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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
19/20

Episode18:静かな戦い

夜のホームセンターは、巨大な生き物のように沈黙していた。


売り場の棚はその骨格、吹き抜ける風は血流。その身体を満たす空気はひんやりと重たく、どこかじっとりとした緊張を含んでいる。

シャッターの向こうでは、遠く風がコンクリートを撫で、何かが軋むような音がかすかに重なっていた。気配はない。だが、だからといって「安全」とは限らなかった。


優希はバールを両手で握り、鋼音のすぐ後ろを歩いていた。


背中に背負った養生を終えたばかりの手製の弓が、背筋に沿って凍たい感覚を伝えてくる。慣れない武器。扱い方も構え方も不確かで、どこか「借り物の道具」のような距離感がある。


「……歩き方を真似ろ。足音を潰すな」


鋼音の低く抑えた声が、空気を裂かずに滑り込んできた。 命令というより、「しみついた指示」。優希はこくんと小さく頷き、歩幅を調整する。


重たい沈黙が床を通って流れていた。遠くの天上では、さらにまばらな電灯が点滅している。


その光も、自分たちが存在するこの地を少しずつ明らかにしているにすぎなかった。


優希の呼吸とバールのきしむ音だけが、自分の存在を証明しているようだった。


「……こんなに静かだったっけ」


自分で自分の音がこんなに小さく聴こえることに驚く。


だが、鋼音は振り返らず、ただ従いの妄けるような運びで前を歩いている。


「売り場、屋上、外周部、そしてもう一度売り場。それがルーティンだ」


その声に、優希は心の中でそっと頻った。


弾のように前を走る鋼音の背中を見つめながら、自分の自身が少しずつ笑われるように動いていることに気づく。


屋上に出れば、夜風が顔を撫でた。


雨の後の月は薄く、星の粒が一部だけ夜空に点滅している。


かつて物置きだったのだろう構造物の近く、鋼音が止まる。



 優希は風の音に耳を澄ませた。屋上を撫でるように流れる風が、どこか人工的な音を拾ってきては、金属の縁にぶつかって響いている。


 鋼音の言葉が、すぐ背後で重なる。


 「風は、動くものの痕跡を運ぶ。空気の流れに逆らう異物は、必ず“音”を置いていく。……夜は、それを聞く時間だ」


 声に抑揚はない。まるで長年使い続けたナイフのように、実用性だけを削ぎ出したような言葉。


 優希は無意識に頷いていた。全てを理解したわけじゃない。けれど、その言葉が、自分の生死に関わる“真実”であることは、空気ごと肌に染み込んでくるような気がした。


――そのときだった。


 ギィ……


 乾いた軋み音が、屋上の反対側から届いた。

 金属が、何かに押されたような微かな異音。風に乗ったその気配は、風景から切り離された異物のように、優希の鼓膜に突き刺さった。


 反射的に身体が反応する。

 優希は背中の弓へと手を伸ばした。矢筒から一本を抜き取り、震える手で弦にかけようとする――だが。


 手が、震えていた。


 (……え?)


 わずかに冷えた指先に、汗がにじんでいる。

 いつの間にか全身が緊張に包まれていた。

 脇が締まらない。肘が浮く。構えたつもりの矢が空回りし、弦の上を滑った。


 「……くそっ……!」


 唇の裏に力が入り、奥歯がきしむ。

 頭では「冷静になれ」と叫んでいるのに、腕が、指が、呼応してくれない。


 視界の端が滲む。矢先がどこを狙うでもなく、頼りなく空へと向いていた。


 (落ち着け……落ち着け……!)


