Episode15:変化
深夜、売り場の巡回中。
カツ……と硬質な足音が、静まり返ったフロアに乾いた軌跡を刻む。
鋼音は、無言のまま通路を歩いていた。天井のランプは、省電力モードのまま薄暗く灯り、コンクリの床に長く細い影を落とす。空調は止まって久しく、空気は淀み、湿り気を含んだ床が足音を生々しく反響させていた。
ふと、彼の視線が一点で止まった。
しゃがみこむ。棚と床の狭い隙間に、透明なナイロン糸が一本、ほのかに震えていた。風もないのに——。
その先には、錆の浮いた空き缶がふたつ。わずかに触れ合い、コトン……と、ほとんど音にもならない音を立てた。
鋼音は数秒、その静かな震えを見つめていた。
糸に指を添え、わずかに引っ張って張り具合を確かめる。結び目の角度、素材の摩擦、缶の重量と揺れ幅——すべてを、言葉ではなく目と指先で追っていく。
「……悪くない」
ぽつりと、それだけ呟いた。
「えっ、ホントですか?」
不意に背後から声がした。
振り返ると、通路の奥から優希が顔を出していた。肩にタオルケットをかけ、髪は寝癖で跳ねている。眠気を滲ませた顔で、こちらへ小走りに近づいてくる。
「なにか問題がありました?」
そう言いながら、自分の仕掛けた罠に視線を向けた。
鋼音と目が合う。彼は再び糸に触れ、無駄のない動きで分析を続けながら言った。
「張り方にムラはあるが、設置位置は悪くない。素材の選び方も現場を理解してる。実用性はある」
一瞬、優希の顔がふっと明るくなる。
けれど——その表情は、次の言葉で容赦なく打ち砕かれた。
「……ただ、音の方向が読めすぎる。連動性がない。20センチ、糸の高さを下げろ。足に引っかからなきゃ意味がない」
淡々とした指摘だったが、それは容赦のない現実でもあった。
「……やっぱ、プロから見たらまだまだですよね」
優希は唇をかすかに尖らせ、空き缶の揺れる音を聞きながらつぶやいた。
その声音には、怒りでも落胆でもなく、自分の未熟さに直面した照れと、くすぐられた自尊心が滲んでいた。
ほんの少し、『もっと褒めてほしかった』——そんな子供じみた思いが頭をかすめて、自分に腹が立つ。
それでも、どこかで嬉しかった。
たしかに評価されていた。たとえ手厳しくても、真正面から。
鋼音は目だけを向けたまま、静かに立ち上がった。
「素人が独学で仕上げたにしては、上出来だ。問題なのは“知らない”こと。それだけだ。知識と経験があれば、精度は上がる」
その声音に、非難も感情もなかった。
ただ淡々と、現実を言語化して提示してくる。まるで計測器の数値を読み上げるかのように。
優希は黙ってうなだれ、揺れる缶に視線を落とした。
ゆるやかな夜風がすり抜け、缶を微かに揺らす。まるで、どこかで不安定な自分自身を映しているようだった。
——だけど。
「……じゃあ、教えてくれますか? “経験”のほうも」
言葉は、思ったより素直に出てきた。
負け惜しみでも、見栄でもなかった。心からの願いだった。
自分には、まだ何もない。なら、知ってる人から学ぶしかない。
鋼音に認められたい——その想いはまだ言葉にならなかったが、確かに心にあった。
鋼音はしばし沈黙のまま、彼の方をじっと見ていた。
やがて、踵を返しながら低く短く答えた。
「明日、手が空いたら声をかけろ。外に出る」
それだけを言い残し、音もなく通路の奥へと歩みを戻していった。
その背中を見送りながら、優希は再び揺れる空き缶に目を落とす。
缶はさっきより静かに、けれど確かに、わずかに揺れていた。
胸の中に、ほんの小さな灯がともる。
誰かに認められるということ。
誰かに信じてもらえるということ。
それが、こんなにも温かいものだとは思わなかった。
不器用な肯定。それは、信頼の入口だった。
——その夜、優希は久しぶりに、少しだけ安心して、目を閉じた。
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冷えた風が吹き抜ける。
薄雲の切れ間から月が顔を覗かせ、灰色に染まったアスファルトがぼんやりと鈍く光る。そこは、かつて開店前にパンデミックを迎え、ついに一人の客も迎えぬまま忘れられたホームセンターの駐車場跡。
錆びて斜めに倒れたカート。風に擦れるアクリル板の音。朽ちた段ボールの切れ端が風に舞い、夜に吸い込まれていく。
もはや日常となった廃墟の景色の中で、鋼音の動きは止まらなかった。むしろ夜が迫るほど、その手つきは正確さを増していた。
「相手は二種類いる」
低く抑えた声で、鋼音は言う。
「考えるやつ(略奪者)と、考えないやつ(感染者)。……どっちにも効く構造を組む」
目の前で、静かに“戦場”が立ち上がっていく。
