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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
20/20

Episode19:敵

おまたせしました更新です。

ライクインありがとうございます!



雨は、夜の静けさを断ち切るように、屋根を叩き続けていた。


金属の屋根を打つ雨粒が、倉庫の広い空間に鈍い反響を生む。いつもは無音の暗闇に包まれているホームセンター。その静寂を、今夜だけは水の音が満たしていた。安堵に似た感覚をもたらすはずの雨音が、今夜に限って、妙に胸の奥を冷たく濡らしてくる。


閉じたシャッターの向こうは見えないが、その先の夜と雨の向こう側に、何かが潜んでいるような気がしてならなかった。


薄暗い作業スペースの一角。売り場の片隅に設けた簡易な共有スペースには、充電式のLEDランタンがひとつ。木材の端材を立てかけた壁面を照らしながら、その灯りがポリタンクの表面にわずかに反射している。


鋼音は作業台の縁に腰かけ、脚を組んだままじっと黙っていた。優希は資材運搬用のコンテナを逆さにして腰を下ろし、足元の床に視線を落としていた。すみれは静かに段ボールを広げ、その上で膝を抱えていた。缶詰の空き箱の上に小さくなったその姿は、いつもよりどこか幼く見えた。


「……優希も少しはマシになってきた。そろそろ、話しておくか」


鋼音の低い声が、雨音の隙間を縫って滑り込んできた。


彼の目線は誰にも向けられていなかった。だがその声に、空気がぴんと張る。


話題がなんであるか、全員がすでに分かっていた。


「感染者について、ですよね……」


優希の声もまた、無意識に小さくなる。


鋼音は無言で頷く。


「……“あれ”は、いったい何なの……?」


すみれの言葉は震えていた。声ではなく、心が震えていた。


「病気? それともウイルス? それとも……違う何か?」


鋼音はゆっくりと息を吐いた。まるで、重たい記憶を肺の奥から絞り出すように。


「詳細は、正直わからん。だが――ひとつ言えるのは、“ゾンビ”とは違うってことだ」


「……でも、特徴は似てる気がする」


優希がそう呟いた。


「噛まれると感染する。体液が傷口に触れたら、おそらく……終わりだ。痛覚がない。関節が折れようが、肉が裂けようが、止まらない。ただただ、追ってくる。まるで、何かに突き動かされてるみたいに……」


「その通りだ。止めるには頭を狙え。脳を破壊すれば、ようやく動きが止まる」


鋼音の言葉は、まるで戦場の報告のように淡々としていた。


だがその「淡々さ」が、逆に重さを際立たせた。


すみれは俯いたまま、口を開く。


「でも……あの人たち、もともとは“人間”だったんだよね?」


誰もすぐには返事をしなかった。


空調の止まったこの広い倉庫の中で、雨音が静かに響いている。


優希は横目で鋼音を見た。その目は、過去のどこかを見つめていた。


「……もう人間じゃない」


鋼音の声は、冷徹というより、どこか諦念に近かった。


「心も、意志もない。感情も、選択もない。ただ機能だけが動いている。誰かを、何かを、探し求めるように。だがそれは“人”ではない。中身のない肉体だ」


すみれが小さく息を詰めた。


「それでも……うちのおばあちゃん、感染して……まだ私の名前を呼んでた。手も震えてて……最後、私の背中を、押してくれたんだよ……!」


声が震え、涙が混じる。


優希はすみれの横顔を見つめながら、何も言えなかった。ただ、その話が嘘ではないと確信するには、あまりにも真っ直ぐすぎた。


鋼音は、黙っていた。彼の視線は、足元の影に沈んだままだった。


「中には、“妙な個体”もいる」


ようやく鋼音が口を開く。声は静かで、しかし明瞭だった。


「道具を使う奴を見た。鉄パイプで扉を叩いていた。鍵のかかるドアを何度も。力任せじゃなく、繰り返し、そこを“開けよう”としていた」


「それって……記憶が残ってるってこと?」


「かもしれん。あるいは、本能か、条件反射か、模倣か……判断はつかない。ただ、“全員が同じではない”ということは確かだ」


沈黙が流れる。


ランタンの光がかすかに揺れ、棚の影が長く伸びる。


「視力は明らかに落ちてる。強い光を当てると、一瞬だけ動きが止まる。聴覚も鈍い。大声程度じゃ反応しない。だが……嗅覚が異常に鋭い。血の匂い、汗の匂い。そういう“人の匂い”に異常に反応する」


