Episode14:強者との生活
「……最後にここです。こっちが、僕らの寝床になってます。鋼音さんも、好きな場所を使ってもらえたら」
優希の案内は、そこで終わった。
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
男——鋼音は、無言のままゆっくりと歩を進める。
その足取りは静かだが、床を踏むたびに、確かな重みが響いた。
彼の目は、動線、死角、上部構造、足元の強度——すべてをなぞるように巡っている。
ただ空間を「見る」のではなく、「読む」ような視線だった。
敵意はない。
だが、その佇まいには、肌を刺すような緊張感があった。
空気が、ほんの少しだけ冷たくなった気がした
鋼音。——その名を知らされた後、簡単な自己紹介をあらかじめ聞いていた。
生き延びた数少ない大人。元傭兵。現代社会を生きてきた優希たちにとって、異質な存在。
けれどその「実像」は、想像していた以上に“異物”だった。
鋼音は展示棚の上に敷かれた寝袋に目をやり、ふと立ち止まる。
そして短く、言い放った。
「屋上を使う」
「……え?」優希が思わず聞き返す。
「風が通る。見張りも効く」
それだけ言うと、鋼音はさっさと踵を返した。
質問の余地も、返事を待つ素振りもない。
言葉を探していた優希の目の前で、その背中は薄暗い売り場の奥へと、すっと消えていった。
まるで、壁に溶けるような動きだった。
昼前には、男の動きが変わっていた。
資材コーナーから、足場材、金属ラック、角材、ブルーシート、鉄パイプ、ロープ——
黙々と物資を選び、束ね、運ぶ。
一つ一つの選択に迷いはなかった。
鉄の軋む音。ポリの擦れる音。
その全てが、目的のために最短距離で発せられている。
力任せではない。
身体と道具の重さ、その応力と構造を知り尽くしている者の動きだ。
まるで、「戦場を設営している」ようだった。
「なにを作ってるの?」
すみれが、肘で優希の肩を小突いた。
「……多分、巣?」
「巣?」
「いや、なんというか……自分の寝床。防衛拠点?」
「はあ……男の人って、そういう感じなんだ?」
すみれが呆れたように、けれど少しだけ感心したように言う。
「まあ、僕らみたいに“安全そうなとこ見つけて寝る”ってのとは、違うみたいだね」
「でも……怖くない? あの感じ」
優希は少しだけ黙り込んだあと、小さく答えた。
「……正直、ちょっと。あの人、ずっと緊張してるっていうか、抜け目がないというか……」
「“生きる”じゃなくて、“戦う”って感じ」
すみれの言葉に、優希はうなずいた。
屋上に上がった二人の目の前に現れたのは、もはや「手作りの構造物」という域を超えたものだった。
ブルーシートは風を受け流すよう角度を計算され、
鉄パイプは応急の三脚と見張り用の柵を兼ねて、しっかりと固定されていた。
足場の重心は崩れにくく、視界の死角も最小限に絞られている。
それでいて、高所からホームセンターの敷地内全方位を見張れるようになっていた。
工具の扱いは手慣れていて、インパクトドライバーの音が短く、正確に空を切る。
その音すらも、何かの「合図」のように思えるほど、無駄がない。
その作業には、奇妙な静けさと迫力があった。
——これは、「寝る場所」を作っているんじゃない。
——戦うための“砦”だ。
戦場で生きる者が、自分の命を預ける場所を築いている。
そう直感できた。いや、肌がそれを理解していた。
優希は、気がつけば、息を呑んでいた。
鋼音の目は、どこか遠くを見ている。
この屋上ではなく、もっと別の地平線を。
銃火が走り、爆煙が立ちのぼる、かつての地獄を——今も見ているような目だった。
「ねえ、あの人……」
すみれが低く呟く。
「“今”じゃなくて、“昔”を生きてる感じ、しない?」
優希は黙ってうなずいた。
そして、それがどこか——うらやましくもあった。
あの人は、“自分がどう見えるか”なんて、もうとうに捨てている。
