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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
13/20

Episode12:略奪者たち

次の日、早速二人は用意したホースを何本も延長しながら、設置していった。

ちょっとした事でホースがズレないように、設置位置を考えながら。時折固定できそうな場所を見つけると結束バンドを使ってホースを固定していく。

特になんの障害もなく沢までホースを繋げる事に成功した。


だが、順調なのはそこまでだった。

何度やっても、水は流れてこなかった。


 


 「……やっぱ、直接屋上に上げるのは無理かも」


 


 すみれが、疲れた声で言う。優希は、黙って首を振った。沢の水は確かに冷たくて澄んでいた。ホースも確かに繋いだし、試しに吸い上げても、空気しかこない。


 


 「サイフォンって、高低差必要なんだよな……」


 


 そのとき——。


 


 「だったら、こっちにタンクを置けばいいんじゃない?」


 


 すみれの言葉に、優希は思わず目を見張った。しばらく無言のまま、視線をホームセンターの裏手へ向ける。 


 


 雑草が腰の高さまで伸び放題になった裏手の一角。そこには、掃除用のモップや柄付きブラシ、農業用の支柱や散水ホースが雑然と積まれた半屋外の保管スペースがあった。軒が浅く、壁もある程度風を防げる構造だ。太陽もよく当たるが、午後には影になる。風通しも悪くない。


 


 「ここなら……人目にもつきにくいし、多少水がこぼれても問題ない」


 


 優希は呟きながら、雑草を足で分け、スコップを手に地面を探る。固いが、掘れないほどではない。地面を少し掘り下げれば、タンクをしっかりと安定させることができそうだった。


 


 「じゃあ、容器探しに行こっか」


 


 すみれがもう一度立ち上がる。ふたりは店内に戻り、用品コーナーを物色し始めた。


 


 収納ケース売り場、ポリタンク、ゴミ箱、コンテナボックス——だがどれも、容量が足りないか、素材が薄すぎる。水圧に耐えられない恐れがあった。


 


 「これなんかどう?」


 


 すみれが指差したのは、農業資材の奥に積まれていた、半透明の大型衣装ケースだった。元々は堆肥や土を保管するための容器で、肉厚のポリエチレン製。四隅に取っ手があり、蓋もある。容量は約80リットル。


 


 「ちょうどいい……てか、これ以上のやつ他にないよな」


 


 優希は両手で容器の縁を持ち上げ、底を確かめる。しっかりしていた。強く押してもたわまず、水を入れても破裂はしなさそうだった。


 


 「二つ、運ぼう。もう一つは予備に」


 


 ふたりは息を合わせて、容器を一つずつ抱え、裏手へと戻っていった。


 


 地面をスコップで少し掘り下げ、ケースを安定させるように設置する。排水口に繋がないため、満杯になったら入れ替えが必要だが、それでも十分だった。こんなにも、水に飢えていたのだ。


 


 そして作業の最後、すみれがケースの蓋を持ち上げながら言った。


 


 「これ、閉めといたほうがいいよね。虫とか、葉っぱとか……」


 


 「うん。でも完全に閉じちゃうと、水が溜まらなくなる。ホース通さないと」


 


 優希は少し考え込み、ホームセンターの棚をもう一度物色する。すぐに網戸の補修用ネットと、結束バンド、ガムテープを手に戻ってきた。


 


 「これ使えば、蓋の一部だけ切って、ホース通す穴にできる。周りはネットで覆って、虫も防げる」


 


 「いい考えだと思う。頭回るね、優希くん」


 


 小さく照れたように笑いながら、優希は蓋の端をカッターで丁寧に切り抜いた。そこにホースを通し、周囲をガムテープで固定。その上からネットを被せて結束バンドで縛り、簡易的な防虫ガード付きの注水口が完成した。


 


 「……あと、使ってない時は蓋に重し置いておこう。動物とかが倒しても嫌だし」


 


 すみれは掃除用のレンガを数個抱えてきて、蓋の上にそっと置く。これで、雨風にも多少は耐えられる。


 


 ふたりは息を切らせながら、沢までホースを伸ばし直す。石を積み、ホースが水の中で浮かないように固定。泥が舞い、足元が滑るたびに悪戦苦闘したが、どこか楽しくもあった。


 


 そして——


 


 「……吸うよ、また」


 


 「うん」


 


 優希がホースの先端をくわえ、思い切り吸い込む。生ぬるい泥の匂いが口いっぱいに広がる。思わずえずきかけたその瞬間、ホースの奥に水の気配が走った。


 


 チョロチョロチョロ……。


 


 「出たっ!」


 


 すみれの声に、優希は力なく笑い、へたり込んだ。


 


 泥水に汚れた手で顔を覆いながら、ふたりはしばらく笑い続けた。命が繋がったような、そんな気さえした。


 


 「これで……少しは余裕、できるね」


 


 すみれの声はかすれていたが、希望があった。衣装ケースの底に、ポツポツと溜まっていく水が、まるで未来を写しているようだった。




 そのときだった。



 