鋼音は資材棚の陰を指さす。


「獣の死体を仕掛けて観察したが、ほとんど無視された。人間だけを追っている。なぜかはわからん。だが、あいつらは“人”だけを探してる」


「……だったら、匂いを遮断して、光で目を眩ませば……対応できるってことか」


優希が低く呟く。


手元のバールを、無意識に握りしめていた。


「実際、お前の動きは少しずつマシになってきてる。不意を突かれなければ、複数でも対処は可能だ」


鋼音は少しだけ口元を緩めたようにも見えた。


「だが……こちらから仕掛けるにはまだ早い。お前は“反応”はできても、“判断”が追いつかない。焦るな」


「……でも、もう逃げたくないんだ」


優希の声が、微かに震えていた。だが、それは恐怖ではなかった。悔しさと、決意の入り混じった熱だった。


「俺も、“戦える側”になりたい」


すみれがゆっくり顔を上げ、そっと優希を見た。


鋼音は、じっと彼を見据えた。


「なら、まずは敵を知れ」


そう言って、鋼音は使い込まれたスケッチ帳を取り出した。手描きの図には、感染者の輪郭や視覚・聴覚・嗅覚の特性、個体差についての簡潔なメモが並んでいた。


「敵は、異常じゃない。“一貫性”がある。だからこそ、予測できる。そこから勝機が生まれる」


優希はそのスケッチを見つめながら、小さく息を吸った。


「だけど……それ以上に異常な個体もいるってことか」


「いる。だから、油断はするな」


そのとき、ホームセンターの奥から「ギィ」と何かが軋むような音がした。雨に揺れる外壁か、それとも風に煽られた金具か。


一瞬で全員の視線がそちらへ向く。


静寂。ほんの一瞬の緊張が走る。


鋼音が目だけで確認し、そっと頷いた。


「……風だ。問題ない」


息が解けるように場が緩んだ。


すみれがぽつりと呟いた。


「それに……敵って、感染者だけじゃないんだよね」


その言葉に、優希の表情が硬くなる。鋼音との出会いの夜、人間に襲われかけた記憶が脳裏をよぎる。あのとき、すみれも――


すみれは肩を抱くように腕を組み、大きく膨らんだ胸がわずかに歪んだ。優希は思わず目を逸らした。


「それでも……あの人たちの“目”は、忘れられない。人間だった頃の目を、わたし……まだ覚えてる」


優希はゆっくり顔を上げ、すみれを見た。


「でも、もう……背を向けるわけにはいかない。“怖い”で止まってるのは、もう嫌なんだ」


ランタンの灯が静かに揺れる。


鋼音はそれに目を向けることなく、黙って頷いた。


優希の声が、静かに夜の雨に溶けていく。


「逃げるだけじゃ、生きてる意味がない気がする。だったら……少しずつでも、“戦える人間”になりたい」


この夜、彼らにとっての“敵”の輪郭が、ようやく浮かび上がった。


それは単なる怪物でも、ただの災厄でもない。過去に人だったもの。

今は脅威となって存在し、そして同時に――彼ら自身の在り方をも問うものだった。


そして雨は、まだ静かに降り続けていた。



---



雨が止んだ朝。空にはまだ低く曇りが垂れ込めていたが、湿った空気に微かな光が溶けはじめていた。


ホームセンター裏手の資材搬入口。積まれたパレットが整理され、空いた空間には即席の訓練場が広がっている。廃材で作った的、ペール缶、そして使い古されたマット。訓練に必要なものは、全てここにある。


