Episode9:隣に君がいる
ある朝寝袋の中で目を覚ました瞬間、全身に鉛のような重さがのしかかった。
意識はぼんやりしていて、腕や脚の節々が熱をもってじんじんと痛む。喉は乾いてヒリつき、微かに頭がガンガンする。額にうっすら汗も浮いていた。
熱がある。
昨夜、ホームセンターの屋内照明の調整や、飲み水のポリタンクの運搬、補強材の設置まで一気に片付けたのが祟ったのだろう。
そのまま足場も使わず展示台に登り、寒さを忘れて眠ってしまった。 身体を冷やしてしまったに違いない。
寝袋の口元からゆっくり顔を出し、展示台の縁に寝たまま目を向けると、すぐ下にすみれの姿が見えた。
風除けに棚を組んだ簡易キッチン。今朝もいつものように、そこで何かを煮ている。 しゃがみ込むその背中は小柄で細く、けれど、どこか芯の通った静けさがある。
湯気と共に、やさしい匂いが立ちのぼってきた。コンソメやインスタントではない、もっと穏やかで懐かしい香り。
(……お腹すいたな)
そう思った時には、すでにすみれが動いていた。
金属のトレイとマグカップ、そして濡れタオルを手に、足場に手を掛けて展示台へと静かに上がってくる。
その身のこなしは静かで、決して急がず、物音も立てない。生活の中で培った習慣のように思えた。
「……大丈夫?」
柔らかな声が落ちてくる。目の前にしゃがみこんだすみれが、寝袋のファスナーを少し開け、濡れタオルを額にそっと乗せた。
タオルの冷たさと同時に、彼女の指先の体温がじんわりと伝わってくる。
「熱、ちょっとあるみたいだった」
優希は、かすかに頷くしかできなかった。
身体は重く、言葉を発するのも億劫だった。
けれど、目の前の彼女の気遣いははっきりとわかる。
無理に何も聞いてこない。ただ、必要なものをそっと差し出してくれる。
トレイの上には、湯気の立つ小さなおかゆの椀。 スプーンを添えて差し出されるそれに、優希は申し訳なさそうに手を伸ばし、ぎこちなく口に運んだ。
熱すぎず、冷たすぎず、ほんのりとした塩気。
胃の腑に落ちていくたびに、緊張していた身体が少しずつほどけていくような気がした。
「なんで……こんな優しいの?」
喉が詰まり、呟くように言葉がこぼれた。
自分が誰かにこうしてもらった記憶は、すぐには思い出せなかった。
すみれは、その言葉に少し目を伏せる。 けれど、すぐにふっと小さく微笑んだ。
「優しいっていうより……私、そうされて育ったから。もちろん、優希くんにも」
優希は視線を逸らす。こぼれそうになった涙を睫毛で留めた。
自分は、そうされて育った覚えがない。それが急に寂しくなったわけではないが、どこか胸の奥がつんとした。
「……ありがと」
かすれる声で言うと、すみれはそっと頷き、再びタオルを整えてくれた。
それからしばらく、二人は黙ったままそこにいた。
すみれは展示台の縁に腰を下ろし、トレイを持ったまま、時折優希の様子を確かめていた。
彼女の体温がほんのりと伝わってくる距離にいるのに、不思議と緊張しなかった。
けれど、寝返りを打った優希の視界に、すみれの胸の影が一瞬入った瞬間。
彼女はさりげなく腕を組み、ゆるやかに身を引いた。
その動きに、優希は何も言わなかった。ただ、見ていないふりをした。
そして、ちゃんと「見ないようにしていた」。
それをすみれも、何となく感じていた。
見ようとしない人間は、少ない。
だからこそ、彼女はまだここにいるのかもしれなかった。
静かに時間が流れる。
展示台の屋根越しに、朝の光がほんの少し差し込んでくる。
すみれはその光に目を細め、ふっと呟いた。
「……思い出すね」
「え?」
「私が倒れて優希くんに助けてくれた時。動けるようになった私に……優希くんが、おかゆ作ってくれた」
「ああ……あれね」
少しだけ笑いが漏れた。優希も思い出していた。 保存食の中から、やっと選んだ缶詰の白米と水だけで作った、味も素っ気もない代物だった。
「正直、あのときは味しなかった」
「うん、だろうな」
