【015/1000】 深夜のブラウジングと、青白い光の中の二人
【投稿記録:No.015】
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Photo Filter: “Cozy_Night”
Caption:
寝る前のリラックスタイム。
二人でおすすめの動画を見たり、
とりとめもない話をしたり。
青白い画面の光さえ、
隣に誰かがいれば温かく感じる。
今日も一日、お疲れ様。
#夜更かし #二人でスマホ #おやすみ前
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リビングのメイン照明は落とされ、部屋の輪郭は深い闇に侵食されていた。
灰次と依織は、ソファの両端に座っていた。その間にある一メートル以上の空白には、冷えた空気と、互いの干渉を拒む不可視の防壁が横たわっている。二人が手に持ったスマートフォンの液晶画面だけが、夜の底で鋭い発光体となり、二人の顔面を青白く、まるで死人のように照らし出していた。
灰次は無表情に親指を動かし、SNSのタイムラインをスクロールし続けていた。網膜を通り過ぎていくのは、見知らぬ他人の食事、旅行の風景、子供の成長、そして溢れかえるような「幸福」の断片。彼はそれらの情報を、単なるデジタル信号として脳のゴミ箱へ放り込んでいく。
「……ねえ、これ」
依織が、感情を欠いた平坦な声で言った。彼女は自分のスマートフォンの画面を灰次の方へ向けた。
「何だ」
「私たちの、さっきのスープの写真。もう、千以上の『いいね』がついているわ。……みんな、あの冷めきった泥のようなスープを、温かい奇跡だと思っているみたい」
灰次は画面を凝視した。そこには、“Warm_Kitchen”のフィルターで黄金色に輝く虚構の食卓が映っていた。
「それは、成功を意味する。観測者が我々の意図通りに誤認したということだ。誤認が重なれば、それは社会的な事実に昇華される。……それが、このシステムの根幹だ」
灰次は再び自分の画面に目を戻した。自分たちの投稿に寄せられた称賛のコメント。それらは、二人の絶望を覆い隠すための、最も薄くて最も頑丈なベールだった。
二人の会話は、そこから再び途絶えた。
部屋を支配するのは、スマートフォンのフリック音と、かすかな空調の動作音だけだ。依織は、誰かが投稿した「理想の結婚生活」を綴ったブログを、一文字も理解することなく目で追っていた。彼女の指先は微かに震えていたが、それは冷気のせいなのか、それとも内側から湧き上がる虚無の振動なのか、彼女自身にも分からなかった。
「……灰次」
「なんだ」
「この青い光、時々、水槽の中に沈んでいるみたいに感じるの。私たちは、誰かに飼育されている観賞用の幸福なんじゃないかって」
「飼育しているのは、我々自身だ。そして観客は、自分たちの内側にある空洞を埋めるために、我々という標本を必要としている。……共依存の関係だ。心中が成立するまで、この水槽のガラスは割ってはいけない」
灰次の言葉は、暗闇の中で鋭利な刃物のように光った。彼は依織を見なかった。見れば、彼女の瞳に宿る、システムにとって有害な「揺らぎ」を観測してしまうからだ。
灰次は立ち上がり、ソファの中央へ移動した。
依織との距離が、二十センチまで縮まる。これは「二人で仲良く画面を覗き込む姿」を撮影するための、必須の移動だった。
依織は慣れた動作で、灰次の肩に自分の頭を預けた。灰次の衣服から漂う、無機質な洗剤の匂い。灰次は、依織の髪が首筋に触れる感触を、単なる触覚神経の刺激として処理した。
「撮るぞ」
灰次がスマートフォンを持ち上げ、自分たちを画角に収めた。
インカメラのレンズが、青白い光に照らされた、表情を殺した二人の男女を捉える。
パシャリ。
その瞬間、二人は瞬時に離れた。依織はソファの端へ戻り、灰次は自分の部屋へ向かうために立ち上がった。
「加工と投稿は任せた。……明日は早い」
「……分かったわ。おやすみなさい」
依織の声は、暗い水槽の底に沈んだ小石のように、鈍い音を立てて消えた。
灰次は自室に入り、ドアを閉めた。
一人になった暗闇の中で、彼は自分の手のひらを見つめた。液晶の青い光の残像が、まだ網膜の裏側で蠢いている。
あと、九百八十五枚。
その巨大な数字の山を崩すために、彼は明日もまた、幸福という名の砂を積み上げ続けなければならない。
リビングでは、依織が一人で写真を加工していた。“Cozy_Night”。
二人の顔の青白い光を、温かみのあるオレンジ色に塗り替える作業。
彼女は、自分が作り出した偽物の光の中に、自分を閉じ込めていく。
沈殿物は、今日一日でさらに数ミリ、その厚みを増していた。
あと、九百八十五枚。




