Episode10:生きるということ
短め
熱はすっかり引いた。
まだ身体の芯に少しだるさは残っているが、優希は展示台の隅に座り、ぬるくなった湯を口に含んだ。視線の先では、すみれが静かにヒヨコたちの様子を見守っている。
小さな段ボール箱に、使い古したタオルとパネルヒーター。ぴい、とかすれるような声が、時折タオルの奥から聞こえる。
――けれど、一羽だけ、鳴かない。
すみれはそっとタオルをめくる。その中で、小さな命が、わずかに身じろぎしていた。だが、もうほとんど目も開かず、首も上がらない。
「……だめかも、しれないね」
言葉はやさしかったが、そのやさしさの奥に、諦めの重さがあった。
育てる以上、見送らなきゃいけないこともある。
それが生き物と関わるってことだと、すみれは最初から知っていたのだろう。
でも、優希にとっては――その一言で、胸の奥がつかまれるような感覚だった。
自分たちが世話をしてきた命。
ぬくもりも、重さも、小さな呼吸も知っている。
名前なんてつけていない。でも、忘れられるわけがなかった。
優希は、小さく唇を噛んだ。
「……俺が、やるよ」
そう言った声は、かすれていた。
すみれは少しだけ驚いたように彼を見たが、何も言わなかった。代わりにゆっくりと立ち上がり、調理台へ向かう。
水を汲み、鍋を火にかける。湯を沸かす音だけが、静かに鳴りはじめた。
優希の手は震えていた。
段ボールの端に手をかけ、小さなヒヨコをそっとすくいあげる。
か細く呼吸しているその命が、自分の手の中にあることが怖かった。
重い。小さなはずなのに、手のひらが沈むようだった。
それでも――。
「預かった命なら、責任を……持たないと」
自分に言い聞かせるように呟く。
刃物を持つ指が、震える。
息が乱れる。
すみれが、鍋の湯を静かに差し出してくれる。
殺菌と、羽の処理用だと、無言で伝えてくれている。
彼女は何も言わなかった。責めもせず、助け舟も出さない。
でもそこにいて、準備を整え、すべてを受け止める構えだけはあった。
優希は、目を閉じる。
――ごめん。
――ありがとう。
――いただきます。
声に出さず、心の中でだけ言って、刃を下ろした。
その夜。
鍋から立ちのぼる湯気が、ゆっくりと天井に溶けていく。
スープは透明で、匂いは淡く、やさしかった。
すみれが薄く塩で味をつけ、米と少しの乾燥野菜を加えた。
優希は黙って、それを口に運ぶ。
すみれも隣で、静かに同じスプーンを動かしている。
言葉がない。だけど、それでよかった。
熱がのどを通るたび、胃に落ちるたび、何かが胸の奥で軋んだ。
「……こういうの、自分じゃまだ受け止めきれない」
優希はぽつりと呟いた。箸を置いて、スープの表面を見つめる。
すみれは驚かなかった。
優希の中に、なにかが確かに変わりはじめていることを感じていたから。
「でも、食べるのって……そういうことなのかもね」
すみれの声は、ごく自然だった。
それは誰かから教わったものではなく、彼女がこれまでの中で積み重ねてきた実感なのだろう。
優希はゆっくりと、もう一度スープを口にした。
小さな命のぬくもりが、体の奥へと溶けていく。
――ただの生き残りじゃない。
生かされた命を、引き受けて生きるということ。
自分の中に「責任」という言葉が、はじめて根を張った気がした。
優希はそっと、スプーンを置いた。
その隣で、すみれも同じように、静かに食器を拭い始めた。
二人の間に流れる沈黙は、悲しみではなかった。
それは、命に向き合うことへの覚悟。
そして、共有された痛みの先に生まれる、静かな連帯。
――これが、生きるってことなんだ。
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