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想月譚

作者: 寒がり

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


 この手は月に届かないと識っている。

 夜空に煌々と照る月。漆のように深く濃い暗闇が私をそこから切断している。降り注ぐ月の光は山海草木を抑えつけて逆流を許さない。要するに、月は私を拒絶していた。


「月のひと)———」


 それでも、月に手を伸ばす。

 これは衝動だ。不可能や無意味は、その枯渇を含意しない。

 衝動。そこに理屈などありはしない。あの日見惚れた月の女を今一度、一目見たい。それだけの事が、全てだ。


 平安の代、一人の武士もののふが月の女に見惚れた。満月の夜、勅命で衛士たちが幾重にも警固していた竹取の翁の屋敷での事だった。

 その男は、どうにもその女を忘れることができなかった。男は、ひたすら待とうと思った。月の女が地上に降るその日を、本当に来るか分からないその日を待とうと決めた。

 そして、男は、富士の火口に飛び込んで不死の妙薬を得た。

 これは、そういう、それだけの話だ。


 月の光を遮る指が閉じ、拳が空を掴む。そんな動作を何回、繰り返したかは覚えていない。回数も年月も問題ではないのだから。


 月と月に手を伸ばす者、そして両者の隔絶。

 これらの浅く透き通った簡明な事実が、私にとって存在の全真実だった。


※※※


「先輩!よかったらランチご一緒しませんか?今度の案件、ちょっと苦戦してて、先輩のお知恵をお借りできたらなぁ…って」

「ああ、分かった」


 先輩は、不思議な人だ。

 何を考えて生きているのか言動からまるで読み取れない。多分、それは先輩が全部のことに興味なさげだからだと思う。でも、生きるのを諦めて惰性で生きているとかいう風じゃない。

 先輩の目はそんな人のそれじゃない。


 先輩は、きっと、何かに心を奪われて心ここにあらずなのだ。

 そう気づいたとき、この人の心を捕えて離さないその何かを知りたいと思った。


「そういえば、先輩、休日とか何されてるんですか?」

「休日…?」

「ほら、やっぱり、デキるビジネスマンは休日の使い方なのかなぁとか思いまして」

「特に何も。———強いて言えば月を眺めるくらいだな」


 やっぱり先輩は変わっている。

 そりゃ、テレビや動画を見ているとか、アウトドアに出かけているとは思っていなかったけど……。娯楽のあり方が平安時代のそれなんよ。本当に現代人か?この人。


「いいですね!リラックス効果高そう!私も月、眺めてみます」

「そうか……」


 先輩、興味なさそうだなぁ。

 ちょっと悔しい。私は、月以下ですか。


「先輩、好きな食べ物とかあるんですか?」

「好きな食べ物……すまん。急に言われると思いつかんな」

「じゃあ、趣味とか」

「趣味……どうだろう。弓…弓道なら少しはできるが……」

「———え!?凄い!どのくらい続けてらっしゃるんですか?」

「幼少の頃からだから随分だな」

「今度見せてくださいよ!」

「ああ…」

「絶対ですよ!?」


 先輩は自分のことを語ろうとしない。最初は私のことを嫌っているのかと思ったが、誰に対してもこんな感じだ。

 だから、余計に先輩が何を考えて生きているのか気になる。それだけのはずだ。


「———あっ、もうこんな時間。先輩、どうも今日は、相談乗っていただいてありがとうございました。勉強になりました。また、お礼させてください!」

「ああ、参考になったならよかった」


 本当に、素っ気ない。


※※※

 

 その人が私に手を伸べるのを見ていた。

 両者の隔絶からすれば無意味と言ってよい動作。そんな動作を飽きもせずに繰り返す様子を。


 穢れた地上の人々が穢れなき月の女々(ひとびと)を美しいと感じる事は理解できる。あの男が私を美しいと感じ、欲することも理解できる。手に入らないと分かっても、手を伸ばし続けることも理解できる。地上の人々は、愚かなのだから。


 私にとって、不明な事は何もない。全てにおいて理解されている。

 だとしたら、何故、私はあの男を見ているのだろう?


