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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
9/20

Episode8:二人での暮らし

---

 


優希は展示台の上に腰を下ろし、工具箱を開いた。ペットコーナーと工具コーナーのあいだ。かつて高圧洗浄機や草刈機を展示していた場所を加工して、自分だけの拠点に作り変えた場所だ。


人目を避けつつ、空間を見渡せるこの場所は、優希にとって安心できる「高さ」だった。


 


——けれど、今はそこに、わずかな「違和感」がある。


 


展示台の下、ペットコーナーのあたり、誰かの足音。優希は片膝を立てたまま、その気配に耳を澄ませる。


すみれだ。


昨日、医務用の仮設スペースに寝かせたはずの彼女が、少しずつ活動を始めていた。大きめのパーカーの袖をまくり、ほこりの積もった棚を、濡れた布でそっと拭いている。


言葉はない。だがその動きには、目的と節度がある。


 


優希は道具箱に目を戻し、手の中の金具を無言で組み合わせた。自分ひとりのリズムに誰かが入り込んでくる。それは思ったより、強く心に波紋を投げかけた。


 


「……」


一度、降りて声をかけようか迷う。だが、すみれは特に困っている様子もなく、ただ静かに掃除を続けていた。


ときおり、優希が展示台から脚を下ろし、作業のために下に降りようとすると、すみれはそっと道を開ける。何も言わず、他の棚へと自然に動く。まるで、もとからそこにいた人間のように。


優希は、その気遣いに気づきつつ、口を開けずにいた。


 


――無言のまま暮らすって、こんなにも疲れるんだっけ。


 


かつての「ひとり暮らし」は自由だった。自分の動きがすべて基準になった。だが今は違う。自分の動線、生活音、休憩時間さえも、誰かの気配を意識して調整しなければならない。


優希は、展示台に戻りながら小さく息を吐いた。


 




 


その日の夕方、展示台の縁から下を見下ろした優希は、決意したように声をかけた。


「あの……すみれさん?」


「……うん?」


布を畳んでいたすみれが、顔を上げる。少し疲れた目をしていたが、微笑みのかけらが浮かんでいた。


「寝床さ……こっちに移さない?」


「え?」


すみれは一瞬、理解が追いつかなかったようだった。


「その……今は医務スペースにいるでしょ? でもあそこ、俺から目が届きにくい。もし夜に具合悪くなったら、気づけないと思って」


少し口ごもる。あくまで理由は“安全のため”だが、それだけじゃない。無意識に、優希自身が「誰かが見える範囲にいてほしい」と感じていたことも否定できなかった。


 


すみれは黙ったまま、数秒だけ考え込む。目を伏せて、それからゆっくりと返事をした。


 


「……ここで寝るのって、展示台の上で?」


「ううん、下でいい。台の下のこのへんにマット敷いて。物陰になるから、少しは落ち着くと思う」


「……わかった。ありがとう。そうしても、いい?」


「もちろん」


 


すみれの目に、わずかな迷いと安心が交錯していた。


——自分のために誰かが動いてくれること。


——それが見返りでも下心でもなく、ただの善意であること。


それに戸惑いながらも、彼女は素直に「ありがとう」を返した。


 



 


夜、展示台の上からは、薄暗いソーラー照明の明かりがぼんやりと売り場を照らしていた。


静まり返った店内の中、展示台の下、マットと毛布を並べたすみれが横になっている。


優希は上で背を壁に預け、軽く足を組んだまま缶詰のラベルを読みながら、時折視線を下に向けた。


「……寒くない?」


「うん、大丈夫」


 


会話はそれだけ。


けれど、それでも互いの存在が近くにあるということは、孤独では得られない安心を生んだ。


 


やがて、すみれは布のかすかな音をたてて寝返りをうつ。


その横顔は、安らかではない。けれど、たしかに「今ここで」眠ろうとしている誰かの顔だった。


 


優希は、展示台の縁に脚をぶら下げ、背中の壁にもたれながら、暗がりに目をこらす。


 


そしてふと、さきほどの夕方の場面を思い出す。


食料棚の分類を整えていたすみれの手元。色別に缶詰を並べ、ラベルの向きをそろえていた。


ただの作業。でもそれは「誰かがここにいる」空気を、ささやかに整える動きだった。


 


