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わらう若き哲学者たち

完璧な人

作者: 白髪書生

 茉莉花が突然、机の端に置いてあったホワイトボードを引き寄せた。

「ねぇ、朔たん。」

 振り向いた朔貴が、本から視線を外す。

「ん…」

 茉莉花の瞳がきらりと光る。

「完璧な人って、かけがえのない人になれるかな?」

 唐突な問いに、朔貴はまばたきをひとつ。

「ん?」

 茉莉花はすでにペンを走らせていた。丸い円を描き、その中に顔のような落書きを加える。さらに四角いフレームをかけさせると、小さなキャラクターが出来上がった。


「例えば、人間が持ってる要素を色々書き出したとするでしょ?」

 茉莉花は説明するように指をくるくる回し、描いた顔を指差した。

「…………」

 朔貴は言葉を飲み込み、静かに落書きを見つめる。

「これ、朔たん!」

 茉莉花がにこりと笑う。

「だと思った。」

 小さく肩を落としながら、朔貴は苦笑する。


 茉莉花はすぐに次の図を描き始めた。円の中にアルファベットを並べる。

「んでね、その人の持ってる要素をAとかBとかで書けるとする。例えば、Aは数学好き、Bは目が茶色、Cはくせっ毛、Dは潔癖症…」

「潔癖で悪かったね…」

 朔貴のぼやきを、茉莉花は笑い飛ばす。

「んで、もちろん。持ってない要素もあって、Eは料理上手、Fはミリオタ、Gは女の子…」

 さらさらとE、F、Gを欄外に書き込む茉莉花。

 ホワイトボードには、丸顔の朔貴を中心に、足りない要素が外側に浮かぶ奇妙な図が完成していた。

彼女はホワイトボードの隅に、もうひとつ丸いバルーンを描く。輪郭はどこか歪んでいて、計画性のなさがにじみ出ていた。中に書き込まれたのは、AとB、そしてG。

「んで、他の子もいてね。」

 そのバルーンは、どう見ても自分をモデルにしていると分かる。眼鏡をかけた小さな朔貴の落書きの隣で、茉莉花を象徴する風船がふわふわと並んだ。

「こんな感じで、人間を形作る要素を、全部アルファベットで表現できる。で、それを内包するかしないかで“人間”って作れるんじゃないかな、っていうモデルを考えてみたの。」

 朔貴はペンをくるくる回しながら、小さく息を吐いた。

「ふぅん。」

 気のない返事に聞こえるが、目は茉莉花の描いたモデルを追っている。

「んでね、完璧な人っていうのは、そのアルファベットを全部持ってる人!」

 茉莉花は声を弾ませ、ホワイトボードにぐるりと大きな円を描いた。

 その中に閉じ込められたのは、AからGまで、すべての文字。

 ちんまりと眼鏡をかけた朔貴の落書きも、その横で少し歪な円を抱えた茉莉花の落書きも、丸ごとひとつの大きな集合に吸い込まれていった。

 ホワイトボードは、まるで人間という存在の設計図のように、無数の文字と小さな落書きで埋まっていた。

 茉莉花が描いた大円に文字が並んでいく。完璧な人のモデルは、もうホワイトボードの中に完成しかけていた。


「待った。」

 静かに手を挙げる声が、彼女の勢いを止めた。

「何かな?織部助手。」

 茉莉花は得意げに顎を上げる。

「誰が助手だよ……」

 朔貴は額に手を当て、すぐに本題へ切り替えた。

「じゃなくてさ。人間を構成する要素をアルファベットで表現するって言ったよね?」

「うん。」

 茉莉花は首をかしげる。

「相反する性質はどう扱うんだよ。例えば、Hが“大きい人”で、Iが“小さい人”とか……」

「Hで“大きい人”?それは夢のある大きさだね…」

 茉莉花がわざとらしく唇に手を当てて言った。

「な、何言ってんだ!」

 朔貴は思わず声を裏返らせる。

「じょーだんじょーだん。」

 楽しそうに笑いながら、茉莉花は手を振る。

「そういうのはさ、“任意のタイミングで性質を変えられる”ってことにしとこうよ。両方の性質を内包してるって扱いで。」

 朔貴は腕を組んで、少しだけ目を細めた。

「万能者のパラドックスみたいな乱暴な解決法……まぁ、いいか。」

 朔貴がホワイトボードの図をじっと眺めていると、茉莉花がまたペンを握り直した。


「じゃあ次に、“かけがえが無い”を定義してみようか。」

 唐突な宣言に、朔貴は眉をひそめる。

「……簡単に言うけど、定義できるようなもんなのか?」

「もちろん!」

 茉莉花は勢いよく頷く。ペン先でボードをコンコン叩きながら、わざと教授めいた口ぶりで続けた。

「まず、“かけがえが無い”って言葉は、代替可能性の問題だと思うの。」

「代替可能性?」

「うん。もしAさんを失っても、Bさんが完全に代わりになれるなら、Aさんは“かけがえがある”人。逆に、誰もその穴を埋められないなら、“かけがえが無い”人ってこと。」

