Episode1:針ノ木町の果てにて
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あれから、何日が経ったのか分からない。
スマートフォンはすでにただの文鎮と化し、バッテリーが切れたままの画面に触れる理由もなくなった。カレンダーも、時計も、SNSの通知も──今となっては、日常の名残を思い出させるだけの遺物だ。
風が冷たい。曇天の下、アスファルトの道に割れたガラスが散らばっていた。
成井優希は破片を避けるようにして足を進める。針ノ木町の外れ、国道に沿って点在する住宅地は、ほとんどが窓を閉ざし、人の気配はない。あるのは異様な静寂と、時折吹き抜ける風の音だけ。
彼は歩いていた。喉は乾き、足は棒のようになり、胃袋はとうに空っぽだ。それでも足を止めるわけにはいかない。
「……あと、もう少しのはずだ」
声に出すことで、自分に言い聞かせる。目的地は、針ノ木町の郊外に建つ小型ホームセンター《アーク針ノ木支店》。パンデミックが始まる直前、優希がバイトで通っていた場所だ。
オープン間近だったその店舗には、確か備蓄用の商品が搬入されたばかりだった。工具、キャンプ用品、非常食、飲料水──サバイバルに必要なものは、そこに揃っているはずだ。
「シャッターが下りてれば……」
心の中で祈るようにつぶやく。あの建物には頑丈な防火シャッターが設置されていた。
もしそれが閉じたままで、中が荒らされていなければ──望みはある。
背負ったリュックの中には、小さな懐中電灯と着替えが数枚。途中のコンビニでかき集めた食べかけのチョコレートと、スポーツドリンクのボトルが一本。両方とも残りは少ない。
ついさっき飲みきってしまった水筒の底を覗き込み、乾いた舌で唇をなぞる。心許なすぎる。
頭の中は常に倦怠感と焦燥で満ちていた。
市街地を抜け、なだらかな上り坂に差し掛かる。アークはこの先、住宅街と山林の境界にある。空はどんよりと灰色で、冬の終わりを思わせるような重さを帯びていた。優希の吐く息も白い。
坂の途中、かつて営業していたガソリンスタンドが見えた。給油ポンプはすでに破壊され、事務所の窓はすべて割れている。ガラス片を踏まないように通り過ぎようとしたとき、遠くで何かが転がる音がした。
ピタリ、と足が止まる。
背筋を冷たいものが走る。音は、一度きり。しかし、聞き間違いではなかった。優希は息を殺し、近くの自販機の影に身を寄せる。
音のした方を慎重に覗く。誰もいない──はずだ。しかし、油断は禁物だった。感染者は時に這い、時に走り、時に予測不能の速さで襲ってくる。人ではなくなった「彼ら」は、音や匂いに敏感だ。
「……やっぱり、回り道しよう」
そう決めて、優希は坂道を逸れ、小さな畑沿いの細道へと進んだ。ぬかるんだ土を踏みながら歩くと、靴の裏に泥が張り付いた。生垣の向こうからカラスの鳴き声が聞こえる。生き物の音は、もはやそれだけだった。
やがて、木々の向こうにホームセンターの輪郭が見えた。優希は思わず立ち止まり、小さく息を吐いた。廃墟のように沈黙したその建物は、しかし彼にとっての最後の希望だった。
「……着いた」
シャッターは、閉じていた。錆びついた鋼鉄の壁が、正面入口をしっかりと覆っている。周囲に人影はない。
駐車場には一台の軽トラが放置されており、タイヤはパンクし、ボンネットが空いていた。誰かが物色したのだろう。
建物の脇を回り込み、裏手へ向かう。優希の手には小さな鍵束が握られていた。バイトの最終研修で渡された、裏口の合鍵。
社員が使う倉庫口と、搬入口を兼ねた出入り口。ふと、「あの時の店長」の顔が浮かぶ。
──何かあったら、使っていいからな。責任は俺が取るよ。
のんびりした声と一緒に、無造作に鍵を手渡された日のことが思い出される。まさか、こんな形で使う日が来るとは。
搬入口のシャッターには南京錠がかけられていた。優希は震える手で鍵を差し込み、慎重に回す。
「カチャ」
鈍い音がして、錠が外れる。
辺りを見回し、耳を澄ませる。異常なし。
優希はゆっくりと扉を開けた。
中は、暗かった。倉庫の空気は湿っていて、かすかに埃と油の匂いが混ざっている。
懐中電灯のスイッチを押し、小さな光で床を照らす。
「……まだ、無事だ」
棚には商品が並んだままだ。非常食の入ったダンボール、キャンプ用のテント、携帯ガスバーナー。
誰にも手をつけられていない。唯一、埃だけが全ての上に積もっていた。
扉を閉め、錠をかけ直す。安堵のため息が自然と漏れる。優希はその場にしゃがみこみ、腕で顔を覆った。
──間に合った。
涙がこぼれたのは、その数分後だった。
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