ふたりは、ほんのわずかに笑い合った。
言葉にしなくても伝わる距離。
まだ完全な信頼ではない。でも、手を伸ばせば届く場所にいるという感覚。
すみれはもう一度だけ、タオルを替えてから、静かに立ち上がった。
「無理しないで。今日は、私が全部やるから」
優希は頷いて、そっと目を閉じた。
展示台の上。寝袋の中で、自分の弱さを許されたことに、ほんの少しだけ安心していた。
隣に誰かがいる。
それだけのことが、今は何よりの救いだった。
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朝の空気は冷たく澄んでいて、展示台の隅に立つ私の吐息が、白くゆらゆらと宙に浮かぶ。
小鍋に水を張り、ゆっくりと火にかけた。昨日の残りの米をほぐして、おかゆを炊く。味つけは少しの塩と、乾燥野菜を砕いて。優希くんの体に優しいように、できるだけ刺激を抑えた。
……きっと、今日は動けない。
昨夜、私は遅くまで眠れなかった。ふと目を覚まして物音に気づいたとき、彼がまだ作業を続けていたから。
照明の調整、水の再配置、風除けの修理。すべてを一人でやろうとするその姿に、声をかけられなかった自分を、少しだけ情けなく思った。
だから今朝、展示台の隅で寝袋の中に沈む彼の様子を見て、やっぱりと思った。
顔が赤い。呼吸が浅く、寝返りも重たそうだった。
どうしてあんなに無理をするんだろう。
自分を押し込めるように、誰にも甘えようとしない。
……まるで、全部一人で背負わなきゃって決めてるみたい。
私は小さなトレイに、おかゆを盛りつける。マグカップに白湯を注ぎ、濡れタオルを新しい水で絞った。
それらを手に、展示台の足場を伝って登る。
彼の横にしゃがむと、薄く開いた目が私をとらえた。
「……大丈夫? 熱、ちょっとあるみたいだった」
そう声をかけて、そっと額にタオルを当てる。彼は弱くうなずき、目を細めた。少しでも冷たさが楽になるならと、指先でそっと額を撫でる。
そのときだった。
一瞬、彼の視線が私の胸元に落ちたことに気づいた。――一瞬だけ。だけど、私にはわかってしまった。
私はなにも言わなかった。いつものように、なにごともなかったふりをする。
……ただ、心のどこかに、少しだけ棘が刺さる。
そういう目を向けられるのは、慣れている。慣れたくないけど、慣れてしまったこと。
でも――そのすぐあと、優希くんが目を逸らし、うつむいた。
耳までほんのり赤くなっていて、布団の中に顔を沈めるようにして、動かなくなった。
……ああ。見られたことより、見た自分を責めてる。
私の中にあった警戒心が、少しだけ、ほどける。
そう。この子は――やっぱり、どこか無理をしてる。
自分の気持ちをちゃんと出すことさえ、我慢してしまう子なんだ。
「……なんで、こんな優しいの?」
小さく、かすれた声。寝袋の中から漏れたその問いに、私は一瞬だけ、答えを探す。
そして、笑う。自分でも驚くくらい、自然に。
「優しいっていうより……わたし、そうされて育ったから。もちろん、優希くんにも」
それはたぶん、私にとっても、優しさを守る理由だったのだと思う。
彼が視線を逸らす。まつげが震えて、小さな涙がにじんでいるのが見えた。
なにか言いたかったけど、私は黙って、ただ彼の隣に腰を下ろした。何も聞かずに、そこにいることだけを選んだ。
「……ありがと」
その声を最後に、優希くんはまた目を閉じる。
私は彼の髪にそっと手を伸ばす。触れはしない。ただ、その存在を確認するように、ほんの少しだけ、距離を詰めた。
たったこれだけの看病。でも、きっと彼にとっては――大きな意味があるんだと思う。
だから、私は今日だけじゃなく、これからも見ていようと思った。
この子が、もう少しだけ、自分を許せるようになるまで。
年上として、仲間として、ただの女の子として。
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