Episode5:鳴子
薄暗かったホームセンターの店内に、ようやく光が戻った。屋上に設置されていたソーラーパネルからの電力を使い、LED照明の一部が点灯するようになったのだ。とはいえ、限られた800ワットの発電容量では全館を煌々と照らすには足りず、明かりの届く範囲は広くない。蛍光灯の列の一部だけが、ぼんやりと天井を照らし、周囲の棚を青白く照らす程度だった。それでも、これまで懐中電灯だけで進んでいた探索と比べれば格段に心強い。
優希は、肩にかけた小さなトートバッグの中のメモ帳を取り出し、立ったまま中身を確認する。そこには、どの売り場を探索したか、見つけた物資や使えそうなもの、そして簡単な電力管理のメモが書き込まれている。最近は、ソーラーで溜めた電力をどこにどれだけ使ったか、帳面のように毎日記録していた。
「照明、冷蔵庫、USB充電……あとはポンプ試験用……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、彼は倉庫から持ち出した簡易椅子に腰を下ろす。そこは店内の中央付近、ペットコーナーや工具売り場の中間地点にある高台のような展示台の上で、いまは彼の仮設の住処になっていた。もともと園芸用の高床展示に使われていたスペースを、パレットやプラスチックケース、ダンボールで囲い、風除けと簡易の壁にしている。少し高くなっているので、店内の様子をある程度見渡すことができ、もしものときも安全だと感じていた。
仮設ながら、彼なりに工夫した拠点だった。寝袋は以前使っていた裏口倉庫から移動させたばかりで、台の隅に畳んで置かれている。工具売り場から集めた木材やロープで棚を簡単に組み、生活用品を置けるようにしたり、小さなポリタンクを並べて水のストックエリアも設けている。水道は一週間ほど前まではかろうじて使えたが、すでに止まって久しい。彼はその間にできるだけ多くの水を貯め、10リットルポリタンクや給水バッグに溜めた水を数十本、空調の効かない店内で直射日光の当たらない一角に整然と保管していた。
「腐ってなきゃいいけど……」
そう呟きながら水のストックを確認するのも、日課のひとつだった。洗浄や飲用、動物の世話にも使うため、水の管理は極めて重要だった。
動物——そう、彼は店内のペットコーナーで、数羽の小動物たちを見つけていた。
店長の感染騒ぎが起きるよりも前、しばらく放置されていたであろうそのコーナーには、うずくまったウサギが三羽、小さなケージの中にいた。水も餌も尽きかけており、糞尿が床に溜まり、空気はひどくこもっていた。ウズラは五羽、ヒヨコは四羽、やせ細ってぐったりしているが、まだ命の灯は消えていなかった。
優希は、心のどこかで「助けたい」と思った。けれど同時に、「これからの自分の生活に支障が出るのでは」とも思った。電力も、水も、食料も有限だ。
——でも、見捨てたらきっとずっと後悔する。
そんな思いから、彼は小動物たちを連れてペットコーナーの隣に仮設の飼育エリアを設け、使えそうな餌や水を与え始めた。ウズラからは卵がとれるし、ヒヨコも育てば肉か卵が手に入る。兎だって海外では立派な食料だ。
将来的にきっとこの子たちの存在は益となる。そう言い聞かせた。
だが、生き物を世話するというのは思ったよりずっと難しかった。
「……やっぱりダメだったか」
ある朝、ケージの前で優希はしゃがみ込み、動かないウズラをじっと見つめていた。元々弱っていた体に負担がかかったのか、それとも水の与え方が悪かったのか。はっきりとした原因はわからなかった。
情が湧くから、とあえて名前はつけていなかった。けれど、自分の手で命を預かったのに、守れなかったことが心に重くのしかかった。
それでも、残された生き物たちは今日も生きている。だから、優希は餌の配分を見直し、水は一日二回、スポイトで与えることに決めた。獣医でもない高校生の彼にとって、それは手探りの作業だった。
住処を改善する作業も、同時進行で進めていた。ホームセンターの資材を使えば、防風シートや断熱材、キャンプ用の寝具、簡易テーブルなどが手に入る。快適とまではいかなくても、最低限の安心が得られる空間にしたかった。
夜間の照明は必要最小限に抑え、主に昼間に作業や活動を行う。発電した電力は、小型冷蔵庫やバッテリーの充電にも回さなければならない。携帯ラジオやLEDランタン、簡易換気ファン、時にはポータブルポンプのテストにも使う。
帳面には、日ごとの発電量、消費量、残容量が細かく記されている。最初は面倒だったが、繰り返すうちに生活のリズムになっていた。
「今日は……冷蔵庫優先。換気はなしでいいかな」
そう独りごちてから、優希はメモにチェックマークをつけ、ゆっくりと立ち上がる。高台の仮住処から見下ろすホームセンターは、相変わらず静かで、そしてどこか心細い。
けれど、彼にとっては今ここが世界だった。崩れた日常のかけらを、一つずつ拾い集め、繋ぎ合わせながら——生きていくしかなかった。
まだ道具は足りていない。まだ住処も仮設に過ぎない。だけど、少しずつ、自分の場所にしていく。
そんな気持ちだけが、優希を今日も動かしていた。