優希は自分の弓を持ち、いつもの位置に立っていた。

もう、ここに立つのは何度目だろう。


弓を手にしてから、少なくとも十日。毎日のように矢を射ち、矢を拾い、また射ってきた。


最初は矢の向きすら定まらず、弦を指で弾いてはすぐに痛めていた。狙いをつけようにも肩が震え、集中すればするほど手元が狂った。

だが今は、そうではない。


腕の内側に残る小さな痣も、弓を引くときの筋肉の張りも、すべてが“馴染んできた”証だった。


けれど。


「……いまだに、撃つ前が怖いんだよな」


優希は小さく息を吐き、矢筒から一本を抜いた。

鋼音の教え通り、深く吸って、ゆっくりと弦を引く。


「狙いすぎると、逆に外す。体の感覚で放て」


その言葉を、何度も頭の中で繰り返す。


自分はまだ、戦ったことがない。

訓練だけでは、恐怖の正体を知らないままだ。


だけど、それでも。


弦が静かに鳴り、矢が風を裂いた。

廃材の板に鋭い音を立てて突き刺さる。


中心からはわずかに外れていたが、矢はしっかりと板を貫いていた。


「——いい線だ」


鋼音の声が、いつのまにか背後から届いた。

褒めるというより、“現状を認めた”ような調子だったが、それでも胸の奥が少し温かくなる。


「次は連射。三本、間隔一秒以内で撃て」


「了解」


優希は矢をすぐにつがえ、構えを切り替える。


ひとつ、ふたつ、みっつ。


矢はそれぞれ異なる場所に刺さったが、すべて的の中には収まっていた。

だが、手がわずかに震えているのが自分でもわかった。


(まだ、焦ってる……)


優希は矢を収めながら、悔しさと自戒を飲み込む。


鋼音はそれを見抜いたように口を開いた。


「精度を犠牲にして早さに走るな。連射の目的は“圧力”じゃない。確実に仕留めることだ」


「……はい」


叱責ではない。だがその一言が、確実に胸に突き刺さる。


それでも。


「……前よりは、当たるようになりました」


そう言えたのは、偽らざる実感だった。


鋼音は短く頷いた。


「最初は“守られる道具”だった。今は、“自分の武器”になりかけてる。だが、油断するな。射抜くのは“的”じゃない、“生きている”相手だ」


その言葉に、優希は静かに背筋を伸ばした。


的ではなく、感染者。もしくは——人間。


弓を使うということは、「殺せる」ことを意味する。

それを“選ぶ”ということだった。


目をそらしてはいけない。


---


照明の切れた什器の間を、湿った空気がゆるやかに流れていた。棚に並ぶ商品たちが、まるで黙して見守っているかのように沈黙している。かつて賑わったホームセンターの一角は、今や静まり返った訓練場だった。


すみれは、その通路の真ん中に立っていた。視線を伏せ、肩をほんのわずかにすぼめる。足元の床は冷たく、手のひらはじっとりと汗ばんでいた。


「……護身術って、言っても……私、腕力とかないし、そもそも戦いたいわけじゃないんだよ……」


か細い声は、空間に吸い込まれるように消えていく。けれど、その言葉の一つ一つは、今のすみれの本音だった。


鋼音は彼女の正面に立ち、少しだけあごを引いた。


「戦えとは言っていない」


低く抑えた声。だが、その静けさの中に、彼女を突き放すのではなく“現実を教えるための配慮”がにじんでいた。


「逃げるために教える。いいか、これは“最後の手段”だ。基本は逃げろ。距離を取れ。下手に触れれば――」


鋼音は言いながら、足元の段ボールの上に置いていたナイフに視線を落とす。


「……感染する」


すみれの呼吸が、わずかに乱れた。


「噛まれるだけじゃない。血や体液が、粘膜や傷口に入れば終わりだ。だから、殴る時も、相手の身体に触れすぎるな。真正面に立たない。間合いを意識しろ。お前が生き延びるための訓練だ」


