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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
17/20

Episode16:無力さと優しさ

朝靄がなお尾を引き、森はまだ夜の名残を身に纏っていた。木々の間に流れる空気は湿り気を孕み、土と朽ち葉の匂いが濃く鼻をつく。踏みしめるたびに、柔らかな腐葉土がくぐもった音を立て、静寂の中に微かな振動を生む。


鋼音は、その沈黙の先頭にいた。背中にいくつもの道具と武器を吊るした重装の男――だがその足取りに重さはなく、まるで霧に紛れる影のように音もなく進んでゆく。濡れた苔、ぬかるむ根、絡みつく蔓草すら、彼の進行を止めることはなかった。


「こっちだ。地形を覚えろ」


低く絞った声が、鋼音の背中越しに飛ぶ。無駄な言葉を削ぎ落とした、それだけで空気を引き締める声。


「……はい」


優希の返事は一瞬遅れ、かすかに上擦った。肩に斜めがけにしたバールが太ももにぶつかるたび、冷たい金属の感触が不安を増幅させる。胸の奥が苦しい。息は浅く、喉の奥は乾ききり、血の味さえした。耳に響くのは、どこまでも速くなる自分の心音。呼吸すら、どこか異物のように感じられる。


森は深く、天蓋のように張った枝葉が朝の光を遮る。鳥の声はか細く、風の気配さえも薄い。静寂――けれどそれは「平穏」ではなかった。


これは、“何もいない”のではなく、“何かがこちらを窺っている”音。


その確信に近い直感が、優希の背筋を這い上がっていく。


「……っ!」


突如として、鋼音が片腕を横に伸ばした。即座に進路を遮られ、優希は思わず息を呑む。森の空気が張り詰め、見えない刃が喉元に突きつけられたかのような緊迫感に包まれる。


「来るぞ」


囁くような声が、霧の中で刃のように鋭く響いた。


その刹那――前方の茂みが、不気味な粘りをもって揺れた。


ぬるり、と這い出てきたのは、泥と血にまみれた肉の塊。全身に走る裂傷、肉の裂け目からは白濁した組織が覗いている。眼球は濁りきり、それでもしっかりとこちらを見据えている。よろめきながらも一直線。ためらいも、痛みも、恐怖もない。そこにあるのはただ、獲物を貪る衝動だけ。


鋼音は一歩も引かない。無駄の一切を削ぎ落とした動きで、背に負ったコンパウンドボウを手に取った。


引き絞り――すら視認できぬ速さ。指先の動き一つ、わずかに腕が揺れたかと思った次の瞬間には、矢は既に放たれていた。


ヒュッ、と風を裂く音。ほぼ同時に、矢が感染者の眉間に突き刺さる。ぐらりと揺れた肉体が、糸を切られた人形のように崩れ落ちた。


優希の足が止まる。口の中がカラカラに乾き、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。あの無音の動き――あの精度。まるで、狩ることに特化して進化した獣のようだ。


