プロローグ
こつこつと
プロローグ
「……噛まれた……」
誰に向けた言葉でもなかった。
血の気を失った唇から零れたそのつぶやきは、廃工場の冷えた床に吸い込まれていく。
男は壁にもたれ、片膝を抱えてうずくまっていた。額には脂汗が浮かび、皮膚は薄く灰色がかっている。
目の焦点は合っていない。けれど、口だけが動いていた。
「噛まれたんだ……俺、噛まれた……」
まるで呪いのように繰り返される言葉。
あたりにはもう誰もいなかった。彼の仲間たちは逃げたのだ。あるいは彼を残して死んだか――いずれにせよ、誰も戻ってこなかった。
男はそれでも、自分の腕をきつく縛ったまま、呻き声の合間に笑ったような顔をした。
「……まだ……人間でいたい……」
だが、それがどれだけの時間持つか、本人ですら分かっていなかった。
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針ノ木町は、地方都市の山間にある静かな町だ。
長らく人口は減少傾向にあったが、それでも老舗の和菓子屋や、子ども連れで賑わう川遊び場などが点在し、のどかさを売りにした観光地として生き残ってきた。
町の中心には小さな市役所と、消防署、図書館、そして数軒の商店街。
隣町には大型ショッピングモールもあり、車で20分も走れば何でも手に入る時代だった。
その町に、じわじわと「それ」は侵食してきた。
最初は「奇妙な暴力事件」が隣町で起きたというニュースだった。
まるで狂ったように通行人を襲う者たちが、警察官に制圧されても立ち上がり、凶暴化して再び噛みついてくる。
顔には正気がなく、言葉も通じない。
ただひたすらに「食らいつく」ような行動だけを繰り返す。
ニュース映像に映った男の、濁った眼。
制服警官に押さえつけられながらも、なお吠えるように喉を鳴らすその姿は、明らかに普通ではなかった。
だが、多くの者はすぐに忘れようとした。
どこか遠くの出来事で、特殊な犯罪のように受け止めた。
町内の回覧板も、町役場の放送も、何も変わらず流れた。
それが誤りだったと気づいたのは、第一の犠牲者が出たときだ。
針ノ木町内の釣具店の店主が、見知らぬ男に襲われた。
店の奥で争うような音が聞こえたとき、通りかかった中学生が店に入り、血まみれでうずくまる店主を見つけた。
彼はうわごとのようにこう言っていたという。
「……噛まれた……噛まれたんだ……」
町は軽いパニックになった。だが、まだ逃げ出す者はいなかった。
異常な事件――そう認識されていたからだ。
しかし、それからわずか二日後、釣具店の店主が隣人の家に押し入り、その家の娘に噛みついた。
言葉は通じなかったという。
押さえつけても暴れ、尋常でない力で暴れ、口からは血と泡を吹いていた。
このとき町の者たちは、ようやく言葉を口にするようになった。
――これは、病気じゃない。
――もう、人間じゃない。
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公共機関の反応は遅かった。
医師も警察も「一時的なパニック障害」として処理し、隔離施設に送ったが、その数日後には連絡がつかなくなった。
そして町から人が消え始めた。
職場から、学校から、スーパーから。
いや、正確には人ではない“何か”が、町を歩くようになった。
道路を挟んだ向こう側に、歪な歩き方をする影。
ガラス越しにこちらを見て、呻きながら立ち尽くす女。
玄関のドアノブを、爪が砕けるほど引っ掻き続ける老人。
死んではいない。
だが、生きているとも言えない。
彼らは明らかに“壊れて”いた。
針ノ木町は崩壊した。
水と電気は次第に供給を絶たれ、食料はスーパーから消えた。
だがその頃にはもう、スーパーに近づくことすら危険だった。
そこは「やつら」が集まる場所になっていたからだ。
町の北の高台には、オープン前のホームセンターがあった。
「アーク針ノ木支店」――工具類を中心に据えた中規模のワンフロア店で、裏手には資材置き場と配送口、屋上には簡易ソーラーパネルが備えられていた。
正式オープンは春の予定だったが、パンデミックの発生と同時に工事が凍結された。
敷地内にはすでに大量の資材が運び込まれており、商品の多くは未開封のまま積まれていた。
駐車場は見通しが良く、周囲は木々に囲まれており、外界から隔絶されたような立地だった。
この建物が、後に一部の生存者の拠点となる。
それは、偶然だったのか、必然だったのか。
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空は青いままだった。
川の水は澄み、風は優しかった。
けれど、人の姿は消えていた。
誰もいない商店街。
崩れたガードレール。
自動ドアの開かぬ駅。
落ち葉の積もるバス停。
そして、ただひとつ聞こえてくるのは、遠くから微かに響く呻き声。
もう、この町に戻ってくる日常はない。
-これは、失われた日常を過ごそうとするサバイバルだ-