薄曇りの朝。外の様子を窺うように、優希は静かにホームセンターの裏口のシャッターを少しだけ開けた。ひんやりとした空気が差し込んでくる。まだ感染者の姿は見えない。
「……今日も、平気そうだな」
小声でつぶやき、静かにシャッターを閉める。昨夜も何とか無事に過ごせた。
けれど、それは偶然かもしれない。運が良かっただけ。ここが安全だと決めつけるには、まだ早すぎる。
優希は店舗内に戻ると、まずは見回りを始めた。昨夜設置した簡易バリケードの点検、食料や水の残量の確認。照明に使う小型ソーラーパネルは今日も曇天のせいで心許ない。最低限の充電ができることを祈るしかない。
そして、今日はもうひとつ、大事な作業があった。
——鳴子の設置。
夜間に侵入者があったとしても、少しでも早く気付けるように、音の罠を張り巡らせたい。だが、優希にはこうしたサバイバルの知識があるわけではない。試行錯誤でやるしかなかった。
工具売り場から使えそうなものをかき集める。鈴、針金、糸、ガムテープ。壊れたキーホルダー、使い捨てライターのバネ。金属製の部品はそれだけで音が出る可能性がある。
「まずは試してみるしかないか……」
彼は入り口付近の棚に針金を張り、鈴と金属片を吊るしてみた。誰かが糸を引っ掛ければ、鈴が揺れて音が鳴るはずだった。棚の影に隠れつつ、あえて自分で糸を引っ掛けて歩いてみる。
「……あれ、鳴らない?」
針金が緩すぎたのか、鈴がうまく振動しない。やり直しだ。
今度はバネを使ってテンションをかける。すると、今度は金属片が勢いよくぶつかって、予想以上の音が鳴った。
「おぉ……! これ、使えるかも」
思わず声が漏れたが、すぐに周囲を警戒して息を殺す。感染者を引き寄せるようなことは絶対に避けなければならない。けれど、この音量は夜の静寂では十分すぎるほどの警告になる。
成功した罠をもう一つ、二つと別の場所に設置していく。工具の引き出し、レジの脇、非常口付近。どれも、人が通りそうな経路を考えての選択だ。
試行錯誤を繰り返しながら、優希は気がつけば昼を過ぎていることに気づいた。
「……ちょっと休もう」
缶詰と水で簡単な食事をとりながら、ふと考える。
このままここに籠もり続けるとして、食料はどれくらいもつだろう。
カップ麺や乾パンはあるが、数に限りがある。缶詰は保存がきくが、栄養は偏る。
「育てるしか、ないよな……」
そう思って、優希はガーデンコーナーに足を向けた。
店内の園芸コーナーには、土とプランター、そして種が残っていた。野菜の種もいくつかある。トマト、ピーマン、ラディッシュ、バジル……本来なら、ベランダ菜園用に売られていた商品たち。
「やるなら、ここか……」
店内で植物を育てるには、光が必要だ。だが日光は窓からしか入ってこない。ソーラーパネルから得られる電力では、植物用ライトを長時間点灯させるのは難しい。
それでも、やってみるしかない。
彼は棚からいくつかの小型プランターと袋詰めの培養土、そして発芽の早い種を選んだ。まずはラディッシュからだ。発芽も早く、育てるのも比較的容易。何より、失敗してもダメージが少ない。
手袋をはめ、土をプランターに詰める。水を軽く含ませてから、種を数粒ずつ、等間隔に植える。
「こんな感じ、だったよな……」
ホームセンターに勤めていた頃、園芸売り場の応援で手伝った記憶を思い出しながら、作業を進めていく。
「……あと、ラップで覆えば、保温と保湿になるはず」
ラップも、調理コーナーから調達していた。プランターを軽く覆い、即席の温室にする。
設置場所は、出入りの少ない窓際の一角。できるだけ人の動線を避ける。
「……頼むぞ」
その場にしゃがみこみ、思わずそう呟いた。自分の手から離れても、彼ら——小さな種たちは、自分の意思で芽を出そうとする。
何かを育てる。それは、未来を信じることに近い。
誰も教えてくれなかったが、優希はそれを知っていた。
—
午後の時間は、鳴子の設置と家庭菜園の作業を交互に繰り返した。単調ではあるが、それが逆に良かった。
余計なことを考えずに済む。
時折、空になったペットボトルに水を汲み直し、ペットたちの水を交換する。ウサギも、ウズラも、ヒヨコも、静かに息をしていた。名前はつけていない。情が移りすぎるのが怖いからだ。
それでも、声はかける。
「今日も、生きてるな」
それは自分への言葉でもあった。
—
夜。ホームセンターの電源は、最低限のLEDランタンひとつに絞っていた。
プランターの上に設置した簡易ランプは、数時間だけタイマーで点灯させるよう設定した。節電は必須だ。
寝袋に体を沈めながら、優希は最後に店舗内の音に耳を澄ませる。
風の音。
壁の向こうで遠く鳴った、鳴子のかすかな音。
——風か、獣か、それとも人か。
まだ判断はつかない。
けれど、少なくとも何も気づかずに眠るよりはいい。
自分が設置した罠が、小さな命綱になる。
「……明日も、動こう」
そう呟き、優希は目を閉じた。
すぐに眠れるわけではなかったが、今日は少しだけ、安心できた気がした。
プランターの中の小さな種と、自分の心が、同じように芽を出し始めていることに、気づかぬまま。
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