しかし、息をつく暇はなかった。茂みの奥から、再び呻くような声が上がる。もう一体。濁った目、ずるずると引きずる足。ゆっくりと、だが確実にこちらへと歩を進めてくる。


優希は反射的にバールを構えた。けれど、その手が震える。腕が震えるのではない。脳が震えている。焼き付いている――あの日の記憶が。


最初に感染者を殺した日。あの、崩れた顔の店長。


言葉にならない呻き声。生きていたはずの人間が、生者を襲ってきたあの悪夢の瞬間。血塗れのエプロン。砕けた眼鏡。あれを、忘れることなどできるはずがない。


「クソっ……!」


喉の奥で吐き出すように叫ぶ。そして――逃げないと、決める。鋼音に呆れられるのが怖いのではない。自分自身が、自分に見限られるのが怖かった。


脚を踏み込み、叫ぶ。


「うおおっ!!」


振り抜いたバールが、感染者の側頭部を砕いた。ぐしゃりと濁った音。血が、骨が、優希の頬に飛び散る。腐臭が鼻を突き、喉の奥が吐き気で熱くなる。


それでも、膝は折れなかった。


やれた。殺した。自分の手で。


呼吸が荒い。肺が焼けるように熱い。だが、まだ生きている。自分は、生き延びた。


その背に、鋼音の声が落ちる。


「力が入りすぎだ。肩の力を抜け。もっと滑らせるように打て。殺すのはお前じゃない、相手だ」


声は鋭く、だが否定ではなかった。事実の指摘。改善のための言葉。そこに、冷たさよりも「期待」の温度が滲んでいた。


優希は必死に呼吸を整えながら、こくりとうなずいた。


――たしかに何かが、胸の奥に灯った。


鋼音は無言で歩き出す。やがて森の獣道の脇にしゃがみ込み、携行していた金属の輪とワイヤーを取り出し、木の根元に手際よく設置していく。


「……くくり罠?」


問いかけると、鋼音は視線も上げずにうなずいた。


「食える獣が、まだ残ってる。罠にかかれば、しばらくはタンパク源になる」


「それって……その、すみれさんの料理のために?」


鋼音の手が一瞬止まる。そして、ぽつりと呟くように――


「……あの女の料理は、食うに値する」


その一言に、優希は思わず鋼音の横顔を見る。いつも冷たい鉄の仮面のような表情に、微かだが確かに、人間らしい熱が宿っていた。


森の霧が、少しだけ晴れた気がした。


「鋼音さんって、意外と――」


「油断するな」


その温度を一瞬で吹き飛ばすように、冷たい声が飛ぶ。


「気を抜いたその一瞬で、命を落とす。敵は人間じゃない。間違いを、見逃してはくれん」


優希の背筋が凍りつく。温もりの幻を裂くような、現実の声。


慌てて姿勢を正し、バールを握り直す。


森は再び、沈黙の獣のように気配を潜めていた。


それでも――


優希の胸には、確かな残滓があった。


冷酷な狩人の仮面の下に、仲間のために獲物を狙い、料理の価値を認める一人の人間――鋼音という男の輪郭が、少しだけ浮かび上がった気がした。


そしてそれは、ただの傭兵としてではなく、「共に生きる者」として彼を感じられた、ほんのわずかな瞬間だった。




---




午後の空は濁っていた。鈍い銀の膜をかぶせたように、太陽はあるのに光が冷たい。じっとりとした空気が地表にまとわりつき、すべてをゆっくりと腐らせていくような午後だった。


鋼音は、ホームセンターの境界線沿いを黙々と哨戒中だった。手にはコンパウンドボウ。矢筒の中身を指で確かめるでもなく、ただ、風の流れと地形の影を読むように、足元の砂利を踏みしめて進む。


そのとき――風が変わった。


微かな風が首筋の汗を撫でる。だが、それに混じるのは、湿った獣のような生臭さ。腐敗と土、そして血の混合物。


風下に潜むものがある。


鋼音の身体が、ぴたりと止まる。眉ひとつ動かさず、ただ眼差しだけが茂みの奥へと鋭く伸びていた。


鳥の鳴き声が、ふと消えていた。


その代わりに、木々の間から漂ってくるのは、重い沈黙。耳の奥を押しつぶすような、湿り気を含んだ異様な静けさ。空気の密度が変わっていた。湿度ではない、「生の気配」とも「死の気配」とも異なる、肌にまとわりつく殺意のような圧。


「……来てるな」


低くつぶやいたその声は、音というより空気の揺れだった。


感染者は音や匂いよりも、「気配」で分かる。鋼音にとってそれは、かつて死の淵を何度も渡った果てに身につけた、生存者としての直感――否、生き残るための野生そのものだった。


足音を立てず、後方へ一歩後退。靴底が地面をこすりもせず、影の中へ滑るように移動する。次の瞬間、鋼音は駆けた。


重心を低く、速度を制御しながら、しかし迷いのない軌道で林の斜面を駆け下りる。ただの走りではない。遮蔽物の配置、地形の傾斜、足場の強度――すべてを瞬時に把握し、無駄のない動きで最短経路を辿る。戦場で研ぎ澄まされた、「生き残るための移動」だった。



---


同時刻、ホームセンター裏手。沢から水を引き込んで作られた貯水タンクの近くでは、優希とすみれが作業に集中していた。


「ホース、やっぱり不安定なんだよな……」


優希はしゃがみ込み、濡れた手でパイプバンドを締め直していた。ホースの継ぎ目から、水がじわじわと漏れている。足元の土が、静かに濃い色に変わっていく。


「うーん……針金、足せばいけるかも。固定箇所、あと二、三ヵ所増やせば」


すみれが工具箱を漁りながら答えた、そのときだった。


――ガサッ。


音は短く、それでいて異様にくっきりとしていた。空気の温度が、瞬間で数度下がったかのような錯覚。自然の音が引き潮のように消え、沈黙だけが満ちる。


すみれが顔を上げた。同時に、木々の間から、奴らが姿を現す。


感染者――二体。


身体は膨れ、皮膚はひび割れ、ところどころ肉が露出していた。目は白濁し、口元からは涎のような液体が垂れている。その動きはぎこちないのに、歩を進めるたびに確実に距離を詰めてきた。