鋼音がまず取り出したのは、防草シートと木工用ボンド。それを台車から下ろすと、アスファルトの継ぎ目に沿って迅速に貼りつけていく。指先の動きには一切の迷いがない。その上に、まぶされるのは滑りやすく加工された粉末石鹸。
「感染者は、一直線に突っ込んでくる。止まらないなら、“滑らせる”」
斜めに立てかけられるプラパレット。足元に添えられる廃タイヤ。即席のスロープが、すでに地形を変えていた。
そのパレットの裏側には、アルミ缶と金属棒を組み合わせた自作の音響装置が隠されている。落下と同時に、甲高く金属音が響く仕組みだ。
「転倒させれば、体重で“音”が出る。感染者は音に鈍感だが、近距離なら群がる。“罠に罠を重ねる”のが基本だ」
優希は、何気なく視線を落とした足元で、奇妙な缶の仕掛けに気づく。
細かく凹ませ、ギリギリ穴が空かないよう加工された魚の缶詰。逆さに吊られており、踏まれた瞬間、圧によって穴が開く仕組みになっている。
「……魚の缶詰?」
鋼音は頷く。
「穴が空いた瞬間、“臭い”をばら撒く。感染者は音より、臭いに敏感だ。封鎖の囮にもなる」
さらに彼は、園芸用の支柱をL字型に組み上げ、そこに細い透明な釣り糸を何重にも張る。
その糸の先には、金網に括られた古着の束がぶら下がる。染み込ませたのは、灯油と魚の缶詰の残り汁。腐臭と揮発油の混ざったそれは、夜の風に乗ればかなり広範囲に届くだろう。
「これが動けば、臭いが広がる。“動き”と“臭い”は感染者を確実に引き寄せる。……“目的地”をつくるんだ」
優希は思わず呟いた。
「……略奪者にも、感染者にも効くってことですか」
「人は考える。だから“見せる罠”で足を止めさせる。感染者は突っ込む。だから“動きを封じる”」
鋼音の声は静かだったが、どこか切れ味があった。
「罠の意味を切り替えろ。止める。逸らす。集める。ひとつの仕掛けが、一通りの機能だけで済むと思うな」
彼はさらに、ガスバーナー用の細い銅管と小型エアダスターを取り出し、即席の火炎障壁装置を組み上げた。
点火スイッチは離れた位置にワイヤーで延ばされ、狙った瞬間だけ火炎を撒き散らす構造。
「最終手段。火は、感染者にも人間にも効く。だが一発で目立つ。使いどころを誤ればこちらが焼ける」
鋼音はポケットから小さなメモを取り出して言う。
「仕掛けた場所はすべて記しておく。だが、地図は盗まれる。……死にたくなければ、覚えろ」
その言葉に、優希はただ無言で頷くしかなかった。
仕掛けられた罠たちは、どれも即席で作られたとは思えないほど完成度が高い。整然と、迷いなく、目的を持って設置されていた。
月が隠れ、夜が完全に沈み込んだ。
その瞬間、鋼音の動きが再び変わる。
彼は一歩、夜に踏み込むようにして言った。
「夜は“見えない”。だが、人間も感染者も、“光”には敏感になる。それを逆手に取る」
取り出されたのは、ソーラー式の小型ガーデンライト。
プラスチックのカバーは外され、アルミテープで照射角が細く絞られる。わざと地面に置き、周囲を油染みのボロ布と滑る金属板で囲った。
「暗闇の中に、光の一点を置く。“光”に向かわせる。……そして、足を止めさせる」
「これは……わざと“見える”ようにしてるんですね?」
「そうだ。見せる罠は、予測させる。だが次に、“予測させない”罠を重ねる」
鋼音は、空き瓶に詰めたガラス片と小石を紐で吊るし、出入口の頭上に設置した。
風が揺らせば、カランと高い音が響く。
「通れば音が鳴る。見張りがいなくても、音が教えてくれる」
さらに、ペットボトルの口に細工を施し、空気が抜けると高音の笛のような音が鳴るように加工。
それを人が通る出入り口の段差に並べていく。
「夜の静寂は、音が浮く。“足音”ですら銃声みたいに響く。なら、“音”を仕掛けるのが早い」
そして最後に、塩ビ管の先に詰めた蛍光塗料入りの粉末スプレーを手に取る。
それは細い釣り糸のトリップワイヤーに連動し、誰かが引っかかれば自動で足元に噴霧される。
「“見えない敵”には、まず“姿”を見せてもらう。動けば光る。それだけで反応できる」
優希は、自分の中に広がる恐怖と興奮を押さえきれなかった。
音。光。臭い。滑り。転倒。火炎。可視化。
鋼音の手の中で、それらすべてが一つの目的――「生存のための設計図」へと結びついていた。
罠はただの道具じゃない。
この男にとって、それは戦術の言語であり、“夜”という死の帳を切り裂くナイフだった。
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明かりが灯る頃、売り場の一角――棚を移動し什器をバラして無理やり作った簡素な調理スペースに、じんわりと香ばしい匂いが立ち込めていた。
手元の缶詰を見つめたまま、すみれはゆっくりと息を吐く。
「……トマト煮と、クラッカー。粉チーズ。……どうにか、なるか」
