Episode3:感染者
翌朝。優希は寝袋の中で目を覚ました。曇天の空は相変わらず重く、倉庫の薄暗い天井が彼を迎える。微かに体を冷やす朝の空気が、昨夜の“気配”を思い出させる。
(……まだ、いるような気がする)
そんな思いを胸に押し込めながら、優希はゆっくりと体を起こす。眠気と緊張が混じり、首筋にこわばりが残っていた。
倉庫の隅に設けた仮設トイレ──店舗の従業員用トイレへ向かう。夜の見回り時や屋内での排泄用に使っている、旧式の狭い空間。ドアを開け、無意識に便器のレバーに手を伸ばす。
──ゴボッ……ジャアアア……
一瞬、優希は動きを止めた。
(……水、出る?)
配管の奥から、水が勢いよく流れていく音。すっかり断水していると思っていたが、どうやらこの施設の水道系統の一部はまだ生きているらしい。驚きと同時に、胸の奥にわずかな安堵が広がった。
(なら、トイレも少しは気にせず使えるな……)
あくまで「当面は」という条件付きだが、それでもこれは大きな情報だった。何より、久しぶりに「生きたインフラ」に触れた気がして、言いようのない希望がわずかに胸を灯す。
だが、その感慨に浸っている時間はなかった。優希の中で、ある考えが電流のように閃く。
(……水、まだ貯められるだけ貯めておかないと)
この水がいつまで使えるかは分からない。数時間か、数日か、それとも次にレバーを引いた瞬間に終わるのか──そんな不確実な綱渡りの上に、今はいる。
「よし……容器だ。貯めるものを探さないと」
優希は倉庫を飛び出し、店舗エリアへ向かう。まだ薄暗い通路に警戒しつつ、棚の合間を歩く。昨日のうちに感染者がいないことは確認していたが、すでに「気配」がある。完全な安心はない。
「……まず、キャンプ用品売り場……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、アウトドア用品のコーナーを目指す。照明のない通路を、懐中電灯の明かりで照らしながら慎重に進む。
やがて金属製の棚が並ぶエリアにたどり着いた。埃をかぶったパッケージの中、奥の棚に並んでいたのは──水色や黒のポリタンク。容量10リットル、20リットルのものが数個確認できた。
「……あった」
喜ぶ暇もなく、手早くタンクを一つずつ棚から降ろす。取っ手の部分にヒビが入っていないかをざっと確認しながら、床に並べていく。中には折りたためるウォータータンクも数個混じっていた。
(とにかく全部持ち帰る。破損してても、使える部分だけ使えばいい)
他にも水の容器として代用できそうなもの──未開封のクーラーボックス、丈夫な収納コンテナ、ペットボトルの詰め合わせ──使える物はすべて回収対象だ。
両手にタンクを抱え、脚でクーラーボックスを押しながら、一度倉庫へ戻る。戻る途中も、耳は周囲の物音に神経を張り詰めていた。
(バックヤード……気配があるのは、あの奥だ)
頭の片隅に警報のような不安が鳴り続けている。それでも今は──水が最優先だ。相手が人間でも、感染者でも、どちらにしても準備不足では太刀打ちできない。
倉庫に戻ると、優希は回収したポリタンクを並べ、トイレ横の水道に接続された蛇口から一つずつ水を溜めていく。
ジャアアア……という心地よい水音が、倉庫の静寂に響く。
「……まだ出る。頼む、もう少しだけでいい」
蛇口の水流を見つめながら、優希は手元のメモに記録を取り続けた。どのタンクが何リットルか、いつ満杯になったか、使用用途のメモも書き添える。
(飲料用、調理用、衛生用……それぞれ分けておく)
効率と安全性を考えて行動する。それは、生き延びるための最低条件だった。
ふと、蛇口の音が一瞬弱まったような気がした。思わず顔を近づけるが、すぐにまた元の勢いを取り戻す。気のせいかもしれないが──この水が止まる日は、必ず来る。
(止まる前に、やれるだけやる)
優希は立ち上がると、もう一度店舗へ戻った。まだ容器はあるはずだ。あの気配の正体と向き合う前に、自分にできる準備をすべて終わらせておきたかった。
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水の確保がひと段落したのは、昼を少し過ぎた頃だった。空き容器、工具用のポリタンク、洗浄済みのバケツ。使えそうなものにはすべて蓋をして、重ねられるように配置した。
(……これだけあれば、しばらくは持つ)
汗を拭いながら、優希は倉庫の床に腰を下ろした。水の扱いに気を張り詰めていたせいで、体よりも先に頭が重い。けれど、確実に一つ成果を得られたという満足感があった。
と同時に、腹が鳴った。
(昼……か)
優希は立ち上がり、再び食料のコンテナへ向かう。今度は、缶詰の中でも比較的保存期限が短いものを選ぶ。ツナ缶と、乾燥野菜のパック。それに粉末味噌汁の小袋を一つ。
水を節約しつつも、温かいものは用意したい。さきほどと同じアルコールストーブに火を入れ、湯を沸かしながらツナ缶の蓋を開けた。缶の油がじわりと指先に伝わり、あらためて「食べる」という行為の実感が湧く。
(こういうのも、贅沢ってことになるんだろうな)
粉末味噌汁の素をマグカップに入れ、湯を注ぐ。湯気がふわりと立ち上り、わずかに味噌の香りが倉庫の隅をくすぐった。