 あの男が私に手を伸べる。

 その動作は私にいかなる作用も加えようがない。

 その動作にはいかなる変化もなく、それ故に観察はいかなる理解も発見も生みようがない。一度見れば十分なはずだ。


 私はあの男を欲していない。好いてもいないし、憎んでもいない。

 月の(ひとは完全な完結した存在なのだから。

 私はあの男といかなる関係も有しない。そのことが私の定義であるはずだ。


 それでも私は宇宙そらに浮かぶ青い星を、その男を見返している。


※※※


 我が部の総力を挙げた一大案件が終わり、今日はその打ち上げだ。

 案の定しれっと打ち上げをパスしようとしていた先輩をあの手この手で強引に口説き落とすのには苦労したけれど、私の横にはお酒に潰れた先輩が鎮座している。


 「コイツ、お酒弱かったのか。初めて見た」とは部長の言。それなりに長い付き合いになるけれど、先輩が飲み会に出てきたのも初めてなら、酔い潰れているのを見るのも初めてらしい。

 お酒苦手だったら悪いことしちゃったかな。あとで謝ろう。


「先輩、そろそろ帰りますよ。お店閉まっちゃいます」

「———ああ」

「ほら、しっかり。お水です」

「ありがとう」


 話を聞くと、意外にも先輩の家は私の家に近く、私が先輩を途中まで送って行くことになった。


「大丈夫ですか?真っ直ぐ歩けます?」

「ああ。大丈夫だ」

「いや、ふらふらじゃないですか!」

「大丈夫だ、大丈夫。これくらい、富士の火口に飛び込んだ時に比べたら……」

「完全に泥酔してるじゃないですか!ほら、肩貸しますから」


 お酒で火照った肌にぬるい夜風が気持ちいい。

 街灯やらネオンやらビルの窓から漏れる灯りが一際輝いて見える。


 しばらく無言で歩いていると不意に先輩が立ち止まって空を見上げた。

 その視線の先には、月が輝いている。

 先輩はそこに手を伸ばし、ゆっくりと手のひらを閉じた。


「本当に月が好きなんですね」

「———」

「先輩は、どうして月がお好きなんですか?」

「———月の人に会いたいと言ったら信じるか?」


 やっぱり酔いすぎですよ先輩。そう言おうとして踏みとどまった。

 先輩は月の人に恋をしている。

 私は、直感した。その直感は、手で触ったら掴めそうなくらい現実感のある確かなものだった。


 先輩は、月の人に恋をしているんだ。

 その事がどういう事なのかは少しも分からない。でも、それは確かな事実なんだ。私が知りたかった事は、呆気なく空から降ってきた。


 質量感を増した月は重苦しいくらいに大きく、ジリジリと頭上に輝いていた。

 先輩が転職して行ったのは、その数週間後のことだった。


※※※


 そのひとを見たのは満月の夜のことだった。

 天女からかぐや姫をお守りせよとの勅命に、私達は讃岐造の屋敷を固めていた。


 けれども、戦の準備などまるで用を為さなかった。彼女らを見るや否や、私たちは月の女相手に戦おうなどという考えがいかに馬鹿げていたかを思い知った。

 完全な存在を不完全な言の葉で現すことはできない。それでも、敢えて言うなら、美がそこに在った。それは、完全な隔絶であり、拒絶であった。


 美しいものは害されない。———害することができない。

 月光を映して淡く光る羽衣に、あるいは唐様の着物に似たその衣が覆い隠すたおやかな身体には、矢が通るどころか矢を射掛けることさえ想像できなかった。


 地上にあってなお、害することはおろか、手の届きさえしないその女に、私は、恋をした。人が美しいものに対して漠然と持っている慕情が、その女に結実したと言ってもいいかもしれない。


 私はその女を美しいと思った。

 あの日の出来事が御伽話となっても、私の記憶は薄れることはなかった。


※※※


「第二次月面開拓団の先遣隊が今、地球を出発しました!第一次開拓団の痛ましい事故から10年、今度こそ月面コロニーの建設成功なるか。人類の宇宙進出をかけたリベンジが、今、始まりました!」


