消費されるために、数分前に鏡の前で計算し尽くされたオーバーサイズのパジャマと、意図的にわずかだけ乱された後れ毛で構成されている。彼女は、バターを正確に一センチ角の立方体へと切り分け、それをスープ皿の上で幾何学的な整列をさせていた。その光景は、これから行われるのが生命維持のための食事ではなく、極めて精巧な食品サンプルの組み立て作業であることを雄弁に物語っていた。

 「反転行程に入る」

 灰次はフライ返しを、生地の端のわずかな隙間に滑り込ませた。表面にプツプツと空いた無数の小さな穴は、生地が内部の熱に耐えかねて放った、最後の微弱な呼吸の跡だ。手首の返し一回。一気に裏返すと、そこにはレシピ本の表紙から切り取ったような、均一な小麦色の円が出現した。焦げ目一つない、あまりにも完璧すぎて生理的な嫌悪感さえ抱かせる「成功」。

 「……綺麗に焼けたわね。不気味なほどに」

 依織が横からフライパンを覗き込んだ。彼女の瞳には、焼きたてのホットケーキから放たれる熱量への食欲など微塵も宿っていない。そこにあるのは、素材としての完成度を厳格に査定する、冷徹な検品者の眼差しだけだった。

 二人は焼き上がったホットケーキを、真っ白な磁器の皿の上に、三枚ずつ定規で測ったように正確に積み上げた。その不安定な頂点に、依織が切り分けたバターの立方体を、ピンセットを用いるような繊細さで置く。最後に、メープルシロップを注ぐ。粘り気のある黄金色の液体が、重力に従ってホットケーキの側面をゆっくりと、官能的なまでの速度で流れ落ち、皿の底に水溜まりを作っていく。その光景を、灰次はスマートフォン越しに、冷めたレンズで観測していた。

 「今だ。シロップの光沢が空気中の酸素で失われる前に。最も『美味しそう』に見える一瞬を固定しろ」

 灰次はダイニングチェアの上に立ち上がり、天井近くから「フラットレイ」の構図でカメラを構えた。画面の中では、二人の間の絶対的な断絶も、心中という名の冷たい契約も、すべてがこの甘い香りのベールの陰に巧妙に隠蔽されている。

 パシャリ。

 乾いたシャッター音が、この日、二人が唯一交わした「共鳴」の記録となった。

 撮影が終了したと判断した瞬間、依織は先ほどまでの『理想の妻』というペルソナを剥ぎ取るように脱ぎ捨て、自分の皿を手に取ると、無造作にナイフを突き立てた。

 「……冷めて味が変わる前に、胃に流し込んでしまいましょう。一日の必要カロリー摂取というタスクを最短時間で終わらせるために」

 彼女は機械的な動作で、咀嚼もそこそこに食べ物を口へと運び始めた。灰次もまた、フォークを生地の深部へと突き刺した。口の中に広がるのは、暴力的なまでの糖分の甘さと、膨張剤の微かな粉っぽさ。それは、心中という静止した終着駅を志す者の舌には、乾いた砂を噛むような、あるいは死者の供え物を盗み食いするような、耐え難い不快感としてしか感じられなかった。

 「ねえ、灰次。気づいた?」

 依織が、最後の一片を口に運びながら、皿の縁を細い指でなぞった。

 そこには、昨日はなかったはずのごくわずかな、しかし鋭利な「亀裂」が一本、中心に向かって走っていた。

 「急激な熱変化による、陶器の熱膨張に伴う物理的な損傷だろう。消耗品に過ぎない」

 「いいえ、違うわ。この亀裂、昨日より少しだけ長くなっているの。まるで、この家というシステム全体が、私たちの間に溜まった絶望の重みに耐えきれなくなって、見えない場所から少しずつ割れ始めているみたい。……一〇〇〇枚目のシャッターを切る前に、この舞台装置自体が崩壊してしまったら、私たちはどこへ投げ出されるのかしら」

 依織の声には、微かな震えがあった。だがそれは、予期せぬ事故への恐怖というよりも、むしろこの偽装の日々が耐え難い外部要因によって一刻も早く破壊されてしまいたいという、切実で狂気じみた渇望に近い響きだった。

 「修復も補強も不要だ。建物の崩壊速度が、我々の心中までのカウントダウンを追い越すことは論理的にあり得ない。……あと九百八十二枚。それまでに、すべてのデータを揃え、システムを完結させる。それだけが我々の存在理由だ」

 灰次は、半分溶けたバターがこびりついた空の皿を見つめて言い放った。皿の上には、メープルシロップが乾燥して固まった、不快なベタつきと、自分の指紋だけが残っていた。

 「そう。……九百八十二枚。……遠いわね。吐き気がするほどに」

 依織は立ち上がり、音を立てずに椅子を引くと、食器をシンクへと運んだ。ガシャン、と陶器同士がぶつかり合い、削れる音が、静かなダイニングに鋭利な不協和音を奏でる。その音は、外の世界で繰り広げられているであろう、本物の平和な日曜日とは、決して交わることのない断絶の号砲だった。

 二人は、再びそれぞれの個室という名の静寂な独房へと沈んでいく。

 無人となったリビングには、甘いバニラの残り香が、火葬場の香典のようにいつまでも不気味に漂い続けていた。

 沈殿物は、皿の上のシロップのように、ゆっくりと、しかし着実な重力を持って、二人の魂の底で冷たく凝固し始めていた。

 あと、九百八十二枚。


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