「……そんなの……そんなの聞いたら、怖くて余計に何もできない……」


すみれは声を震わせた。本音だった。想像だけではなかった。感染した人を見た。助けられなかった人もいた。今さら無傷ではいられない。だけど。


「それでも、学ぶか?」


鋼音は正面から訊いた。厳しくも、強制ではなかった。だが、その声には「本気で教えるぞ」という明確な線が引かれていた。


すみれはゆっくりと目を閉じて、深く息を吸い、震える声で答えた。


「……うん。学ぶ。逃げるために、ちゃんと覚えたい」


鋼音はわずかに頷き、什器の上にペットボトルを置いた。


「これは喉の位置を想定してる。叩くのはここ。力はいらん。大事なのは“迷いを捨てること”だ。決めたなら、手を止めるな」


すみれは開いた手を構える。だが視線は揺れ、指先はぴくりと震えている。


(……感染者に触れたら、命取りになる。なのに、そんな相手に手を伸ばせって……)


彼女の胸の奥で、“恐怖”と“決意”がぶつかっていた。


(私は弱い。臆病で、何もできないって、ずっと思ってきた……だけど)


鋼音の目と、ふいに視線がぶつかった。何も言わず、ただじっと彼女を見つめていた。責めるでもなく、奮い立たせるでもなく。ただ「選べ」と語っていた。


(あの目は――私が逃げても、きっと何も言わない。けど)


自分の中に、小さな声があった。


(逃げっぱなしのままじゃ、私自身が私を許せない)