 あれは、事故じゃない。

 私は、ナレーターに心の中で反駁した。


 人類は多分、月に至れない。彼女らがそれを許さない。穢れた地上の人々の足が、月の浄土を踏むことを、彼女らは許さないはずだ。

 今度もきっと失敗する。


 空に向かって伸びる航跡は次第に風に流されて歪み、最後には消えて行った。

 彼らにも不可能だ。


※※※


「どうして上手く行かない!何がいけないのだ!」


 大臣室に据えられたアンティークのデスクは、何の罪もないにも関わらず、大臣の鉄拳を受けて鈍い音を立てることとなった。


「現在調査中でございますが、第一次の時と同様、宇宙空間で突然通信が途絶え、レーダーからも光学監視装置からもロストしました。こんなことが起こるとは考え難く……」

「実際に起こっているじゃないか!早く、原因を究明しろ!」


 大臣室の窓の外には月が嘲笑うかのように冷たい光を湛えていた。


「忌々しい月め———」


※※※


 その日、姫様を迎えに、穢土に降った。

 讃岐造は固く門を閉ざし、姫の周りを武士もののふが二重三重にも取り巻いていた。地上の人が考えそうな愚かしい行いだ。


 時が来ると武士は膝を屈し、門はひとりでに開いた。地上ではかぐや姫と呼ばれた私たちの姫は、滞りなく月へ還る。それが、摂理であるが故に。


 姫様が与えた不死の霊薬を、地上の人々は焼いてしまった。

 富士の高嶺で霊薬は赤々と燃え続ける。焼かれた手紙が月へ届くことはなかった。


 だが、その男は、その火の中に身を投げた。

 火がその身を焼き尽くす前に、その男は霊薬を拾って呑んだ。つまり、男は不死となった。


 爾来、男は永く月に手を伸ばし続けている。

 男は永劫の時間を得たというのに、ただそれだけのために生きているようだった。


 やはり、地上の人は愚かだ。

 

 ※※※


 この身は、不死を得た。

 それは、欲求し待つための力だ。


 世界の終わりまで、あのひとを待ってみようと思う。それは、単に思うだけでなく、私を突き動かす衝動だった。


 待つことが無意味だと知っている。

 月は手の届かぬ高みにある。

 それでも、待たずにはいられないから富士の火口に身を投げたのだ。

 それが私を富士の火口に突き落としたのだ。


 夜空には全てを拒否し、押さえつけ、煌々と光る月がある。

 暗闇に独り、ぽっかりと浮かぶ月にあのひとは居る。

 そこへ向かって手を伸ばさずにはいられない。

 

※※※


 やがて、人類は自分たちが地球の重力の底に閉じ込められていることを悟った。

 科学的には説明のしようのない超然的な力が作用して、人間が宇宙へ出るのを拒んでいる。

 期待は失望に変わり、失望はやがて絶望となった。


 あの空の上には見えない蓋があって、その蓋が自分たちを閉じ込めている。

 そう悟ると、人類は宇宙を目指すのをやめた。人類はもう、宇宙に行きたいと思わなくなった。


 文明は飽くなき膨張をやめた。

 それは穏やかな人類の余生の始まりだった。


※※※


「お兄さん、月なんか見上げて何してるんですか?」


 崩れ落ちたビルの瓦礫の小山の上で、その人は月に向かって手を伸ばしていた。

 月は、人類をこの地球に閉じ込めている悪魔の星で、文明が滅びたのも月のせいなんだと死んだお母さんが言っていた。

 それなのに、その人は愛おしそうに月に手を伸ばしていた。

 一体、どうして。


「何も。月を見ているだけだ」

「ふうん。面白いですか?」

「面白くはないな」

「じゃあ、どうして月なんか」

「どうしてだろうな」


 それが、その人と私との出会いだった。


※※※


 その頃、既に、文明の遺産はあらかた消費され尽くしていた。

 私達人類の生き残りの多くは、狩猟採集で食い繋ぎながらまだ稼働している遺跡を目指して旅を続けていた。


 何せ遺跡では、文明崩壊以前と同じ安全な生活をおくることができるという噂があったから。そんな生活を夢見て、世界を旅して回るという時代だったのだ。あの時代にはまだ、夢があった。


