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【010/1000】 塵の積もった記念品


【投稿記録:No.010】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Classic_Sepia”

 Caption:

 思い出の整理。

 棚の奥で見つけた、

 初めて二人で買った記念品。

 年月が経っても、

 あの時の気持ちは変わらない。

 大切な宝物。

 #記念日 #思い出の品 #夫婦の絆 #感謝

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 リビングの飾り棚、その最上段は、この家における「聖域」の形をした死角だった。

 灰次は椅子を引き寄せ、ギィ、と軋む音を立ててその上に立った。視線の高さが変わると、普段は見えない世界の細部が露わになる。棚の天板には、白く、きめ細かな塵が均一な厚みで積もっていた。それはまるで、音もなく降り積もった雪のようであり、この三年間、この場所がいかに徹底して無視されてきたかを雄弁に物語っていた。

 灰次は右手を伸ばした。指先が、その塵の層に触れる。ざらりとした微粒子の感触。それは死んだ皮膚の欠片や、繊維の屑、あるいは外から紛れ込んだ排気ガスの成れの果てだ。灰次の指が動いた軌跡だけ、黒い木目が傷跡のように露出した。その奥に置かれていた「それ」を、灰次は慎重に掴んだ。

 ケイ酸塩の塊。ガラス製のペアの置物。

 三年前の夏、不純なまでの日差しが降り注ぐ旅先で、二人が選んだものだった。当時の二人はまだ、言葉に「意味」が宿っていると信じていた。あるいは、信じようと互いに強要し合っていた。

 灰次が椅子から降り、ダイニングテーブルに置物を置くと、依織が音もなく近づいてきた。彼女の歩調は常に一定で、床を叩くスリッパの音さえも計算されたリズムのように正確だった。

 依織はテーブルの向かい側に座った。彼女の膝の上には、白く清潔な布巾が、まるで儀式を待つ祭具のように整然と折り畳まれていた。

 「汚れているわね」

 依織が言った。その声は、湿度を欠いた砂のようだった。非難でも懐かしさでもなく、ただ「〇・五ミリの塵が堆積している」という物理的状態を言語化したに過ぎない。

 「ああ」

 灰次は短く応えた。それ以上の語彙は不要だった。肯定、あるいは同期。二人の会話は、もはや情報の最小単位まで削ぎ落とされていた。

 依織は布巾を手に取り、置物の一つを手に取った。

 キュッ、キュッ、と、乾いた布がガラスを擦る音が静かなリビングに響き渡る。依織の指先は、迷うことなくガラスの曲面をなぞっていた。一度、二度、三度。彼女が腕を動かすたびに、三年前の記憶が灰次の脳裏で微かに火花を散らす。

 (あの時、店員は何と言ったか。永遠、だったか。それとも、不可分、だったか)

 灰次は、その思考を意識の底へ力ずくで沈めた。記憶を想起することは、脳のリソースを消費し、不要な感情の熱を発生させる。それはシステムにとって「ノイズ」だ。一〇〇〇枚という壮大な虚構を完遂するためには、過去はただの静止画であるべきだった。

 依織の手元で、ガラスの透明度が戻っていく。塵に覆われていたときは鈍く光を吸い込んでいた置物が、次第に照明を鋭く弾き返すようになった。

 「これ、二つの円が重なっているのね」

 依織が、磨き終えた置物を目の高さまで持ち上げて呟いた。

 「絆、という設計思想だったはずだ」

 灰次が答える。

 「絆」

 依織はその言葉を、口の中で味を確かめるように繰り返した。感情の伴わない反芻。彼女にとって、それはもはや記号でしかなかった。重なり合った二つの円。それは「絆」というよりは、互いの領域を侵食し合い、逃げ場を失った二つの閉鎖回路に見えた。

 依織はもう一つの置物も手に取った。作業は続く。

 窓の外では、夕暮れが街を紫色の影で塗り潰し始めていた。部屋の隅には影が溜まり、中央のテーブルだけが、舞台装置のように白く照らされている。

 依織の指先は、布越しに置物の底まで丁寧に拭い去った。塵は消え、そこには冷徹なまでの純粋なガラスが残った。かつての二人が抱いていた熱狂や、未来への期待といった不純物は、時間の経過とともに揮発し、今やこの透明な塊の中には何一つ残っていなかった。

 「綺麗になったわ」

 依織はそう言うと、二つの置物をテーブルの中央、わずか数センチの間隔を空けて並べた。

 触れない距離。決して交わることのない平行線。

 依織は慣れた手つきでスマートフォンを取り出した。

 画面越しに、磨き上げられた置物を覗き込む。背後には、焦点から意図的に外された灰次の手が、幽霊のように写り込んでいる。

 パシャリ、という無機質な電子音が、二人の「十枚目の幸福」を確定させた。

 一〇〇〇枚の、一パーセント。

 灰次は心臓の鼓動を一回分、強く感じた。それは達成感ではなく、カウントダウンの重みだった。一パーセントの成功は、この不毛な管理体制が正しく機能していることの証明だ。だが同時に、残りの九九パーセント――九百九十回の擬態を繰り返さねばならないという、絶望的なまでの停滞を意味していた。

 依織はすぐさま編集アプリを起動した。「Classic_Sepia」。不自然に黄色がかったフィルターが、冷たいガラスを「古き良き思い出」へと捏造していく。現実よりも遥かに温かな色が、画面の中を支配した。

 「戻しておくわ」

 依織は立ち上がり、椅子に登って置物を再び棚の最上段へと押し込んだ。

 灰次は、彼女が降りるのを待って椅子を元の位置に引いた。

 置物は再び、光の届かない場所へと帰還した。

 そこでは明日からまた、新しい塵が静かに降り積もるだろう。一〇〇〇枚目に到達する頃、その塵は遺灰のような厚みになっているかもしれない。灰次はそれを想像したが、すぐに打ち消した。

 「お茶を淹れるけれど」

 依織がキッチンへ向かいながら背越しに言った。

 「いや、部屋に戻る。作業がある」

 灰次はそう言い残し、背を向けた。

 二人は、それぞれの領土へ帰還した。

 廊下で肩が触れ合うことも、視線を交わすこともない。灰次は左の部屋へ。依織は右の部屋へ。

 パタン、パタン。

 二つの扉が、拒絶のような乾いた音を立てて閉まった。

 灰次は机に向かい、厚手の辞書を捲った。

 指先には、先ほど触れた塵の感覚が微かに残っていた。彼はそれをズボンの膝で拭い去ると、「き」の項を探した。

 「記念」

 定義は三行。彼はそれを一度だけ読み、すぐにページを捲った。

 「偽装」

 定義は二行。灰次はそれを、自分の心拍のリズムに合わせて音読した。声には出さず、喉の震えだけで。

 何も思わなかった。ただ、脳内の数値が「残り九百九十枚」に更新されただけだった。

 右側の部屋では、依織がベッドに腰掛けていた。

 画面の中では、先ほど投稿した写真に「素敵ですね」「理想の二人」という言葉が、死んだ魚の群れのように次々と寄せられていた。

 依織はそれらを一瞥し、スマートフォンの電源を落とした。

 部屋を支配する沈黙。その中で彼女は、自分の指先をじっと見つめていた。

 爪の間に、微かな白い粒が残っている。

 彼女はそれを、窓から差し込む一筋の月光の下で、ゆっくりと、慈しむように払い落とした。

 塵は闇に消え、二人の絶望だけが、床の上に重く沈殿していった。

 それは目に見えないが、確実に、二人の足首を掴んで離さない。

 あと、九百九十枚。


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