Episode2:静寂の中の歩み
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鉄の扉を閉めてから、どれくらい経っただろう。
倉庫の隅に身を寄せた優希は、リュックを背中から下ろして、埃っぽい床にそっと座った。緊張が解けたのか、全身から一気に力が抜けていく。
リュックに残っていた小さなチョコレートを口に放り込み、硬い甘さを噛みしめながら天井を見上げた。
「……落ち着け。まず、何をするべきか……」
目を閉じ、深く息を吸う。 考えろ。優希。今、自分が置かれている状況を。
──ここは、真暗だし電気は止まっている。 きっと水もだろう。
──今のところ安全そうだが、確証はない。
──備蓄はある。だが、どこに何があるのか、正確には分からない。
自分は今、生き延びるための一歩を踏み出したにすぎない。これから先、何をどう使い、どう守っていくかはすべて自分次第だ。
優希は立ち上がり、リュックからメモ帳とペン、懐中電灯を取り出す。バイト中に使っていた、館内地図の簡略コピーがまだ挟んであった。薄れて読みにくくなった線をなぞるように目で追いながら、今いる倉庫と、そこからつながる店舗エリアの構造を思い出す。
「工具コーナー、ガーデニング、キャンプ用品、日用品……医薬品はレジ横だったっけ」
記憶を頼りに、おおよその位置をメモに書き出していく。バイトの経験が、少なくとも今の自分を多少なりとも助けてくれている。少しだけ、心が落ち着いた。
まず、建物内の安全確認だ。
可能な限り音を立てず、慎重に倉庫内を歩く。商品のダンボールが積まれた高い棚の間を通り抜け、店舗側のスイングドアに手をかけた。
キィ……という鈍い音が、沈黙を裂いた。
中は暗い。天井の照明は当然点かない。持っていた小さなLED懐中電灯を前に向けて、薄明かりで床をなぞるようにして歩く。
──無人の店舗。だが、その沈黙には、どこか異様な「重さ」があった。
什器の影、レジ台の奥、商品の棚。
そのすべてが静かで、何も起きていない。
それなのに、優希の背筋には微かに冷たい汗が流れ続けていた。
まるで、どこかに「何か」が潜んでいるかのように。
「……やめろよ、ビビってるだけだ」
そう言い聞かせながらも、足音はどんどん小さくなっていく。明かりを遮るようにして、商品棚が交差する通路を通るとき、優希はふと立ち止まった。
耳を澄ます。 ──何か……聞こえたか?
かすかに、棚の向こう側で「カサッ」と物音がした気がした。
風ではない。ネズミか?
いや、それとも──。
背中に悪寒が走る。 優希は反射的に呼吸を止め、音のした方向を見つめた。
「……誰か、いるのか……?」
声をかけてしまった自分を、直後に後悔する。けれど、何の反応もなかった。
気のせい。きっとそうだ。ただの空耳。 優希は再び歩き出す。キャンプコーナーに向かう途中、床に小さな缶詰が転がっていた。
「……誰かが触った?」
バイト中には、未陳列の商品が店内に出てくることはまずなかった。陳列ミスか、それとも……。
ゾクリとした思考を、優希は無理やり打ち消す。今はとにかく安全確認が先だ。
まず、出入り口の封鎖。裏口以外に、客用の正面入口と、搬入用シャッターがある。
すでに正面はシャッターが降りていたが、万が一がある。近づいて鍵を確認し、異常がないことを確かめる。
次に、窓という窓に板を打ちつける必要がある。店舗側のガラスは大きく、割れた場合には防御どころか侵入路になる。
優希は一度倉庫に戻り、そこに積まれていた木材パネルや段ボール板の位置を記録し、必要な資材を手近にまとめておく。
「まずは工具だ……ハンマー、釘……バールもあれば便利か」
再び店舗に戻り、工具コーナーに向かう。懐中電灯の明かりで棚を照らすと、そこにはハンマー、ドライバー、折りたたみノコギリなどが陳列されたままになっていた。金属の光沢がかすかに反射する。
「……よかった。まだ、揃ってる」
とりあえず、使い勝手のよさそうなハンマーとバールを手に取り、腰のベルトに差し込む。DIY用の手袋と、簡易な防塵マスクも装着。滑り止め付きの軍手や、作業用ゴーグル、膝当てパッドも棚に並んでいたので、念のためそれらもリュックに詰める。
「……どうせ、長期戦になる。少しでも体を守れるものは拾っておくべきだ」
さらに奥の棚には、作業着の在庫も残っていた。防炎仕様の上下と、安全靴を見つけて試しに足を入れる。少し大きいが、厚手の靴下で調整すれば履ける。優希は心の中で「ラッキー」とつぶやきながら、それを着込み、今後の作業に備える。
探索は続く。売り場を移動しながら、優希は備蓄品の位置を頭の中で整理していく。非常食、飲料水、バーナー、簡易トイレ……。
アウトドアコーナーでは、寝袋の他に固形燃料、小型ガスバーナー、ポータブルランタンを発見。ランタンには交換用の電池もついていた。水筒と折りたたみ式の鍋セット、サバイバルブランケット、耐水マッチなどもまとめて確保する。中には開封済みの品も混ざっていたが、使えそうなものは迷わず袋に詰めた。
「下手な遠慮は命取りだ……使えるもんは全部使おう」
そして、棚の奥に小さな段ボールがひとつ。見覚えのあるラベルが貼られていた。
《避難セット(簡易)》──地震や火災対策のための、試供品用セットだ。
「これも……使えるか」
セットの中には、エマージェンシーシート、乾電池ラジオ、ホイッスル、簡易トイレ、簡易食、簡易ライト。必要最低限だが、あるだけでも違う。優希はその場で内容を確認し、使えないものを取り除いてリュックに再整理する。
手に取った瞬間、遠くのほうで「ギィィ……」という、軋むような金属音が聞こえた。
振り返る。誰もいない。 けれど──確かに、聞こえた。
緊張が全身に走る。 何かが、いる。
棚の間を静かに抜け、物音のした方向を避けるようにレジ方面へと向かう。その先には、バックヤードへと続く従業員通路がある──そしてその奥には、従業員用の休憩室、事務所、そしてバックヤード……。
行かない。まだ、行かない。
本能がそう告げていた。
優希は探索を途中で切り上げ、倉庫に戻る決断をする。すべてを確認し終えるには、まだ準備が足りない。もっと灯りが要る、もっと武器が要る。なにより──もっと、心の準備が。
倉庫に戻ったとき、彼は再び扉に鍵をかけ、内側から重ねて荷物を積んで塞いだ。入り口のそばには木材と釘をまとめ、明日以降に封鎖作業を始められるように並べておく。手元の地図には、今確認できた物資の位置と種類をざっとメモしておいた。
その夜。倉庫の隅で寝袋を広げた優希は、懐中電灯を消す直前、ふと誰かに見られているような感覚に襲われた。
暗闇の奥、バックヤードの向こうに。
何かが、いる。
だが、今はまだ確かめに行くべきではない。
──そう、優希の理性は告げていた。
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