それは、狩る動きだった。


「逃げて!」


優希が叫ぶ。反射的にすみれを背後にかばい、手にしていたバールを構える。そして、感染者の隙間をすり抜けるように駆け出した。狙いは一つ――おとりになること。すみれを逃がす時間を稼ぐため、自分が囮になる。


だが――


「っ……!」


足元が滑った。


泥。見えていたはずの足場が、踏み出した瞬間に崩れた。重心が宙を切る。バールを支えにしようとしたが、間に合わない。地面に叩きつけられる衝撃が、肺の中の空気を押し出した。


咳き込みながら顔を上げる。目の前には、もう一体の感染者がいた。


のろのろと、だが確実に、殺意の歩調で近づいてくる。


逃げられない――そう脳が判断するより早く、恐怖が喉を締めた。


そのとき、雷鳴のような声が空を裂いた。


「下がれ」


次の瞬間、鋼音の影が降ってきた。


コンパウンドボウを構えた姿――いや、構えていない。弓は、弓ではなかった。


鋼が空を斬り、感染者の頭部へと叩きつけられる。


バキィンッ。


乾いた音。鈍い衝撃。感染者の首が不自然な角度でねじれ、全身が脱力するように崩れた。


鋼音の腕が震えていた。弓の骨格がギシリと悲鳴を上げている。あれほど頑丈だったコンパウンドボウの関節部が、歪み、砕け、悲惨な形で裂けていた。


至近距離だった。矢を射つには間に合わない。ならば、壊してでも殺す。躊躇いのない判断。


「……ッ、ダメか」


鋼音が吐くように言う。


「無理をした。弓は……もう使えん」


その目は、壊れた武器の接合部を淡々と見つめていた。武器を「消耗品」として扱う目だった。兵士の目。戦場でしか得られない、冷たい職人の視線。


「……俺のせいだ」


泥にまみれた優希が、顔を上げた。


「俺が……下手打ったから。俺が逃げそこねたから、そんな無茶をさせて……! ごめんなさい……!」


鋼音は何も言わなかった。言葉ではなく、斧を抜いた。残るもう一体の感染者へ向かい、冷静に、正確に、最短の距離で踏み込み――


ゴッ。


斧が頭蓋を砕く音。骨が折れ、肉が潰れ、遺体が倒れる。


それを見届けてから、鋼音は優希に目を向けた。


そして、一言だけ。


「物はいつか壊れる。お前が無事なら、それでいい」


その声は、酷く静かだった。冷たく、乾いているのに、妙に心に染み入った。


その一言が、優希の胸にずしりと沈んだ。


責めるでもない。咎めるでもない。ただ、「生きていたこと」を当然のように優先した言葉。


鋼音という人間の価値観――


冷酷なほど現実的で、だが決して見捨てない。


それが、鋼音なのだ。


優希は、泥の中で拳を握りしめた。震える身体で、壊れた弓を見つめながら。


この悔しさは忘れない。この無力感は、必ず、自分を変える力にする。


そう、深く、強く、心に刻み込んだ。





---




西陽が斜めに差し込み、倉庫の無機質なコンクリート壁を、茜色に染めていた。ホームセンターの資材置き場――人の気配が遠ざかるその空間に、鋼音の姿があった。


傍らには、すでに役目を終えたコンパウンドボウが横たわっている。


リムは落下の衝撃で歪み、滑車は軸ごと割れていた。幾度となく彼の命を繋いできた相棒。それでも鋼音は、執着や悔いといった色を一切見せることなく、淡々と部品を分解していた。滑車の動きを確かめ、リムの張力を指先で撫で、静かに取捨選択していく様は、まるで何年も続けてきた日課のようでさえあった。


それは、あまりに機械的だった。だが、すべてが無感情というわけではなかった。


分解し終えた滑車を指先で回しながら、鋼音はふと動きを止めた。黒い瞳が虚空を彷徨う。そこには何の感情も貼りついていないように見えたが、ほんの一瞬、遠い過去を見つめるような静かな陰りが揺れた。