「……なるほど、集合論的に言えば、要素の唯一性か。」

「そうそう!朔たんやっぱり分かるの早い!」

 茉莉花は楽しそうに、円と円が部分的に重なり合う図を描く。

「でね、もし誰も持ってない要素を一つでも持っていれば、その人は唯一無二、つまり“かけがえが無い”になる。どう?」

 朔貴は腕を組んで、静かに考え込んだ。

「……それだと“完璧な人”は逆に、かけがえが無いとは言えなくなるな。」

 茉莉花はにやりと笑って、わざとらしく片目をつぶった。

「その矛盾が面白いんじゃない?」

 茉莉花はにこにこと笑っていた口元をふと引き結び、ホワイトボードの前に立ったまま、少し声のトーンを落とした。


「でもね。このモデルの怖いところはここからなの。」


「?」

 朔貴は、彼女の真剣な声音に眉を寄せる。

「完璧な人が現れる前、それぞれの個体には“可能性”があったの。」

 茉莉花は、ボードの上でいくつもの小さなバルーンを指先で示した。

「自分の持ってるアルファベットが唯一無二である可能性が。ね?」

 彼女のペン先が走り、“唯一性”と大きく書かれる。

「つまり――『かけがえが無い』を要素の唯一性で定義するとするでしょ?」

 朔貴は小さく頷いた。

「……完璧な人がひとり現れただけで、要素の唯一性は喪われるの。」

 茉莉花の声は静かだった。だが、その静けさがかえって不気味さを強調する。

「その瞬間、だれも“かけがえが無い”存在じゃなくなっちゃうんだよ。」

 ホワイトボードの中で、大きな円がすべてのアルファベットを飲み込み、小さな朔貴や茉莉花の落書きを覆い尽くしていた。

 朔貴は、わずかに息を呑んだ。

「……それは、恐ろしいな。」


 茉莉花はくるりと振り向き、ホワイトボードの前でペンを両手に持って振り回すように笑った。

「子どもの頃さぁ、完璧超人になりたいなぁって、なんとなく思うじゃん?」

 無邪気に言いながら、彼女は背伸びをして大きな円をなぞる。

「何でもできる人になりたいって!そしたら誰からも愛されるような気がしてさ。」

 朔貴は黙ったまま、その言葉を聞いていた。茉莉花の声には明るさがあったが、その裏で冷たい響きが混じる。


「でもさ――」

 茉莉花はペン先をくるくる回してから、片目をつぶって小悪魔めいた笑みを浮かべた。

「それって、自分どころか、世界から『唯一性』を亡くすテロリストなのかもね〜❤」

 軽やかな口調で放たれた言葉に、部屋の空気が一瞬止まった。

 ホワイトボードの中の「完璧な円」が、不気味に光を放って見える気がした。

 朔貴は少し考えてから、ホワイトボードに向かう茉莉花に言葉を投げた。


「でも、そのモデルは乱暴すぎるよ。」

「ん?」

「人間の唯一性って、要素の希少性だけじゃないだろ。関係とか、文脈とか……そういうものにも左右されるんじゃないの?」

 茉莉花はくるりと振り返り、ペンを顎の下に当てて首をかしげる。

「ふむふむ、関係性要素ね〜?」

「例えば――同じアルファベットを持ってる人が何人もいたとしても、俺にとっては茉莉花は唯一、ってなる場合がある。要素が被っていても、関係が違えば代替はきかないはずだ。」