──ひと息。
優希はツナをスプーンですくいながら、そっと口に運ぶ。脂っこさが疲れた体に染みる。続けて味噌汁。安っぽい粉末の味なのに、妙に落ち着いた。
「……いただきます」
二度目の言葉は、さっきより少しだけ大きな声になった。誰もいない空間に、ぽつんと響く。
倉庫の外では、何かが風に揺れる音がかすかに聞こえる。遠く、鳥の鳴き声も交じっている。だけどその静けさの底には、常にどこか、背筋にまとわりつくような緊張があった。
優希は、食事を終えるとすぐに後片付けを始めた。使った道具を洗い、貴重な水を最小限で流し、道具箱にしまう。
スープの残り香を、息でかき消すように吐いた。
(……準備しよう。何があってもいいように)
まず手元のメモを見直す。昨夜まとめた物資のリスト。それを頭の中で再構築する。
・工具類:確保済み
・作業着、安全靴、防具:確保済み
・飲料水、食料:一部確保、要再探索
・灯り:ランタン・懐中電灯・マッチ・電池あり
・封鎖用資材:倉庫内に一時保管
そして最後に書かれた一文──「バックヤードは未確認」
優希は、メモのその行をにらみつけるように見つめたあと、静かに立ち上がった。
今日残りの時間でやるべきことは、もう決まっている。
封鎖作業
探索の続行
そして、バックヤード
懐中電灯の電池を交換し、腰にハンマーとバール、そして自作のロープを括りつける。装備は少しずつ“それらしく”なってきた。まだ“戦う”準備には遠いが、“耐える”準備には近づいている。
まずは店舗のガラス窓の封鎖だ。昨夜まとめた木材と段ボールを倉庫から運び出し、客用入口周辺から手をつけていく。
板を打ち付けるたびに、静寂を叩き割るような音が響く。
カン、カン、カン……
それだけで、どこかに何かが気づいてしまいそうで、優希は息を殺しながら作業を続けた。
──そのときだった。
背後で、「コツ……コツ……」と、規則的な音が聞こえた。
一瞬、金槌を振るう手が止まる。
耳を澄ます。再び、何も聞こえない。
気のせい。いや、さっきもそう思った。
──“見に行くべきか?”
足が勝手に動く。気づけば、優希は工具を置き、バールを握り締め、音がした方角──店舗の奥、バックヤードへの通路の手前に立っていた。
「確認するだけ……絶対に深入りしない」
そう呟いて、自分に言い聞かせる。震える手で懐中電灯を握る。店内の空気は日中と違い、どこか冷たく淀んでいる。
静かすぎる。
バックヤードの扉は、確か昨日は閉まっていた。しかし今は、わずかに──ほんの指一本ほどの隙間が空いている。
「……やっぱり、誰かいたんだ」
優希は唾を呑み込む。足音をできるだけ立てないように、ゆっくりと近づき、そっとドアを押す。
ギィ、と鈍い音がして扉が開き、暗闇が口を開けるように広がった。
中は薄暗く、かすかに生臭い匂いが漂っていた。
懐中電灯を向けると、壁にかけられた制服の一部が床に落ちている。ネームプレートが付いていた。
《ストアマネージャー:中野》
「……店長……?」
まさか──と、思った瞬間。
「……ッ……ァアア……ッ」
その声は、後ろから響いた。
振り向いた優希の視界に、得体の知れない人影が飛び込んでくる。懐中電灯の光が照らしたのは、明らかに人間とは思えない姿。
顔色は土気色に変色し、両目は濁った白。唇は破れ、歯茎をむき出しにしながら唸っている。服装はボロボロだが、見覚えがある──店長の制服。
「……う、そ……」
息を呑む間もなく、それは猛然と突進してきた。
「ッ!!」
優希はとっさに身を引き、通路の棚に肩をぶつけて転倒する。痛みで息が詰まる。人影──元店長だった“それ”は、体をよじるようにして四つん這いで迫ってくる。
「くそ、くそ……!」
優希は地面を這って距離を取り、腰のベルトからバールを引き抜く。息が荒い。心臓が喉から飛び出しそうだ。
「……店長、なのか……?」
だが返事はない。ただ濁った呻き声を上げながら、それは再び飛びかかってきた。バールを構える。恐怖で腕が震える。頭が真っ白になる。
がむしゃらに、横薙ぎに振るった。
ゴッ──という鈍い音がして、相手がよろけた。だが倒れない。歯を剥き出しにし、怒りに満ちたような呻きを漏らしながら、また起き上がってくる。
「もう……やめてくれよ……!」
叫ぶように声を上げたが、言葉は通じない。それはもう人間じゃない。
──頭を狙え。感染者は、頭を潰さなきゃ止まらない。
テレビで見た。ネットの噂でも聞いた。
「っ……来いよ……!」
次の突進を見計らい、優希は力を込めて真正面からバールを振り下ろす。硬い感触、手応え、そして何かが潰れる感覚。
“それ”は、ようやく動きを止めた。
大きく揺れ、崩れるように床に倒れる。
優希はその場に膝をつき、肩で息をしながら動かなくなった遺体を見つめる。明かりに照らされた店長の顔は、もはや人間のそれではなかった。けれど、確かに、あの優しかった声を思い出せる気がした。
「……ごめんなさい」
自分でも何に向けて言っているのか分からなかった。ただ、喉から漏れたその言葉は、あまりに小さく、静かな空間に吸い込まれていった。
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