それは、彼なりの「惜別」だった。


背後から、かすかに香りが漂ってくる。


鉄と埃の入り混じったこの場所には、あまりにも場違いな、やわらかなハーブの匂い。乾燥した空気の中に、確かに瑞々しい気配があった。


鋼音が顔を上げると、そこにすみれが立っていた。


手には、湯気のたつマグカップ。


「……また、一人で片付けてるんだね」


柔らかく、しかし言外に責めるような響きを孕んだ声。鋼音は返事をしなかった。否定でも肯定でもない、ただそのまま彼は彼であろうとした。


すみれはため息をひとつつき、マグをそっと差し出した。


「これ、今淹れたの。レモンバーム。飲むかは分かんないけど――でも、私の気持ちだから。受け取ってくれたら嬉しい」


それは、言葉の中にちゃんと「感情」が込められていた。礼儀や形式ではなく、彼女自身の想いだった。


彼女は知っている。鋼音が「道具の死」に感傷を抱く人間でないことも、思い出を語るタイプでもないことも。それでも、このボウは彼が命を賭けて使い続けたものだ。ならば、たとえ本人が何も言わなくても――誰かが、それに敬意を払うべきだとすみれは思った。


マグに満たされたハーブティーは、甘さ控えめの薄い風味。しかしその香りは、まるで優しい掌のようだった。鋼音がいつも背負っている静かな孤独。その肩の隙間に、ほんの少しでも人のぬくもりを差し込めたらと、彼女は本気で願っていた。


鋼音は、しばらくマグを見つめていた。指が、持ち手の縁をゆっくりとなぞる。迷うような仕草。それから無言のまま、それを受け取り、一口だけ喉を潤した。


ぬるい液体が、静かに喉を流れる。


何かが変わるわけではない。ただ、それだけのはずだった。


それでも――確かに、空気が少しやわらいだ。


すみれは彼の隣に腰を下ろす。距離を詰めすぎず、けれど確かに傍にいる。彼女の存在は、無理に踏み込もうとしないのに、確実に寄り添っていた。沈黙が重くならないのは、その心に「伝えたい」という本心が宿っていたからだ。


倉庫の奥。鉄骨棚の隙間から、その光景を、優希がじっと見つめていた。


言葉がないのに、ふたりの間には確かに通じ合うものがあった。 その空気を前に、優希は、ほんの少しだけ目を伏せた。


(……ずるいな)


胸に、小さな痛みが走る。


嫉妬というには青くさい。でも確かに、自分だけが場違いなところにいるような、切なさがあった。


(鋼音さんと、あんなふうに並びたい。……でも、俺には無理だ)


すみれのように、自然に誰かのそばに立つこともできない。鋼音のように、すべてを黙って背負う覚悟もない。心の中に、分厚い壁が立ちふさがっていた。


(「普通」でいたい――なんて、言ってたっけ)


パンデミック前、自分の「居場所」を壊したくなくて、波風を立てたくなかった。親の期待も、周囲の目も、全部そつなくこなして、なるべく目立たず生きてきた。


だけど、今。


この世界で、誰かの力になるには、「普通」ではいられない。


(……俺は、まだ何もできてない)


誰かを助けたことも、守れたこともない。ただ生き残っているだけ。守られて、生かされているだけ。そんな自分が、彼らの輪の外に立っているのは、当然のことだと思えた。


唇を噛みしめた。悔しい。情けない。


けれど、その感情すらも、いまは燃やすための火種にしなければならないと、どこかで理解していた。


(……でも、逃げたくない)


彼らのそばにいたいと思った。


その気持ちに、言い訳を重ねたくなかった。


いつか、すみれのように、誰かにお茶を差し出せるようになりたい。


それが誰かの心をほんの少しでもほどくなら、自分の手でそうしてみたい。


いつか、鋼音のように、背を向けたままでも信頼されるような人間になりたい。


その信頼を守るために、自分の命を賭けることを恐れない自分でありたい。


倉庫の中で、鋼音が静かに空のマグを撫でた。


その動作に、感情は見えなかった。けれど、どこか――「ありがとう」と言っているように、優希には思えた。


(……俺も、信じてもらえるように、なりたい)


その夜、優希は一つの決心をした。




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