【001/1000】 塵一つない、あるいは無機質な朝食
人間性とは、使われなかった反応の扱い方である。
SNSに投稿される1000枚の「偽装された幸福」と、その裏側で堆積する「未提出の絶望」。
これは1000枚目が未提出のまま闇に消えるとき、二人の聖域が完成するまでの、不可逆な摩耗の記録。
【投稿記録:No.001】
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Photo Filter: "Morning_Classic"
Caption:
新しい一日。
彼が選んでくれたブルーのリネンと、
無機質なほどに整った朝食。
世界からノイズが消えて、
私たち二人だけの静寂が完成していく。
#丁寧な暮らし #静かな朝 #幸福の定義
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ファインダーの向こう側で、世界は「正しく」固定される。
三十五ミリの画角は、この部屋から余計なものをすべて排斥してくれる。
シンクに置き去りにされた昨夜の洗い物も、壁の隅で剥がれかかった壁紙も、生活が放つ粘ついた生活臭も。
このレンズを通せば、それらは最初から存在しなかったことと同義になる。
「その位置で、止まっていてくれ」
辞書を編むときと同じ、感情を排した無機質な声が自分の中から漏れ出す。
千石灰次は、低血圧による重い指先でシャッターを切った。
電子音が室内の乾いた空気を裂き、不確かな光の粒子が、誰にでも閲覧可能な記号へと変換される。
テーブルを挟んだ向かい側。
依織は、彫像のように完璧な角度で「幸福な妻」の輪郭を維持している。
彼女が選んだブルーのリネン。
その色彩は、彼女自身の静脈が透けるほど白い手首の色と、不気味なほどに同化していた。
「……ええ、わかっているわ」
依織の唇から、形にならない吐息が漏れる。
彼女は、自分が染色した布の繊維が、夫の視線という名の針によって一枚ずつ剥がされていくのを待っているようだった。
その頬には、慢性的な微熱が、逃げ場を失ったまま宿っている。
灰次の低体温を侵食しようと、音もなく空間を焼き、空気を歪ませる熱量。
「……これでいいのね? 灰次さん。あなたの辞書に、今日の私の色は正しく書き込まれた?」
「ああ。摂取栄養価としても、視覚的情報としても、許容範囲だ」
嘘ではない。
だが、その言葉を吐き出した瞬間。
喉の奥に、吐き出せなかった沈黙が、重いヘドロのような沈殿物となって溜まっていく。
灰次は、端末の画面をスワイプした。
そこには、今しがた「抽出」されたばかりの、一点の曇りもない幸福の断片が映し出されている。
現実の彼女を苛む微熱も、自分の指先の末端まで届かない冷たさも、そこには一切記録されない。
「……綺麗」
依織が、画面の中の自分たちを覗き込み、うっとりと呟く。
その視線は、隣に座る夫ではなく、発光する液晶画面の奥にある虚構へと向けられていた。
彼女は知っている。
ここに写っていないものこそが、自分たちを「心中」へと突き動かす唯一の燃料であることを。
二人の間にある空気は、熱を奪い合い、ただの冷淡な記号へと解体されていく。
一〇〇〇枚という執行猶予。
その最初の破片が、今、ネットワークという名の底なしの深海へと投棄された。
灰次にとって、言葉とは「固定」のための杭だ。
辞書編纂という仕事は、絶え間なく流動し、腐敗していく世界から意味だけを剥ぎ取り、標本箱に閉じ込める儀式に他ならない。
彼は朝食のトーストを、嚥下するためだけに口に運ぶ。
味覚は砂を噛むように無機質で、ただ「炭水化物の補給」という定義だけが脳内を滑り落ちていく。
「……今日のパン、少し焼きすぎたかしら」
依織が、空虚な問いを投げかける。
その声には、拒絶の意志が、どこまでも寛大な微笑みの膜に包まれて混入していた。
「いや。焦げによる炭化反応は、視覚的なコントラストとして有効だ」
灰次は答える。
彼が死守しようとしているのは、妻との対話ではなく、この静寂を包む「絶縁壁」の厚みだ。
もし、ここで「美味しい」と情動的な嘘をつけば、その瞬間に、この幸福な虚飾の純度が下がる。
