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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
12/20

Episode11:不穏と希望

ヒヨコを処理した経験が、優希の中で静かに何かを変え始めていた。


羽毛に覆われた小さな命を、自らの手で終わらせたあのとき。手のひらに残った温もりと、胸に刺さるような違和感が、夜になっても離れなかった。


だがその震えは、不思議と恐怖ではなかった。ただ静かに、自分の中にある“責任”という感情に火を灯したのだ。


その日の午後、家庭菜園の水やりを終えたすみれと、簡易な椅子に腰掛けて休憩していたときだった。ふとすみれが口にした言葉が、優希の中で確信に変わる。




「……水が、もっと安定して確保できれば、もっと育てられるのにね」



すみれの視線は、土に根を張った苗に向けられていた。葉は少ししおれており、水が足りないことを雄弁に物語っている。




優希はしばし黙ってその様子を見つめたあと、思い切って言った。



「上のほうに、沢があるかもしれない。昔、山歩きが好きだった親父が言ってた。斜面を少し登れば、細い沢が流れてるかもって。……見に行ってみたい」




すみれは一瞬、驚いたような顔をして、優希を見た。




「外って、あの敷地の外のこと? ……危なくない?」




その声には、警戒と心配がないまぜになっていた。だが、優希は少しだけ笑ってうなずいた。




「でも、今のままだと水の不安は解消されないし、もし本当に沢があるなら、少しでも未来に希望が持てる。俺一人でも行こうかと思ったけど……二人でなら、行ける気がする」




数秒の沈黙のあと、すみれは大きくため息をついた。



「……わかったよ。行くなら、ちゃんと準備して、早朝に出よう」



そのとき、優希の胸の奥で小さな灯がまたひとつ灯った。“守る”という選択肢は、もう“閉じこもること”だけではないと知ったのだ。


---


早朝、まだ空が白み始めたばかりの時間。二人は静かにホームセンターの裏手にある柵を開け、外の世界へと足を踏み出した。




装備は最低限に抑えていた。優希の腰には手斧とナイフ、すみれのリュックには水筒と予備の縄、簡易な応急セット。



ホームセンターは山の中腹に位置しており、裏手には雑木林が広がっている。斜面を登ると、やがて人が踏み固めたような獣道が現れた。その道を、朝露で濡れたブーツの音を忍ばせながら進んでいく。




森の中は想像以上に静かだった。木々のざわめきと、時折聞こえる鳥の羽音。獣のものらしき踏み跡がぬかるんだ土に残っていた。足元には古びた空き缶、木の幹には何年も放置された罠の残骸。




「……誰か、昔ここで狩りしてたんだろうね」



すみれのつぶやきに、優希はうなずいた。



「この山、人が住まなくなってからも、痕跡は残るんだな」




そんな会話の途中、ふと優希の足が止まる。木の幹に手を当てて、ぼそりとつぶやいた。




「……最初に、人を殺したときのこと、思い出した」 




すみれは驚いたように優希を見たが、口を挟まなかった。



「店長だった。感染してて、目の焦点が合ってなくて……。声をかけたけど、全然反応がなかった。次の瞬間、こっちに向かってきて。咄嗟にバールを振った……それで……」




言葉の途中で、優希の声が詰まる。 




「“人間だった何か”を殺したんだって、後になって思った。……ヒヨコのときの震えと、あのときの震え、ちがうけど、似てた」



すみれは黙って、ただその言葉を受け止めていた。



しばらく進むと、傾斜が緩やかに下り始めた。風が湿り気を帯び、どこかから水の音が聞こえてくる。



音の導くまま、木々の間を抜けると、そこには細く清らかな沢が流れていた。



優希は駆け寄り、水面に手を差し入れる。冷たい感触が、手のひらから腕へと沁みていく。



「……生きてるって感じがする」



すみれも膝をつき、水の流れをじっと見つめる。



「綺麗な水……水量も充分だね」



そう言いながら水質を確認していたすみれの背後で、突然、足元の岩が崩れた。



「わっ!」


優希の身体が反射的に動いた。とっさに彼女の腕を掴んで引き寄せ、そのまま倒れ込む。湿った落ち葉の感触と、森の中のひんやりとした空気が肌に触れた。次の瞬間、すみれの身体が勢いのまま優希の胸元にのしかかる。