 そして、私は月を見上げていたお兄さんと旅をした。

 こんな時代に呑気に月を見上げてぼーっとしているような人は、すぐに死んでしまうと思ったからだ。死んでしまうくらいなら、私の旅を手伝って欲しい。人材の有効活用だ。


「お兄さん、何処の生まれですか?私は、旧東京の新宿地区です」

「旧新宿?あそこはもう何十年も前に遺跡が停止したと聞いていたが……」

「遺跡は止まっても、まだ少し物資が残っていましたから。5年くらい前までは小さな村くらいはありましたよ?今はみんな、散っていきましたけど」

「そうか———。新宿も無くなったか」


 お兄さんは何処か懐かしむようだった。

 この人は何処か現実感がない。


「新宿、ご存知なんですか?」

「昔な。だが、大昔の事だ」

「お兄さん、大昔って言うほど歳じゃないでしょ」

「人は見かけによらないのだぞ」


 そんなこと言ったって20代後半か30そこそこにしか見えないんだよなぁ。この人。


※※※


「———お兄さん、弓、えげつないですね……」

「人は見かけによらないと言ったろう?」

「いや、別に頼りなさそうで、放っておいたらすぐに餓死しそうとか思ってたわけじゃありませんよ?」

「…………」

「思ってませんよ?」


 お兄さんは弓の名人だった。

 猪の眉間に一撃。かなり離れたところから急所を射抜いて見せた。

 弓の技術はこの世界を生き抜くのにとても役にたつ。お兄さんが旅の仲間になってくれたのは思わぬラッキーだったかもしれない。


「さてさて、大物ですよ。さっそく、川で血抜きしましょう!」

「ああ」

「大物なのに嬉しそうじゃないですね……」

「そうか?」

「そうです!こんな時代なんだから、楽しく生きないと損ですよ!お兄さん!」

「そういうものか」

「そういうものです!」


※※※


 頭上には巨大な青い星が輝いている。

 しかし、その光は燃え尽きる前の蝋燭のように弱々しかった。


「貴女、また地上を眺めているのね」

「姫様……これは」

「いいわ。私も昔、地上の人に懸想したことがあるもの。それで穢土に落とされたのは、迎えに来てくれた貴女もよく知っている通り」


 かつて、なよ竹のかぐや姫と地上の人々に呼ばれたおひとは、私と並んで懐かしそうに地上を眺める。


「貴方もいっそ、穢土に落ちてみる?」

「お戯を……」

「あらあら、貴女は真面目ね」

「姫様がお転婆過ぎたのです」


 そんな会話の間にもその男は、私に向かって手を伸ばす。

 文明が滅び、人類が緩慢に死に絶えつつある地上でも相変わらず。


「———もうすぐ、私たちのお役目も終わりね」

「そう、ですね。姫様」

「貴女、本当にそれでいいの?」

「……私達は、そういう存在ですから」


 地球は青く、人は愚かで、私は静止している。

 秩序は保たれ、何物も変わるところはない。


※※※


「お兄さん———。いや、なんか、お兄さんって呼び方もどうなのかって感じなんですけど、なんかおかしくないですか?」

「というと?」

「いや、絶対おかしいです!歳取らなさすぎです!」

「そういうお前は老け———」

「デシュクシ!」

「おい、脛を蹴るな」

「自業自得です」


 そう。お兄さんは変わらなかった。気味が悪いくらい、最初に出会った時のままだった。

 最初は老けにくい体質なのかと思った。

 それでも、20年も旅をしていて少しも容姿が変わらないのは異常だ。

 今までもそれとなく聞いてみた事があるけれど、お兄さんは過去の話になると露骨に話すのを嫌がった。でも、今日こそは確かめたい。


「そうか、迂闊だった。もう随分お前と旅をしていたのだったな」

「『迂闊だった』じゃないですよ!説明してください!実は旧文明のアンドロイドなんですか?」

「———まあ、いいか。どうせ信じまいが、もう、隠す必要もないだろう。竹取物語を知っているか?———」


 そう言ってお兄さんが話し始めたのは、長い長い話だった。

 