ただ、生きるために、生き残るために、動いているだけだ。
その潔さに、優希はまだ追いつけなかった。
——いや、きっと自分には、ああいう生き方はできない。
だが、もしこの先に、自分たちにも同じような「戦場」が待っているなら——
きっと、あの背中を見て覚えることが、いくつもあるのだろう。
鋼音が、ほんの一瞬だけ手を止め、二人を見た。
「……何か手伝いますか?」
優希が思わず声をかける。
鋼音は無言で数秒、優希を見つめた。
その目には、評価も興味もなかった。
ただ、「味方か、そうでないか」だけを、無言で量るような冷たさがあった。
「……いや」
ようやく口を開いた声は、淡々としていた。
「お前らに使わせるものじゃない。俺のための場所だ」
「そ、そうですか……」
優希の喉が、ごくりと鳴った。
それでも彼は、視線をそらさなかった。
この世界で生き残るなら、きっと、逃げちゃいけない瞬間がある。
だからこそ、今は見ていた。
鋼音という、“生き残る者”の姿を——
---
午後、裏手の駐車場に、四つの遺体が横たわっていた。
襲ってきた略奪者たち——かつて人間だったものの、今はただの死体だ。
資材置き場から鉄板とブロック、スコップを引っ張り出し、鋼音が手際よく準備を進めている。
その動きには迷いがない。火を使って処理する。それが最善であり、最速の方法だとわかっているのだろう。
優希はただ、その背中を見ていた。
腐敗が進めば、確実に“奴ら”を呼ぶ。——それは頭でわかっていた。でも、心がまだついていかない。
この死は、他人事じゃない。
血の色も、皮膚の色も、つい昨日までと変わらない。
数時間前まで、呼吸をしていた、言葉を喋っていたはずの、同じ「人間」だったものが——今、自分たちの手で、燃やされようとしている。
「……焼く、んだよね」
口からこぼれた声は、震えていた。
肯定を求めていたのか、赦しを乞うていたのか、自分でもわからなかった。
背後で、足音。
振り返ると、すみれがいた。手にはマグボトルがふたつ。
「持ってくるまでに冷めちゃったけど、少しは温かいかも」
そう言って、ひとつを差し出してくる。
「ありがとう。……でも、こんなときに」
「だから、でしょ」
優希は受け取ったマグの蓋を開け、ふわりと立ち上る湯気をぼんやりと見つめた。
それはまるで、日常の幻のようだった。
ここがまだ、「普通の午後」であるかのように錯覚する——その優しさが、今はたまらなく苦しかった。
すみれの視線が鋼音の背中に向けられる。
その目に宿るのは恐れではない。むしろ、静かな覚悟だ。
——ああ、自分はきっと、まだその域に立てていない。
不意に、すみれが顔を上げた。
「……あれ、今……聞こえた?」
「え?」
優希も耳を澄ます。
風が吹く音。鉄板が軋む音。
その隙間に、確かに何かが混じっていた。——落ち葉を踏みしめるような、ごくかすかな音。
「やっぱり、今——」
「伏せろ」
鋼音の声が鋭く飛ぶ。次の瞬間には、すでに弓を構えていた。
スッ——風を裂く音。
一本の矢が音もなく放たれ、茂みへと吸い込まれる。
優希は、息を呑んだ。
葉の間から覗いた白濁した目。
その眉間に、矢が突き刺さっていた。
感染者が、音もなく崩れ落ちる。
鋼音は迷いなく、その死体を引きずり出し、準備していた火の中へと放り込んだ。
すぐに、肉が焼ける音と、脂がはぜる匂いが辺りに満ちた。
——優希の胃の奥が、冷たくなった。
あの目。あの表情。
まるで自分を見ていたかのような視線に、心臓が凍る。
どこまでが「他人」なんだろう。
どこまでが「まだ人間」なんだろう。
そして、自分は——どこまで人間でいられるんだろう。
「……もう、“あいつら”が近くまで来てるってこと?」
すみれの声に、鋼音が答える。
「風下に死体が転がってただけで、群れに囲まれたことがある。何度もな……」
その声には、情も感情もなかった。