柔らかいものが、優希の頬に押し付けられた。弾力があり、温かく、生々しい感触。



「あぅっ……」


と、すみれが小さく声を漏らす。 



優希の心臓が、爆発でもするかのように跳ねた。理性の隙間から、本能的な衝動が這い上がってくる。すみれの胸――それが何なのか、自分が今どう感じているのか――頭のどこかで分かってしまう自分が、心底嫌だった。



けれど、すみれは動かなかった。優希の顔を覗き込むようにしながら、困ったように、それでも静かな目をしていた。



その目に気づいた瞬間、優希は自分の情けなさに吐き気すら覚えた。彼女の信頼に甘えて、触れたくて触れたわけじゃないのに――それでも、ほんの一瞬でも何かを期待してしまった己の弱さに、胸がきしんだ。 



「ご、ごめん……!」



「ううん、私こそ……」 



すみれは体をずらし、ゆっくりと優希の隣に腰を下ろす。服越しに残った感触に意識を引っ張られそうになるのを、優希は歯を食いしばって振り払った。



「大丈夫? 怪我はない?」



「うん……ありがとう、助かったよ」



すみれはそう答えたが、その声には少しの戸惑いが混じっていた。それでも、責めるような響きはなかった。



──気づいている。優希はそう感じた。すみれは、自分の一瞬のざわめきに気づいていた。けれど、それを問い詰めたり、拒絶したりはしなかった。



そのことが、優希には何よりも苦しかった。彼女が許したからではない。

ただ、見逃してくれたからだ。信じようとしてくれている、その静かな好意が、いっそう自分を貶めるように思えた。



しばらく沈黙が続いた。風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、森の静けさを破っていた。



やがて、優希がぽつりとつぶやく。



「ここを守るためにさ……俺たちだけじゃ、足りない気がする。知識も、装備も、人手も。……誰かと繋がる必要があるのかもって、少しだけ思ったんだ」



すみれは、目を伏せたまま、小さくうなずいた。



「うん……わかる。私も、そう思う」



彼女の声は、どこか寂しげで、それでも静かだった。たぶん今、すみれの中にも、優希への信頼と不安が入り混じっているのだろう。それでも彼女は、問いたださなかった。ただそばにいた。



それが、優希には何より重たく、そしてありがたかった。




帰路についた二人は、もと来た獣道を慎重に下っていた。午後に差しかかり、陽の光が斜めに森へ差し込んでいる。午前中のやわらかな静けさとは打って変わり、木々の影が濃くなり、どこか息苦しささえ感じさせる景色に変わっていた。