優希は、ぽつりとつぶやいた。


 


「……綺麗だな」


 


誰に聞かせるでもなく。


ただ、自分の胸のなかで浮かんだ言葉を、そっと落とすように。


 


展示台の下から、返事はなかった。


けれどその静けさは、どこか優しかった。


 

---



 翌朝、乾いた空気と、わずかに金属臭を含んだ匂いに混じって、かすかに異質な香りが漂っていた。

寝袋の中で目を開けた優希は、その匂いに違和感を覚えながら、身を起こす。


 展示台の上から、ホームセンターの吹き抜けを見下ろすようにして、視線を巡らせる。ペットコーナーと工具売り場の間、その一角にある簡易調理スペース──棚を立てかけて作った風除けの奥がキッチン代わりになっている。


 そこに、すみれの後ろ姿があった。


 パーカーの裾から覗くスウェット姿。髪はまだ寝癖が取れていない。彼女は小さなカセットコンロの前にしゃがみこみ、何かをかき混ぜている。


 近づくと、やさしい匂いが鼻をかすめた。コンソメに乾燥野菜、そして缶詰の鶏肉か何かだろうか。湯気の立つ鍋をかき混ぜるすみれの手は、まだ少し震えていた。


「……作ってくれたの?」


 優希の声に、すみれは肩をすくめて振り返った。


「うん。火だけ借りたよ。無理に食べなくても大丈夫」


 すみれはそう言って、目をそらすように鍋に視線を戻した。どこか申し訳なさそうだった。


「いや、ありがとう。……ちょうど腹減ってた」


 優希は遠慮なく座り、小さな器を手に取った。熱いスープをすする。


 その一口で、身体の芯までじんわりと温まっていくのを感じた。


「……うまい」


 思わず漏らすと、すみれはほんの少し笑って「よかった」とだけ言った。


 誰かが作った食事を食べる。誰かのために作られた食事を口にする。それが、こんなにも心を落ち着かせるものだったとは。


 展示台の拠点に戻る道すがら、優希はふと、すみれと一緒にこのスペースをもう少し整備しようかと思い立った。

狭くてもいい、風除けを強化して、調理道具を一箇所にまとめて、少しだけ整ったちゃんとした"台所"にできれば──。


 朝のスープの余韻が、彼の背中を静かに押していた。



 午前、屋内の見回りを終えた優希は、医薬品の在庫確認のために奥の棚へ向かう。

すみれの看病をきっかけにもう少し内容を充実させようと考えていた。

棚には絆創膏や消毒液、風邪薬など使用頻度が高いと判断したものが並べてある。が、その配置に、彼は思わず眉をひそめた。


「……あれ、変わってる?」


 小声でつぶやきながら棚を見つめる。


 いつも右端に置いていた解熱剤が中央に移動していた。バンドエイドの箱が二列に重なっている。見覚えのないメモ紙も挟まれていた。


 背後から、すみれの声が届いた。


「ごめんね。ごちゃごちゃしてたから、少し並べ替えたの。……戻しておこうか?」


 その言い方は、申し訳なさを含みつつも、どこか気遣いが滲んでいた。


 優希はしばらく無言で棚を見ていたが、ふっと息をついて首を横に振る。


「……いや、俺が分かりやすいように棚にラベル付けてなかったのが悪い」


 彼は薬の位置を何度か確認しながら、元の配置に戻す手を止めた。


 そのとき、すみれが静かに近づいて、小さなマグカップを差し出した。


「落ちついたら、一緒に使いやすく整えよう?」


 差し出されたカップには、薄いお茶。たぶん、緑茶のティーバッグを一度使った後にもう一度お湯を注いだものだろう。色は薄く、香りもかすかだが、心を落ち着かせる温かさがあった。


「……ありがと」


 優希は受け取りながら、彼女の距離の取り方をどこか不思議に感じていた。踏み込みすぎず、下がりすぎず。たった数日の知り合いにしては、絶妙に"干渉しない優しさ"を持っていた。