ただの“事実”として、そこにある。
だからこそ、優希は背筋が凍る。
この世界では、死すらも日常のひとつに過ぎないのかと。
無意識に、すみれの腕を掴んでいた。
あたたかかった。——それが、唯一の救いだった。
「……ほんとに来たんだ、ここにも」
「……ついに、ね」
空気が、急に冷たくなった気がした。
人間の死が、人間を呼ぶ。
その現実が、いま、この場所に突きつけられている。
鋼音は、火の前で何も言わない。
すみれが彼の足元に、そっともうひとつのマグを置いた。
彼のまぶたが、ほんのわずかに落ちる。
それだけで、彼が何かを受け取ったことがわかった。
優希は、ふたりの姿を見ていた。
自分の中の、何かが崩れていた。
そして、何かが築かれようとしていた。
恐怖と、冷静な判断。
命と、死の境界線に立つ時間。
その中で、
すみれの存在は——鋼音の背中は——
優希にとって、壊れそうな「自分らしさ」を、必死に繋ぎとめてくれていた。
焼ける臭いが、風に乗って流れていく。
その匂いの向こう側に、自分が守りたいものは、まだ残っているのだろうか。
そう問いながら、優希は目を閉じた
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夜。
売り場裏の休憩スペース。かつて従業員が交代で仮眠を取ったであろうその一角には、今や生存者三人の仮の居場所が築かれていた。
粗末なスチールの折り畳みテーブル。その上に、わずかに湯気を立てる一つの鍋。 明かりは非常灯だけ。天井から吊り下がった小さな橙色のランプが、場の空気を静かに染めている。人の肌を鈍く照らし、影を濃く落とす。どこか火のようでいて、けれど暖かさはない。
それでも、三人はその鍋を囲んでいた。 言葉は少なく、動作は控えめで――けれど、確かにここに「人のいる気配」があった。
「……とりあえず、これが晩ごはん。量はないけどさ、温かいってだけで……ね。救われるよ」
すみれの声は、少しかすれていた。喉の奥で言葉を押し出すようにして、それでも明るくあろうとする響きがあった。
笑みもそうだった。ぎこちなくて、でも、誰かのために作ったものを差し出す、そのまなざしはどこか母性的ですらある。
食料はまだ潤沢にある。だが、先の見えない日々。備蓄には限りがあり、調達の目処も立たない。
缶詰の豆、乾燥わかめ、くたくたに煮込まれた米――見た目も香りも控えめな雑炊。けれどその湯気は、まるで誰かの体温のように、確かに人の心をゆっくりと温めていた。
すみれはスプーンを配りながら、何度も指先を鍋の取っ手に添え、少しだけ火傷しそうにしていた。落ち着かないその手元を、優希はちらりと見つめていた。
隣に座る彼自身もまた、どこか視線の置き場を失っていた。
なぜだか――まるで、何かを試されているような気がしたのだ。
鋼音は黙ったまま、無言でスプーンを手に取った。
肩の動きひとつ乱さず、静かに鍋の中へと差し入れる。
その一連の動作は、あまりに静かで、無駄がなく――まるで刃物のようだった。
音を立てていないのに、周囲の空気だけが重くなっていく。
やがて一口、口に運ぶ。
スプーンの金属が彼の唇を打つ音が、やけに大きく響いた。
沈黙が、テーブルを包んだ。
優希は無意識のうちに息を詰めていた。
まるで、見えない審判を待つような心地だった。
すみれも、スプーンを持ったまま動かない。
まぶたの裏で、数え切れない懸念が渦を巻いている。塩加減。酸味。温度。水分量。
この空気は――「正解」を探している空気だ。
けれど、生き残るだけで精一杯だった彼らに、「正解」などあるのだろうか。
そして、鋼音が呟いた。
「……美味いな」
その言葉は、空気の膜を破った。
「え、え……?」
すみれと優希が、同時に顔を上げた。目を見合わせたその視線に、同じ色があった。
――驚きと、戸惑い。そして、安堵の兆し。
まさか、この人が味を褒めるとは。