そのとき、不意に風向きが変わった。



微かな違和感が鼻先をかすめる。



最初は気のせいかと思った。だが次の瞬間、明確な異臭が二人の嗅覚を刺した。金属のような、焦げたような、あるいは――血と煙と、油の混ざったような、乾いた腐臭。



「……今の、何?」



すみれが足を止め、警戒するように身を低くする。優希も即座に周囲へ目を走らせた。



「風の向きが変わった。……沢の反対側から来てる。あっちには、さっき立ち寄ってないよな?」



「ええ、私たちは斜面沿いにしか……」



言いながら、すみれが片膝をついて地面に視線を落とした。



枯葉が踏みしめられている。獣のものにしては幅が広く、靴跡のような形がある。浅く、だが確かに何度も往復したような形跡。

優希がその先をたどると、草の間に不自然に折れた小枝、刈り取られた灌木の跡が見つかった。



「……人間だ。複数人。それも最近の痕跡だ」



優希の声が低くなる。



優希は周囲の木々を見渡しながら、肩にかけたバッグの留め具を静かに外す。すぐにでも手が届くように、いつもの手順を無意識のうちにこなす動きだった。



「まさか……このへんに他のグループがいるの?」



「可能性はある。でも……普通に移動してるって感じじゃない。あれ、見て」



優希が顎をしゃくった先には、炭の燃え残りがあった。朽ちかけた倒木の陰で、焚き火をした形跡。灰の中にはまだ少し、赤みが残っていた。

二十四時間も経っていない。火の跡の周囲には、割れた缶詰、何かのビニール片、そしてタバコの吸い殻。


「……火を使ってる。匂いのこと、気にしてないんだ」



すみれの顔がわずかに強張る。



「警戒が甘いか、あるいは警戒される心配がないと思ってる。いずれにせよ、野営するほど慣れてる奴らってことだ」



優希は低く、抑えた声で言った。



そして――すみれの目が焚き火跡のそばに転がるあるものを見つけた。



黒ずんだ布。引き裂かれ、泥と血のような色が染みついた、それは――衣服の一部だった。小柄な誰かの。おそらく子ども用のジャケットの袖。



「……これって」



言葉を継げなかった。



無言のまま、二人は焚き火跡から離れた。空気はどこまでも重く、森のざわめきが意味を持って耳に響くようだった。風は相変わらず沢の向こうから吹いてくるが、その奥にある“何か”を想像すると、心臓がざらついた感触で脈を打つ。



結局その日は、誰にも遭遇することなく帰還できた。



だが、二人の胸には静かに、だが確かに、一つの疑念が根を下ろしていた。



――この森には、自分たち以外の“人間”がいる。



――感染者ではなく、もっとやっかいな、理性を持った存在が。




しかもそいつらは、火を恐れず、血の匂いを隠そうともしない。



そしてそれは――この静かな森の奥に、確実に“略奪者”の気配が迫っているという証だった。



---



夕暮れの光が完全に落ち、夜の帳が静かに降りる。ホームセンターの屋内では、充電式のランタンがほのかに揺れていた。風が止み、世界が息を潜めたように沈黙している。



優希は沢から持ち帰った水を煮沸し、金属のマグカップに注いだ。すみれが一口すする。少し表情を硬くして、やがて小さく頷いた。



「……いける。変な味、しない」



「よかった……」



二人は焚き火の前に並んで腰を下ろす。その場に安心があったわけではない。ただ、今は他にできることがない。



「……今日のあれ、やっぱ火を焚いてた形跡だよな」



「たぶんね。子供服の布も……普通に落ちてるもんじゃない。誰か、近くに住み着いてたか、今もいるか」



「感染者じゃなかった。……なら、略奪者かもしれない」



その言葉が沈んだ空気をさらに濃くする。

だが次の瞬間――


ガアアンッ!!



金属を激しく叩く音がホームセンターの奥から響き渡った。風が、耐火シャッターに乱暴にぶつかっている。外の嵐がこの箱の静寂を打ち破ろうとしていた。



「……風の音、でかすぎない?」



「……風に紛れて、誰かが来てたら……気づけないね」



すみれの低い声が、不安を引き裂くように落ちる。優希は焚き火を見つめながら、少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。



「……あの沢の水、直接ここに引けたらな」



すみれが横目で見る。



「どういう意味?」



「……えっと……なんだっけ……高校のとき、理科の授業でやったんだけど……サイフォン……? 確か、こう……水を高いところから低いところに……いや、違うな……」



優希はペンとメモ帳を取りだすと、すみれに見えるように図を描き始めた。


「確か、ホースの中に水を満たして……片方を沢に、もう片方をこっちに下ろすと……気圧? 重力? とにかく、自然に水が流れてくる仕組みだったはず」



「ホースの中が全部水で満たされてれば、引力で一方的に流れてくるってやつ?」



「そうそう、それだ! 水道管とかで昔の人が使ってたって先生が言ってた気がする。……ただ、最初はホースの中の空気を抜かないとダメだったような……」



すみれが優希からペンを受け取り、地面に簡単な断面図を描き足す。


「でも、それって……こんなふうに沢の方が少しでも高い位置にあればいいってこと?」



「うん。そう。地形的にこの建物が沢より低ければ、たぶんいける。水を吸い上げるんじゃなくて、重力で引っ張るイメージ」



「だったら明日、ホースを持っていって試してみようよ。もしうまくいけば、水の問題が1つ減るかも」



「そしたら……雨の時以外にも水を獲れるし、水量によってはシャワーとかにも使えるかも」



「シャワー……浴びたい。ずっと身体を拭くだけだったもんね。それに沢へ直接水を汲みに行くより、安全だよ」



二人の目が交わる。わずかに灯る希望の火。



風が再びシャッターを叩く。

金属の重い音が、夜の静寂を震わせる。



だがその夜、二人の内に宿ったものは、恐怖だけではなかった。



沈黙の中、小さな灯りが、ふたりの「工夫と生き延びる意志」をゆっくりと照らしていた。

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