もし、ここで「愛している」と言えば、その瞬間に押し留めていた汚泥が溢れ出し、心中への執行猶予は即座に尽きてしまうだろう。
依織は、夫の冷徹な肯定を、甘い不純物のように飲み下した。
彼女の指が、スマホの画面に湧き出る通知をなぞる。
世界中から届く「いいね」という名の、無責任な観測。
それらは、二人の間にある巨大な空洞を埋めるための、安価で脆いパテにすぎない。
「あと、九百九十九枚」
依織が、祈るように囁いた。
それは、完成された終わりへの渇望であり、同時に、この偽装された幸福を一日でも長く延命させたいという、強欲な執着だった。
「……ええ。一日一枚。それ以上は、僕たちの均衡が耐えられない」
灰次は、熱を持たない身体を揺らし、椅子から立ち上がる。
窓の外では、現実という名の騒々しいノイズが、暴力的な色彩を持って明転していく。
だが、この部屋の中だけは、永遠に現像されることのない暗室のような、濃密な死の予感だけが静かに沈殿していた。
光を吸い込まない黒い瞳で、灰次はテーブルの上の、食べ残されたパンの欠片を見つめる。
それはもう、次の投稿には映ることのない、ただのゴミだ。
あるいは、自分たちそのものだ。
朝食という儀式が終われば、灰次は仕事場へと向かう。
玄関で靴を履く際、依織が差し出したコートの襟元から、彼女の微熱が立ち上り、彼の首筋を撫でた。
「行ってらっしゃい。灰次さん。今日の夕食も、あなたが撮りやすいものにするわね」
彼女の献身は、灰次の低体温を抉るような鋭さを持っている。
彼は背を向けたまま、「ああ」とだけ答え、扉を開けた。
外の世界は、彼が記述すべき言葉の墓場だ。
バスを待つ群衆、排気ガスの匂い、意味をなさない広告の氾濫。
それらすべてを「雑音」として処理しながら、灰次の意識は、先ほど投稿したばかりの一枚の画像に、魂の一部を預けたままにしている。
あの一枚だけが、この汚濁に満ちた世界から彼らを切り離す。
あの一枚だけが、自分たちが「幸福である」という証明であり、同時に、一歩ずつ死に近づいているという不可逆な刻印だ。
スマホの画面をタップする。
自分たちが投棄した偽装の断片に対し、顔も知らない誰かが、羨望という名の唾液を垂らしている。
「憧れます」「理想の夫婦ですね」
それらの言葉が画面上に堆積するたび、灰次の絶縁抵抗はわずかに削られ、深層にある罪の沈殿は、その色を濃くしていく。
彼にとって、この投稿作業は「心中」という壮大な定義のための、前置きに過ぎない。
一千枚目が未提出のまま闇に消えるとき、世界は自分たちの「完全な死」を観測することさえできないだろう。
その絶対的な聖域へ至るために、彼は今日も、意味の死体を編む。
辞書編纂室の冷え切った椅子に座り、彼は「愛」という項目の空白を見つめた。
そこには、かつて彼が持っていたはずの感情の抜け殻だけが転がっている。
今の彼には、その言葉を定義する資格がない。
彼に許されているのは、依織の微熱を、冷酷な記述によって凍結させることだけだ。
昼休憩、彼は弁当箱を開ける。
それは依織が今朝、リネンを整える前に用意したものだ。
彩りは完璧で、栄養バランスも非の打ち所がない。
だが、その味は、やはり砂のようだった。
彼はその「食べられる標本」を口に運びながら、心の中で二枚目のシャッターを切る。
まだ撮影はされていない。
だが、彼の網膜には、すでに次の「偽装」が焼き付いている。
依織。
彼の喉の奥で、その名が沈殿物として澱んでいる。
彼女が欲しているのは、彼の言葉ではなく、彼が彼女を「幸福」の中に閉じ込め続けるという残酷な献身なのだ。
灰次は、低血圧の倦怠感に身を任せ、机に伏した。
まぶたの裏に、現像されない暗闇が広がる。
そこには、投稿されることのない自分たちの、本当の姿がある。
汗にまみれた皮膚。
震える声。
憎しみと紙一重の執着。
それらすべてを、彼はあと九百九十九回、拒絶し続けなければならない。
「……ああ、寒いな」
独り言が、冷たいオフィスに溶けて消える。
その寒さこそが、彼の生存確認であり、聖域へと至るための唯一の指針だった。