――パン。


乾いた音が什器の間に小さく響いた。


倒れたペットボトルが床を転がる。指先は少し赤くなっていたが、その痛みが、妙に心地よくすみれの意識に残った。


「……私にも、できるんだ」


そう呟いた自分の声が、少し震えていたのは、まだ恐怖が消えたわけじゃない証拠だった。


それでも、鋼音は静かに答えた。


「できるさ。逃げるのも、叩くのも、“自分を守る意志”があるなら、誰だってできる」


彼の口調はぶっきらぼうだったが、そこに滲んだ確信が、すみれの胸を打った。


「……私、役に立ちたい。誰かのために、じゃなくて……自分で決められるようになりたい」


その言葉に、鋼音はわずかに口角を上げた。


「それで十分だ」


冷えた什器と沈黙の中、ひとつの小さな決意が芽生えていた。


すみれの中で、それは戦いの始まりではなく、“自分の弱さと向き合う訓練”として、確かに根を張り始めていた。


鋼音は無言のまま立ち上がり、ペットボトルを脇にどけると、すみれと距離をとって立った。


「次は、距離の取り方だ。襲われたとき、まともに捕まる前に逃げろ。それが基本だ。いいな?」


すみれは無言で頷いた。少し息が荒い。額には汗が滲み、緊張が肌の表面に出ている。


鋼音はゆっくりと両腕を垂らしたまま、すみれの方に向かって一歩ずつ踏み出した。


「こっちは“感染者”だ。早足で近づく。喋らない、止まらない、迷わない。真っ直ぐお前を捕まえにくる。それを想定しろ」


その言葉とともに、鋼音の動きが変わった。


目が伏せられ、表情が消える。ただ人間の形をした“何か”が、静かに、確実にすみれへと接近する。


ほんの数歩。それだけで、背筋にぞわりと冷たいものが走った。


すみれは思わず一歩後ずさる。棚の影が、背後に迫っている。


「避けろ!」


鋼音の声に、すみれは反射的に横へ飛んだ。


肩が棚に当たる。体勢を崩しそうになりながらも、転ばずに距離を取った。


「悪くない。捕まるより、転ぶ方がまだマシだ。だが、今のは遅い」


鋼音はそのまま彼女を追うように、数歩踏み込んできた。


「敵は止まらない。痛みを感じない。お前が息切れしても、やつらは追ってくる」


呼吸が荒れ、すみれの足がもつれそうになる。


「次。棚を挟め。死角を使え。見られるな、捕まるな!」


鋼音がもう一歩踏み込むと、すみれは棚の向こう側へ素早く移動し、棚の柱に背を預けた。


「よし。ここが“逃げるための位置”だ」


鋼音は棚の向こうで動きを止め、今度は彼女の“視線の使い方”を指導し始める。


「姿を見せるな。だが、相手の動きは読む。恐怖で目を閉じた瞬間に捕まる。心臓が早くなっても、目だけは閉じるな」


すみれは額の汗をぬぐいながら、呼吸を整える。


自分が“訓練”をしているという感覚が薄れてきていた。かわりに、この瞬間だけは、“本当に襲われているかもしれない”という臨場感が胸の奥に居座っている。


鋼音が、やや距離を詰めて再び言った。


「ラスト。喉を狙う動きに、逃げる動線を加える。叩いたら、すぐに後退。振り切る前提で動け」


すみれはまた正面に立った。汗ばんだ手のひらを見て、深く息を吸う。


(私はもう、ただの“守られる側”じゃいられない)


(優希も変わろうとしてる。だったら私も――)


鋼音が無言で動き出す。


すみれは一歩前に出た。


――パン。


再び乾いた音が鳴り、鋼音の胸の前で手のひらが止まった。


次の瞬間、すみれは全力で横に飛び、棚の向こうへと身を滑り込ませた。


床に膝をぶつけたが、歯を食いしばって立ち上がる。


鋼音は一瞬動きを止め、そして静かに言った。


「……上出来だ。実戦でそれができるかは、お前次第だが」


言いながらも、鋼音の声にはわずかな肯定の色が滲んでいた。


すみれは、まだわずかに震える手を握りしめながら、鋼音の言葉を受け止める。


そのとき、鋼音が静かに言葉を継いだ。


「いいか、すみれ。俺がお前に教えてるのは、感染者相手だけじゃない」


すみれは、息を止めた。


「むしろ、“感染していない奴”の方が、もっとタチが悪い。話が通じる分、残酷になれる。あいつらは、自分の欲望のために襲ってくる」


その声には、どこか鋼音自身の過去を垣間見せる、凍るような冷たさがあった。


「殺す必要はない。けど、“反撃されるかもしれない”と相手に思わせることは、生き残るために重要だ。襲うリスクが高いと感じさせれば、相手は離れる」


すみれは、思わず自分の腕を抱いた。


彼女の胸には、あの夜の記憶がまだ生々しく残っている。恐怖で声も出せず、身体が硬直し、ただ蹂躙されるのを待つことしかできなかった自分。


鋼音の声が、やや低くなる。


「人間は、感染者よりも“効率”で動く。襲いやすいか、反撃されるかを測ってくる。そういう連中にとって、逃げられそうにない“無力な人間”は、狙い目だ」


言葉が、鋭く突き刺さる。


すみれは唇をかみしめながら、うつむいた。


だが、鋼音の声はそこで終わらなかった。


「だから、お前はそれを裏切れ。“無力じゃない”と一瞬で思わせろ。仕留めなくていい。殴って逃げろ。目を見ろ、声を上げろ。恐怖を武器に変えろ」


すみれの胸が、わずかに震えた。


鋼音の言葉は、優しさではない。だが、その冷たさの裏にあるのは、確かな「生き残ってほしい」という願いだった。


「感染者も略奪者も、最後に動くのは“躊躇”を捨てた方だ」


すみれは鋼音を見上げた。そこに、初めて自分に向けられた“戦場の言葉”があるように思えた。


(私が、私を守らなきゃ)


すみれは深く息を吸い、もう一度、構えをとった。


「もう一回……お願いします」


その言葉に、鋼音は無言でうなずいた。


ランタンの灯りが二人の間で揺れ、小さな決意の影を作っていた。


その影は、単なる訓練の風景ではない。感染者にも、人間にも通用する“生存者”としての第一歩だった。

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