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カンヅメ  作者: 鈍器ゴング
第一章
11/20

Episode10:生きるということ

短め




 熱はすっかり引いた。


 まだ身体の芯に少しだるさは残っているが、優希は展示台の隅に座り、ぬるくなった湯を口に含んだ。視線の先では、すみれが静かにヒヨコたちの様子を見守っている。


 小さな段ボール箱に、使い古したタオルとパネルヒーター。ぴい、とかすれるような声が、時折タオルの奥から聞こえる。


 ――けれど、一羽だけ、鳴かない。


 すみれはそっとタオルをめくる。その中で、小さな命が、わずかに身じろぎしていた。だが、もうほとんど目も開かず、首も上がらない。


 「……だめかも、しれないね」


 言葉はやさしかったが、そのやさしさの奥に、諦めの重さがあった。


 育てる以上、見送らなきゃいけないこともある。

 それが生き物と関わるってことだと、すみれは最初から知っていたのだろう。


 でも、優希にとっては――その一言で、胸の奥がつかまれるような感覚だった。


 自分たちが世話をしてきた命。

 ぬくもりも、重さも、小さな呼吸も知っている。

 名前なんてつけていない。でも、忘れられるわけがなかった。


 優希は、小さく唇を噛んだ。


 「……俺が、やるよ」


 そう言った声は、かすれていた。


 すみれは少しだけ驚いたように彼を見たが、何も言わなかった。代わりにゆっくりと立ち上がり、調理台へ向かう。


 水を汲み、鍋を火にかける。湯を沸かす音だけが、静かに鳴りはじめた。


 優希の手は震えていた。

 段ボールの端に手をかけ、小さなヒヨコをそっとすくいあげる。

 か細く呼吸しているその命が、自分の手の中にあることが怖かった。

 重い。小さなはずなのに、手のひらが沈むようだった。


 それでも――。


 「預かった命なら、責任を……持たないと」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 刃物を持つ指が、震える。

 息が乱れる。

 すみれが、鍋の湯を静かに差し出してくれる。

 殺菌と、羽の処理用だと、無言で伝えてくれている。


 彼女は何も言わなかった。責めもせず、助け舟も出さない。

 でもそこにいて、準備を整え、すべてを受け止める構えだけはあった。


 優希は、目を閉じる。


 ――ごめん。

 ――ありがとう。

 ――いただきます。


 声に出さず、心の中でだけ言って、刃を下ろした。




 その夜。


 鍋から立ちのぼる湯気が、ゆっくりと天井に溶けていく。


 スープは透明で、匂いは淡く、やさしかった。

 すみれが薄く塩で味をつけ、米と少しの乾燥野菜を加えた。


 優希は黙って、それを口に運ぶ。

 すみれも隣で、静かに同じスプーンを動かしている。


 言葉がない。だけど、それでよかった。


 熱がのどを通るたび、胃に落ちるたび、何かが胸の奥で軋んだ。


 「……こういうの、自分じゃまだ受け止めきれない」


 優希はぽつりと呟いた。箸を置いて、スープの表面を見つめる。


 すみれは驚かなかった。

 優希の中に、なにかが確かに変わりはじめていることを感じていたから。


 「でも、食べるのって……そういうことなのかもね」


 すみれの声は、ごく自然だった。

 それは誰かから教わったものではなく、彼女がこれまでの中で積み重ねてきた実感なのだろう。


 優希はゆっくりと、もう一度スープを口にした。

 小さな命のぬくもりが、体の奥へと溶けていく。


 ――ただの生き残りじゃない。

 生かされた命を、引き受けて生きるということ。


 自分の中に「責任」という言葉が、はじめて根を張った気がした。


 優希はそっと、スプーンを置いた。


 その隣で、すみれも同じように、静かに食器を拭い始めた。


 二人の間に流れる沈黙は、悲しみではなかった。

 それは、命に向き合うことへの覚悟。

 そして、共有された痛みの先に生まれる、静かな連帯。


 ――これが、生きるってことなんだ。


 



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