 呼吸が浅くなる。

 風が、頬を撫でる。月光が、弓の木肌に鈍く反射する。

 だが、世界の輪郭は曖昧で、何もかもが自分から遠ざかっていく気がした。


 そのときだった。


 鋼音が無言で一歩前に出た。

 彼は弓も手斧も構えない。ただ、風の方向に向き直り、目を細める。

 耳を澄ませ、気配を計る。その姿はまるで、音の波を視ているかのようだった。


 数秒。永遠のような沈黙。

 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


 「……風だ。倉庫の金具が鳴っただけだ。矢を戻せ」


 その言葉は、鋭さよりも静けさを持って優希に届いた。


 優希は弓をゆっくりと下ろした。

 知らぬ間に肩に力が入りすぎていたのか、腕に痺れが残っている。

 息を吐いた瞬間、胸の奥から濁った空気がごぽりと溢れたようだった。


 「……すみません。早とちりしました」


 自分でも驚くほど小さな声だった。

 でも、その中には――確かな悔しさがあった。


 鋼音はすぐには返さない。

 少し間を置いてから、静かに言った。


 「早い判断は悪くない。ただ、精度が伴わなければ――自分を危険に晒すだけだ」


 語気は穏やかだったが、その言葉は容赦がなかった。

 現実の重みを、突きつけるようなひと言。


 優希は無意識に唇を噛み締めていた。

 胸の奥で、悔しさと自己嫌悪が入り混じり、ぐずぐずと煮え立つ。


 けれど。


 「今はバールのほうが良いだろう」


 そう続けた鋼音の言葉に、責める色はなかった。

 ただ事実を言っているだけ。だが、その事実は否定ではない。“切り捨て”でもない。


 “今は”――。


 たったそれだけの言葉に、優希の中にわずかな灯がともる。


 (俺は……まだ、使えない)


 それは確かに現実だった。指先の震えも、矢の不発も、すべてがそれを証明している。

 けれど――


 (でも、「まだ」なんだ)


 それは“いつか使えるようになる”かもしれないという余地だった。

 たとえ今は未熟でも、この人はそれを見捨てていない。


 「……はい」


 短く応え、弓を背に戻す。

 代わりに、両手でバールを握り直す。その冷たい鉄の重さが、自分の現在地点をはっきりと教えてくれる。


 風が再び吹いた。

 さっきまで強張っていた胸に、ほんの少しだけ空気が入り込む。


 「……昼間、時間があれば弓を見てやる。だから、焦るな」


 鋼音は優希の顔を見ないまま、淡々と呟いた。

 まるで、訓練の予定を組むかのような自然さだった。


 その言葉に、優希は目を伏せたまま、静かに頷いた。


 背後の夜は深い。それでも、自分は確かに、少し前へ進んだ気がした。



 鋼音の足音が再び動き出す。優希もそれに続き、バールを握る手に力を込める。

 手のひらはじっとりと汗ばんでいたが、先ほどよりも、わずかに呼吸が整っていた。


 (俺は……)


 歩きながら、優希はふと、パンデミックの前の自分を思い出していた。

 駅前のファストフードで友達と時間をつぶしたこと。

 家では医者である父親が新聞を読みながら、口癖のように「将来を見据えろ」と言っていた。

 その言葉に対して、優希は「俺は普通でいいんだよ」と返すのが常だった。


 ――普通。


 それが、彼にとっての理想だった。


 秀でず、尖らず、目立たず。

 波風を立てず、周囲と調和して生きていくこと。

 それが「賢い選択」だと信じていたし、そうやって生きてきた。

 それで十分だった。いや、そう思い込もうとしていた。


 でも、今は――違う。


 自分の手で武器を持ち、誰かを守るという立場に、知らず知らずのうちに足を踏み入れている。

 そのことに、戸惑いがなかったわけじゃない。怖くなかったわけじゃない。


 でも。


 (守られるだけのままじゃ、ダメだって……本気で思ってる)


 ホームセンターに最初に逃げ込んで、閉じられたシャッターの内側で震えていた自分。

 略奪者に襲われ、すみれが汚されそうになっているにも関わらず抑えつけられ何も出来なかった自分。

 もう二度と何もできずに逃げるだけの人間にはなりたくないと、心の奥底で強く思った。


 それが、今もずっと残っている。


 まだ上手くはいかない。弓は手になじまないし、動きはぎこちない。

 だけど――それでも、「なりたい自分」に向かって、確かに一歩、踏み出せている。


 (いつか、俺もちゃんと、戦えるようになる)