 その日の夕方、彼らは並んで古い什器の解体をしていた。調理スペース用に、使えそうな板材と金具を回収するためだ。


 何かを一緒に整えるという行為が、こんなにも静かで、穏やかなものだとは。


 優希は、すみれの側に立つことへの戸惑いを少しずつ手放していた。


 それでも夜、展示台に戻り、薄暗い明かりの下で交わす会話は、まだどこかぎこちなかった。



 その夜、互いに寝袋に入ったまま、小さく言葉を交わす。


「明日、棚組もうか。調理スペースの」


「うん。あの板材、まだ使えそうだったし」


 話はすぐに終わった。


 でも、ほんの少しだけ安心して、ふたりは眠りについた。



---

翌朝、優希は冷えた空気で目を覚ました。昨夜は天井の明かりも早めに落としたせいか、寝袋の中のぬくもりがまだほんのり残っている。外からは風の音。吹き抜けのどこかでポスターがばたつくような音が聞こえる。

 展示台の上に腰を起こすと、すでにすみれの姿はなかった。


 調理スペースを覗くと、彼女が床に並べたネジと金具を前に、スウェット姿のまましゃがんでいた。湯気はない。火はまだ起こしていないらしい。かわりに、昨日解体した什器の板をひとつずつ点検しているようだった。


「……おはよ」


 声をかけると、すみれは手を止めて、少しだけ顔を上げた。


「おはよう。……勝手にやりはじめちゃった」


「ううん。助かる」


 優希は展示台の上から降り、ストレッチをしながら近づいていく。冷えきった床の感触がスニーカー越しに伝わってくる。すみれの隣にしゃがみ、昨日よりも少しだけ気軽に、板材の束を手に取った。


 金属部品の多くは錆びが浮いていたが、中には再利用できそうなものもあった。長さが揃っているものを優先して並べる。端材を繋ぐ金具も、工具売り場で探せば足りるはずだ。


「なんか、こういうの、久しぶりだなって思って」


 すみれがぽつりと漏らす。

 優希は手を動かしたまま聞いていた。


「……何が?」


「誰かと一緒に、何かつくるの。たぶん、学校の文化祭以来かも」


「……へえ。料理部だったとか?」


「ううん。文芸部。出し物は地味だったよ。短編集と、紙芝居だけ」


 そう言ってすみれは少し照れたように笑った。優希も、思わず吹き出しそうになったが、喉の奥でとどめた。


「俺、展示用の棚とか作った気がする。工具係っていうか、便利屋だったけど」


「似たようなもんじゃん」


 ふたりの間に、ようやく柔らかな笑いが流れた。気温はまだ冷たいのに、空気だけは少しだけ春めいている。陽の光が吹き抜けの高窓から差し込み、解体した什器の角が白く光っていた。


 午前中のうちに、支柱と棚板の組み合わせを一つ形にできた。コンロと鍋、調味料の缶をまとめて置けるだけの高さにし、横に布を吊れるフックもつけた。

 即席にしては、まずまずだった。


「……ちゃんと“台所”に見えるね」


 すみれがぽつりと呟いたその声に、優希はどこか安堵のようなものを感じた。

 彼女が「ここにいる」ことを、少しずつ受け入れ始めている証のような気がした。


 その日の昼、優希は新しく作った棚の隅に、手書きの紙を貼った。

 ラベルだった。上段には「乾物と調味料」、中段には「調理器具」、最下段には「缶詰と水」と書いた。すべてペンで大きく、はっきりと。


「几帳面だね」


 すみれがそう言った時、優希は少し照れたように肩をすくめた。


「前に怒られたから。棚、勝手に整理してごめんって……謝らせちゃったの、ちょっと引っかかってて」


「……そっか」


 すみれはそれ以上何も言わなかった。ただ、そのあとラベルの余白に小さな花の絵を描いた。たぶん、紙コップに刷られていたあの緑茶のパッケージの模様だ。


 その日、ふたりが展示台に戻るころには、日が傾きかけていた。


 夜はまた静かだった。でも、それはぎこちなさではなく、穏やかな沈黙だった。言葉の代わりに、ラベルや木材の香りが記憶に残った。


 翌朝から、すみれは火を起こす前に、必ず一言「今朝はお湯わかすね」と声をかけるようになった。

 優希もまた、毎朝「何か手伝おうか」と口にするようになった。


 日常とは、そうやって、すこしずつ重なっていくのかもしれなかった。



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