 昔々、竹取を生業とするお爺さんがいた。ある日、そのお爺さんの所に月のお姫様が赤ちゃんの姿で降った。お爺さんとお婆さんに育てられかぐや姫と名付けられたお姫様に、やがて貴公子達や帝が求婚にやって来る。しかし、かぐや姫は求婚を悉く退けると月の世界へと帰って行った。


 お兄さんは、かぐや姫を月に連れ戻すためにやって来る月のひとを迎え撃てとの帝の命令を受けてお爺さんの屋敷を守っていたけれど、結局、かぐや姫を連れ戻されてしまったらしい。そして、その時に見た、月の女に恋をした、のだそうだ。


「———それで、調岩笠つきのいわかさ殿がかぐや姫の残した不死の霊薬を富士山の火口に投げ込んだのだが、私はどうしてもそれが欲しくなった。あの女をもう一度見るまで死ぬものかと思ったのだ。気づいた時には、火口に身を投げていた———」

「えっ!?ちょっと待って。そんな怪しい薬のために火山の中に飛び込んだの?」

「その時は無我夢中だったのだ」

「お兄さん、正気じゃないね」

「ああ」


 それから、お兄さんはひたすら待ちながら生きて来たらしい。

 不老不死がバレると厄介だから、数年おきに各地を転々としながら今日までずっと一人で。


「寂しいとか思わないの?」

「それは問題じゃない」

「やっぱ、お兄さん壊れてるよ。そんな生き方、悲しすぎる。ずっと一人でなんて……私は側にいるよ?もう文明も滅んだんだし、問題ないでしょ?」

「ああ」

「———ちょっとそこに跪いて」

「何?」

「いいから」


 お兄さんの目には月しか映っていなかった。

 その事が苛立たしくて、私はもうお兄さんじゃないお兄さんの顔を抱きしめた。

 

※※※


 その女が死んでから、随分と長い年月が過ぎた。

 そんな事は、問題ではない。


 依然として月は空に、人類が滅んで透明さを増した空に煌々と照っていた。

 月に手を伸ばす。


 私は当てもなく彷徨った。

 地球を何周歩き回ろうと、私の歩みと平行に月は地球を周回している。

 平行な二直線をどこまで延長してみようと、両者は交わる事はない。

 月に手を伸ばすのは、ある種の祈りだ。


 相変わらず月は美しい。


※※※


 摩耗はゆっくりと、しかし確実に進行した。

 摩耗がいかに緩慢であろうと、永遠に近い時間の流れの中ではそれは致命的だった。

 不死の霊薬は精神の不滅まではもたらさなかった。


 男は月へ手を伸ばした。


※※※


「これでよかったのですか?」

「私達に良し悪しはありませんよ、姫様」

「そうだったわね———。さようなら、青い星」


 最後の人類の死と同時に、月の都も溶解を始めた。

 彼女らもまた役割を終えたのだった。

 彼女らは人類なしに存在を保てない。月は月を見上げる者を離れて存在し得ないのだから。


 そして、真っ暗な暗闇だけが残った。

 

※※※


 いつか、どこかで何かが、強いていうなら巨大な演算装置とでも言うべきものがガチャリと音を立てて停止した。


———演算結果:_FALSE_

———条件充足せず_

———再演算準備_

———メモリを初期化中……_


 静止していた装置が急速に逆回転を始める。

 積み重ねられたものが、次々と取り除かれ、原点へと回帰してゆく。

 逆回転は加速を続け、ついにその地点に到達した。

 壁にぶつかったように強引に回転が止まる。


———メモリの初期化に成功_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


 ブザーが鳴り、装置が何度目かも分からない再計算を始めた。

 否、これは最初の計算でもある。


 夜空には、月が煌々と照っていた。

 物語は冒頭に戻り、月の姫は再び地上に堕とされる。


※※※


 巡り巡る。

 男はある周回で、ふと考えた。


———私の手は月へ届くだろうか


 そこで男は、それを計算してみることにした。

 滅んだ遺跡を周り、文明の残滓を結集して装置を作る。


「お兄さん、最近、楽しそうですね」

「そうか?」

「はい!とっても生き生きしてますよ?憎たらしいくらい」


 装置が完成するとは限らない。

 完成しても、演算が完了するまで私の魂は持つまい。それでも、答えが示されることに意味が———いや、それは間違いだ。私は、答えを求めずには、月に手を伸ばさずにはいられない。