 風の音が、ほんの少し優しくなったように思えた。


 背中にいる鋼音の足音は、変わらず無音のような静けさをまとっていた。

 けれど、その沈黙の中に、言葉以上の信頼が滲んでいる気がして、優希はそっと唇を引き結んだ。


 この夜――静かに確かに、少年は“守られる側”から“守る側”へと、最初の一歩を踏み出していた。



 


 屋上を降りると、空気の温度がわずかに変わった。コンクリートの壁に囲まれた外周部は、夜風が淀んで流れ込み、どこか水底のように静まり返っている。


 鋼音は歩を止めない。懐中電灯の光を最低限に絞り、足元の排水口、折れかけたフェンスの継ぎ目、外灯の影など――“脆い箇所”に指先を向けていく。


 「ここは雨が溜まる。感染者の足跡が残るかもしれない」


 「金網の下が破れてるな。獣か、あるいは……」


 その声は、いつもと変わらず淡々としていた。だが優希の耳には、それがまるで“戦場の地図”を描くように聞こえた。


 今までなら、何気なく通り過ぎていた場所。日常の目では決して捉えられなかった死角たち。

 だが、鋼音の言葉と指し示す仕草が、それらの意味を鮮やかに浮かび上がらせる。

 どれもが「生と死」の境界を示すしるしのように見えてくる。


 優希は一つひとつを飲み込むように見つめ、意識の奥に刻み込んでいく。

 ただ覚えるだけじゃない。理解し、今後自分の“視界”として使えるように。


 外周の巡回を終え、再び売り場の裏手の通路へと戻っていく。

 静かな夜の空気は、どこまでも深く、濁っていなかった。


 ――そして、疲れがゆっくりと体に降りてくる。


 さっきよりも足取りが重く、額にはじんわりと汗が滲んでいた。

 それでも、不思議と嫌な感覚ではなかった。


 (俺は今……守る側として、この場所を歩いてる)


 そんな思いが、ほんのわずかな誇りとなって胸の奥に灯っていた。

 誰にも言われていない。何かを成し遂げたわけでもない。

 でも、自分の中で何かが確かに変わり始めているのを感じていた。


 ――そのときだった。


 鋼音が、音もなく立ち止まった。


 まるで時間そのものを切り取ったような静止。気配すら消えるような沈黙のなか、彼はただ、静かにその場に立っていた。


 「……!」


 優希も即座に反応する。息を止め、動きを止めた。

 何かが来る。いや、来るかもしれない。

 脳が反射的にそう告げ、筋肉が強張る。視界が微かに揺れ、鼓動の音が耳の中で大きく反響する。


 数秒――それは永遠にも感じられるほど長い静寂。


 そして、鋼音が一歩、ゆっくりと前に進んだ。


 振り返らず、そのまま低い声で呟くように言った。


 「……お前は、気配に対して反応が早い」


 その言葉は、夜の空気を鋭く斬った。無駄のない短い評価。

 けれど、それはまぎれもなく“認めた”者の口からしか出ない言葉だった。


 「生き残る奴の特性だ」


 振り返った鋼音の目は、深い夜の中に溶け込むように静かだった。

 だが、その視線は確かに、優希の輪郭をとらえていた。


 優希は、言葉を返せなかった。喉の奥がじわりと熱くなる。

 拳を握りしめた。バールの冷たい感触が、手のひらに痛いほど食い込む。


 ――たった一言。


 それだけなのに、全身に血がめぐるような感覚があった。

 自分は、今ここにいていい。守られるだけじゃない。戦える場所に立てる。

 そう言われた気がして、胸の奥で何かがかすかに鳴った。


 「……ありがとうございます」


 小さな声だったが、それでも優希の中では、確かに何かを越えた一歩だった。


 この夜、少年はほんの少しだけ、“守られる側”から“守る側”へと踏み出した。

 まだ技術も経験も足りない。失敗もするだろう。

 それでも、背を向けず、逃げず、ここにいるという意思。


 そしてそれは、彼にとって初めての「夜の巡回」であり――

 やがて幾度となく繰り返される「静かな戦い」の、始まりでもあった。

ブックマークありがとうございます。

のんびり頑張ります。

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