ぽつりと零れた独り言。それは誰に聞かせるでもなく、自分の意識を現実につなぎとめるための“習慣”のようなものだった。
焦げつかせないよう火加減に神経を払いながら、すみれは丁寧に作業を進める。砕いたクラッカーを粉状にしてアルミ皿に敷き、その上から煮詰めたトマトの缶詰を重ね、粉チーズをまんべんなく散らしていく。目分量でも、ちゃんと計算はしていた――味を、香りを、舌の記憶をたどりながら。
この食材はどれも、ホームセンターの棚から集めた備蓄。
保存性と栄養だけを優先した、“生き延びるため”の物資。
けれど、すみれはそこに“食事”としての温度を持たせようとしていた。
「……もうすっかり、このキッチンにも慣れちゃったな」
ぽつりと洩れた言葉に、自分でも少し驚く。
大学進学を機に家を出て、すべてを自分でやると決めたときから、すみれは「きちんとこなすこと」に必死だった。
誰かに期待されたいわけじゃない。ただ、自分の中の“納得”に届くように。
でも――パンデミックは、それすら簡単に壊していった。
正解なんてなくて、基準も崩れて、ただ目の前の命を繋ぐことだけが日々になった。
……だけど、今は少しだけ違う。
この場所では、自分が作るものが、誰かの表情を変える。
残さず食べられたり、「うまい」とひとこと返ってきたりするたびに、胸の奥の冷たいものが、少しだけ溶ける気がした。
鋼音。優希。
あの無骨で冷徹そうな男も、どこか頼りないけどまっすぐな少年も――
すみれの料理に、確かに何かを感じている。ただの燃料補給じゃない、“食べる”という行為に、ほんの少しでも心を乗せようとしてくれている。
だから今日も、手を抜かない。
見えない誰かの目を気にしてではなく、ここにいる“仲間たち”のために。
トマトの汁が皿の底でふつふつと煮立ち始める。焦げる寸前で火を止めると、ふわりと立ち上る湯気が、鼻先をくすぐった。
チーズがとろけて甘みを増し、クラッカーの香ばしさと絡み合う匂いに、すみれは思わず目を細める。
「――はい、できた」
誰に言うでもなく呟いたその声に、自然と笑みが宿る。
それはこのキッチンでしか浮かべられない、ごくごく柔らかなものだった。
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すみれが用意した即席の“ピザ風”は、缶詰のトマト煮と砕いたクラッカー、粉チーズを組み合わせた簡素な一皿だった。
アルミ皿で焼かれたその料理は、見た目こそ飾り気がないが、食欲を刺激する熱気と香りを纏っていた。
「はい、できた。おしゃれじゃないけど……焦げてない分、進歩ってことで」
冗談めかして差し出すすみれに、鋼音は無言で皿に手を伸ばす。
スプーンではなく、素手でその一片をつかみ、無造作に口へ運んだ。
咀嚼の音が、わずかに響く。
「……また、うまいな」
その声は、いつも通り淡々としている。けれど、わずかに混じる温度。
それだけで十分だった。
「これはレシピを調べたとかではなく感覚で作ってるのか?」
「うん。まあ……感覚、かな。昔から料理は好きだったし。家でもよく作ってたんだよ」
すみれは肩をすくめたが、どこかその口ぶりには誇らしさが滲む。
鋼音は小さく息を吐いた。
「……感覚だけで、この火加減と配分が出せるなら、才能だ」
その言葉に、すみれの頬がわずかに赤く染まる。
不意に刺さった“率直すぎる褒め言葉”に、心が追いつかない。
鋼音がそれに気づいたかどうか――分からない。だが、そのまなざしはどこか、優しかった。
優希は、そのやり取りを黙って見ていた。
言葉にはしなかったが、確かに感じるものがあった。
(……変わってきてる)
鋼音が、少しずつ“人間らしさ”を取り戻している気がした。
たぶんそれは、すみれの料理が、彼の中の冷たい部分を、じわじわと溶かしているから。
そして――優希の中でもまた、何かが変わりはじめていた。
鋼音への不信感。恐怖。遠さ。
その奥に、微かな“信頼”の芽があることに、彼自身も気づきはじめていた。
罠の構造を黙って見てくれたこと。
自分の不器用な仕掛けを、否定せず受け入れてくれたこと。
すみれだけじゃない。自分にも、ちゃんと向き合ってくれていること。
(……誰かに、ちゃんと見てもらえるだけで、人って……)
救われるんだ。心が、少しだけ軽くなるんだ。
鋼音が皿を片付けながら、ふと口を開く。
「……明日は、山にもう少し実戦的な仕掛けを試す。優希、お前も来い」
その一言に、優希は思わず顔を上げた。
視線は合わなかったが――たしかに、彼に“言った”。
「知らないままじゃ、生き残れん」
その言葉は鋭く、重く。だが、奥には微かな熱――“期待”のようなものが宿っていた。
優希は小さく、でも確かに頷いた。
その目には、かすかに光る決意が浮かんでいた。