「まあ、どうせ生きてる遺跡はもうないんだし、私もお兄さんの始めたよく分からないことを手伝いますよ!」

「ありがとう」


※※※


———演算結果:_FALSE_

———進捗:_プログラム"Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()"が作成されました

———演算開始_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()

 

 男が装置を作ったのか、装置が男を作ったのか。

 男は装置を作ったし、装置もまた男を作った。

 それでいいし、どちらが先かということは男にとっても装置にとっても、些事であった。


 月へ手を伸ばす。

 その事が全てだ。


 月へ手を伸ばす。

 月とは何か、手とは何か。そんなことも些事だった。

 月へ手を伸ばす。

 月へ手を伸ばす。

 月へ手を伸ばす。

 月へ手を伸ばす。


 およそ意味の欠落した繰り返す永遠の作用が、形骸化した空っぽのその行いが、循環する閉じたその構造が事実だった。そしてその循環は、循環自体が破断して、そこから脱出する事を願いながら永遠に巡り続ける。


※※※


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


 試行は繰り返される。

 成功しない限り停止しない装置は、何度でも何度でも繰り返し、その度に時空は逆回転する。


※※※


「貴女も頑なね。あなたはいつか、あの男に懸想する。だから私はその代償として地上に堕とされた。そうでしょう?」

「姫様、分かっています。私達は、全にして一。私は貴女。だから、分かっています。でも、分からない。分からないのです」


 私には分からない。

 月のひとは完全な存在だ。完全な存在は完結していて、人に懸想する事は定義上あり得ない。にもかかわらず、私があの男に懸想する事は確定した事実だ。


「私には分かりません」

「唯一分かっている事は、いつか分かる日が来るという事ね。残念ながら、私の記憶は、あの羽衣で消されてしまったのだけれど。それでも、私が地上に堕とされた事は、あなたがあの男に懸想する証明。それがどんなに遠い未来の事であっても」


 月の女(わたしたち)は代償を先払いしている。

 だから、必ずそのルール違反は発生する。完全な存在が完全でありながら完全さを失うという逸脱が、ただ一回生じることは決まっている。

 でも、そんな事がどうしてありうるのか、私には分からない。


 あの青い星、穢れた星、美しい星で私があの男に会う日が、どのようにしてやって来るのか、想像もつかない。


※※※


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


———演算結果:_FALSE_

———再演算_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()


 試行は繰り返される。

 成功しない限り停止しない装置は、何度でも何度でも繰り返しその度に時空は逆回転する。


※※※


 それは演算装置か宇宙の秩序に発生したただ一回の致命的なエラー、全ての原因であり結果であった。


「———私には分かりません。どうして、私は地上に降りて来たのでしょう?」


 男にとってそんな事は問題でなかった。

 今や、あらゆる事は問題ではなかった。

 それでも一言、恨み言を言うくらいはしておこうと男はふと考えた。その方が、多分楽しい。そんな事を言いそうな奴がそういえば居たのを思い出す。


「長いこと待ちました」

「見ていましたとも。よくもまあ飽きずに待ちましたね。———それで?ずっと貴方に聞いてみたかったのですけど、私に会って何がしたかったのですか?」

「いえ、何も。ただ一目見たかっただけです。それは今、叶いました」


 男はそれだけ言うと灰となって崩れ落ちた。

 最後の人類が死んだことで、月もまた溶け始める。


「もう。やっぱり私には分からなかったじゃないですか———」


 そして、どこまでも深く膨大な質量を湛えた暗闇が残った。

 装置が万感の思いを込めてガチャリと一度だけ音を立てる。


———演算結果:_TRUE_

———終了_Tsuki_He_Te_Wo_Nobasu()

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