というより、感想を言うとも思っていなかった。
「あ、ありがとう……」
すみれは少し口ごもりながら、それでもどこか照れたように笑った。
その表情は、ついさっきまでの緊張が少しだけ解けたことを物語っていた。
優希もまた、不思議な安堵に包まれながらスプーンを動かす。雑炊の温度が、舌に、喉に、体にしみていく。
決して豪華な味ではない。けれど、今の彼には十分だった。
いや、それ以上だった。――心に、沁みた。
鋼音は鍋を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「料理だけは……どうにもならん。レシピ通りにしても、何かが狂う」
その声には微かな笑いが混じっていた。
けれどそれは、陽気なそれではなく――どこか、自分自身を突き放したような響きだった。
「え、意外。器用そうなのに……何でもできるって感じなのにさ」
すみれがそう言うと、鋼音はほんのわずかに目を細めた。
その視線は、遠い過去をほんの一瞬だけ映していた。
「昔、何度か……人に食わせる機会があった。だが、“そのまま素材で食った方がマシ”とまで言われた」
「それ……さすがにひどくない?」
すみれが噴き出す。目尻に涙が溢れるほど、こみあげる笑い。
その笑いに釣られて、優希も吹き出してしまった。
「それ、ある意味すごい……」
「俺は真剣だった」
鋼音の真顔。それがさらに笑いを誘った。
けれど――その場にあったのは、誰も責めない、静かな「緩和」だった。
殺伐とした日々の中に、久しぶりに灯る、ただの「日常」だった。
優希はその時、はっきりと気づいていた。
自分が笑っている。この場所で、心から肩を揺らしている。
張り詰めた神経が、ふっと緩んでいく。
胸の奥のどこかが、じんわりと溶けていくようだった。
言葉の数が少なくても、人はこうして――
少しずつ、心をほどいていけるのかもしれない。
やがて、鍋の底が見えたころ。
鋼音はスプーンを置き、低く言った。
「……夜は俺が見張る。お前たちは好きにしろ」
その口調に、ためらいも、選択肢もなかった。
ただそれが当然であるかのように、彼はそう言った。
優希が、無意識に口を開く。
「でも……大丈夫なんですか? 寝なくて」
「眠るとしたら昼だ。戦場では夜が危険だと、体に染みついてる。……そういう世界だった」
その語りには、熱も憤りもなかった。
ただの「事実」。それ以上でも、それ以下でもない。
そう――この人の強さは、意思ではなく、習慣と化しているのだ。
誰かを守るという選択が、当たり前のように、彼の中に組み込まれている。
「……ありがとう、鋼音さん」
すみれがぽつりとそう言って立ち上がる。
その表情には、安堵と同時に、ふとした哀しみが浮かんでいた。
この人は、いつまで一人で夜を背負うのだろう。
そんな思いが、胸の奥に沈殿していた。
優希は何も言えなかった。ただ、小さくうなずいた。
――その夜。
優希は、驚くほどすんなりと眠りに落ちた。
毛布の中で目を閉じたとき、耳に届くのは静寂だけ。
それなのに、外に誰かが「いる」と思えることが、なぜか心を深く沈めてくれた。
安心――それを、どれほど自分が渇望していたかを、その時はじめて知った気がした。
鋼音が外にいる。
ただそれだけで、なぜ、こんなにも。
――胸の奥が、緩むんだろう。
強いって、こういうことなんだ。
力を見せつけるわけでも、他者を屈服させるわけでもない。
眠る誰かのそばに、ただ黙って立ち続ける。
それが、鋼音の「強さ」だった。
……自分も、いつか。
あの背中のように、人に安心を与えられる存在になりたい。
そう、強く思った。
その夜、非常灯の淡い橙が、ほんのわずかに揺れていた。
風も音もないその場所で、それはまるで小さな火種のように――
静かに、灯り続けていた。
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