 ホースの先から流れ出る水が、一瞬だけ、鈍い茶色に変わった。


 


 「……え?」


 


 優希は思わず身を乗り出す。さっきまで澄みきっていた水が、まるで濁った吐息のように汚れた色を帯びていた。


 


 葉屑、小枝、泡の混じった泥水。それはほんの数秒で消え、また透明に戻った。だが、その一瞬の“異物”が、妙に鮮明に目に焼きついて離れなかった。


 


 「……なんか、水、濁らなかった?」


 


 優希の声に、すみれが振り返る。「え? そうかな……見てなかった」


 


 そのとき——。


 


 風が止んだ。


 


 森のざわめきが、途絶えた。木々の葉が揺れなくなり、耳が詰まったような不自然な静寂が訪れる。


 


 バケツが一つ、転がった。乾いた音が、やけに大きく響く。


 


 優希はホースの先から顔を上げ、森の奥を見やった。梢の陰、湿った空気の奥——そこに、確かに何かがいたような気がした。


 


 「……今、誰か……」


 


 そう呟いた声もまた、自分のものではないような、遠い響きだった。


 


 見間違いか? 気のせいか?


 


 優希は自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動が、やけに速い。指先が冷たい。けれど理屈では説明がつかない。


 


 (上流で、誰かが川に入った……? いや、獣かもしれない。石が崩れただけかもしれない)


 


 けれど、理屈で納得しようとするたび、背筋の汗が冷たくなる。


 


 「……たぶん、上流で石でも崩れたんだろ」


 


 自分に言い聞かせるように口にする。だがそれは、真実よりも祈りに近かった。


 


 再び水は澄みわたり、森は音を取り戻すことはなかった。


 


 静寂だけが、何かを隠すように、そこにあった。


 


 そして優希の心の底に、何か重く冷たいものが沈んでいった。名もなきその感情は、小さな波紋となって広がり続けた。


 その波紋が、やがて地獄の始まりになることを、彼はまだ知らない——。



---


翌朝、優希はすみれとともに外に出た。沢の水が入った衣装ケースの様子を見に行こうとした、その瞬間だった。


 ぴたり、と背後の気配が凍りつく。

 続いて、すみれが短く息を呑んだ音。振り返った優希の目に飛び込んできたのは、男の腕に捕らえられたすみれの姿だった。


 


 「動くな。……下手に動いたら、どうなるか分かるよな?」


 


 鋭く乾いた声。

 すみれの首元にはサバイバルナイフの刃が押し当てられ、男の目は狂気じみた光を孕んでいた。


 声にならない悲鳴を堪えるように、すみれがこちらを見つめている。唇がかすかに震え、喉の奥から絞り出されるように、優希の名が呼ばれた。


 


 「……優希、くん……」


 


 その声は風にかき消されそうなほど細かった。けれど優希には、はっきりと届いた。


 


 男の後ろから、続々と人影が現れる。

 全部で五人。泥と煤にまみれた服、錆びついたナイフや鉄パイプ、猟銃らしきものを抱えた者もいる。彼らの目はすみれに注がれていた。欲望と飢えと暴力が渦巻く、獣のような視線だった。


 


 「うっひょー、この女なんつーエロい身体してやがる」


 「生き延びてたやつは、こういうとこに隠れてたんだな……」


 


 笑いながら近づいてくる者もいた。

 すみれの肩が震え、唇がかみしめられる。……その震えには、過去の恐怖が刻まれていた。


 


 パンデミックの混乱のなか、無力だったあの日。

 逃げることしかできなかったあの夜。

 暗闇の中で突き刺さった誰かの手。ちぎれそうな声。

 ——彼女の中に閉じ込められていた記憶が、無慈悲に蘇っていた。


 


 だが、彼女は叫ばなかった。

 震える目で、ただ優希を見た。涙を堪え、恐怖を押し殺しながら、じっと彼を見ていた。


 


 「……助けて」

 そう叫びたいはずだった。

 だけど、彼女の目は違った。


 


 《来ないで》

 《でも、行かないで》

 《見捨てないで》

 《でも、あなたは生きて》


 


 すみれの目は、矛盾した願いの狭間で引き裂かれていた。

 自分を助けてほしいという心と、彼だけは無事であってほしいという祈りが、沈黙のまま交差していた。


 


 優希の喉が締めつけられる。

 選択肢はあるようで、どこにもなかった。


 もし動けば、彼女が——

 けれど連れていかれれば、ホームセンターの備蓄も、命も、希望もすべてが奪われる。


 


 それでも、すみれは目を逸らさなかった。

 絶望のふちに立たされながら、彼女はなおも“誰かを信じる”ことを選んでいた。

 その目は叫んでいた。「怖い」と。「生きて」と。


 


 「……わかった。開けるよ」


 


 優希の声は、誰のものでもないような、酷く遠いところから聞こえた。






 

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