「…………」

 茉莉花の瞳に、一瞬だけ真剣な光が宿った。だが次の瞬間、彼女は声を弾ませる。

「あはは〜!じゃあ朔たんなりの改良モデル、期待してる〜❤」

 ペン先を振って、わざと挑発的にウィンクする。その仕草に、朔貴は肩をすくめるしかなかった。


 その晩。

 授業の予習と復習を終え、机のランプの下でノートを閉じた朔貴は、ペンを指先でくるくると回した。静かな部屋の中に時計の音だけが響く。

 ふと、夕方の茉莉花とのやり取りが脳裏によみがえる。

──ホワイトボードに描かれた丸い顔、アルファベットの羅列、大きな円がすべてを飲み込む図。

「完璧な人が現れたら、誰もかけがえがなくなる」

「唯一性は、要素の唯一性だ」

 茉莉花が楽しげに笑いながら放ったその言葉。だが、言葉の裏に潜む冷たさが、ずっと頭に残っていた。


「……でも、やっぱりモデルが乱暴だよな。」

 小さくつぶやく。

 人間の価値は単なる属性の集合では測れない。

 例えば、同じ“数学好き”や“茶色い目”を持っている人間が何人いようと、自分にとって茉莉花はひとりしかいない。

 属性ではなく、関係。

 文脈が人を唯一にする。

 集合の外にもう一つ次元を設けなければ、この世界の人間を説明できない。

 朔貴はノートを開き直し、余白に丸や矢印を描き始めた。

 「要素の集合」から「関係性の網」へ。

 茉莉花が言った“唯一性”の定義を補うように、彼なりの改良モデルが少しずつ線となって浮かび上がっていく。

 ランプの灯りに照らされて、鉛筆の走る音が長い夜を刻んでいた。


 翌日。放課後の化学準備室。

 フラスコとビーカーが整然と並ぶ中、朔貴は一冊のノートを手にしていた。

「ねぇねぇ、助手くん。また難しい顔してる〜?」

 茉莉花が椅子を逆さにして腰掛け、頬杖をつきながらにやにやと見上げてくる。

 朔貴は少しだけためらったあと、ノートを机に置いた。

「……昨日の話、考え直してみたんだ。」

「お?」

 茉莉花の目が輝く。


 ページを開くと、そこには円や矢印が複雑に絡み合った図が描かれていた。

「君のモデルだと、人の唯一性は“要素の希少性”に還元されていたよね。でも、それだと完璧な人が現れた瞬間、誰も唯一でなくなる。」

「そうそう!私のテロリスト仮説だね〜❤」

「……でも、人間の価値は単なる要素だけじゃ測れないと思う。」

 朔貴は鉛筆で図の矢印をなぞる。

「同じ要素を持っていても、“誰と関わったか”“どんな文脈でその要素が表れたか”によって、唯一性は変わるはずだ。」

 茉莉花は机に身を乗り出し、目を凝らす。

「関係性モデル?」

「そう。要素は点でしかない。でも、その点同士をつなぐ線――つまり関係――があることで、人は“誰にも代えられない存在”になるんだ。」


 茉莉花はしばらく図を眺め、やがて口元に笑みを浮かべた。

「……なるほどねぇ。助手くん、やるじゃん。じゃあ、このモデルに従えば――」

 彼女はペンを奪い取るようにして、ノートに新しい矢印を引き足した。

「“榎本茉莉花”って要素が、“織部朔貴”って要素と結ばれてる限り、私の唯一性は保証されるってこと?」

「なっ……!」

 朔貴は赤くなって言葉を詰まらせる。

「わー、理論武装したラブレターだねこれ〜❤」

 茉莉花のからかうような笑い声が、準備室に弾けた。


 茉莉花はノートを指でトントン叩きながら、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「でもさぁ……」

「?」

 朔貴が首を傾げる。

「この“完璧な人”がさ、もし朔たんと繋がっちゃったら、どうなるの?」


 その一言に、空気が一瞬固まった。

 朔貴は図の矢印を見下ろす。そこには「唯一性」を保証するはずの関係線が走っていた。だが、茉莉花の問いは、その線の強度を揺さぶるものだった。

「……そ、それは……」

 言葉に詰まり、ペン先が宙を泳ぐ。

 茉莉花は机に身を乗り出し、にやりと笑う。

「要素も完璧。関係も手に入れちゃったら、私の唯一性はどこ行っちゃうのかな〜?」

 声は楽しげだが、その奥にほんのわずか、不安や寂しさの影が滲んでいるように思えた。


 朔貴は視線を落としたまま、拳を握る。

 苦し紛れに絞り出した声は、自分でも頼りなく聞こえた。

「……そんなの、現実で起こり得ない。もし起こったとしたら……どういう現象なんだ、それは……」


「例えばね。」

 茉莉花は嬉々として続ける。

「完璧な人が私の姿も形もぜーんぶ真似て、記憶まで引き継いじゃったとしたら――たぶん朔たん、気付かないよ?」


「……いや、でもおかしい。」

 朔貴は顔を上げ、反論する。

「その場では唯一性が喪われるかもしれないけど……俺と会っていた“完璧な人”との記憶を、本物の茉莉花が持たないことになる。だったらそこに、また新しい唯一性が生まれるはずだ。」


「じゃあさぁ。」

 茉莉花はにんまり笑い、ペンをくるりと回す。

「完璧な人が朔貴と“ばいばーい”したあとで、その分の記憶を私にぜ〜んぶ植え付けちゃったら?」

「……ほら、やっぱり唯一性はなくなった。」

 朔貴の胸に、嫌な寒気が走った。


 記憶を得て、入れ替わって、植え付ける……?

 何でもありじゃないか。そんなの出来たら、それはもう……


 考えがまとまるより先に、茉莉花が顔を近づけて囁いた。彼女は『完璧な人』をよく知られた名前で呼んだ。

「わたしたち、もしかしたらちょこちょこ神様と入れ替わってんのかもね。」

 その言葉と同時に、彼女の口元に浮かんだのは、意地悪で――けれど心底楽しそうな笑み。

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