75.安堵の表情
「まさかファビアが寝ちまうとはな」
「昨日から一睡もしていなかったみたいですわね」
ファビア様は私の首を締め、いえ、首に抱きついたまま、眠ってしまった。
離そうとしたものの、ファビア様の腕がしっかりロックされて外れず
私の意識が落ちる前に、多少なりとも腕を弛めて眠ってくれて良かったと思ったのは、秘密にしておきますわ。
椅子の肘掛けを挟んで抱きつかれたままなのは、さすがに体制がきつい。
なにせマルクは40代のオッサン。
腰にくる。
それに気づいたヘリーの助言(?)により、私は今、首にしがみついた状態のファビア様を、膝に乗せて横抱きにしている。
「悪かったな」
「ふふ、何について謝ってますの、ヘリー」
きっとヘリーから謝られる事は、私が想像しているよりも多い。
かと言って、別に恨む気持ちもない。
すまなそうな顔のヘリーに、いたずらっぽく笑いかける。
「それは……」
「かまいませんわ。
もう終わった話ですもの」
「だが……」
「本心ですわ。
私はもう、マルクとしての人生を歩むと決めてしまってますのよ。
フローネだった頃の無念さは、まだ消化できてませんけれど、過去に縛られたくはありませんもの。
それより、気になった事がありますの。
本当ならファビア様にお聞きすべきかもしれませんが……」
視界に映るファビア様の髪を、一瞬だけ横目で見てから、切り出す。
「もしや国王となったあなたが、静養中と嘘を吐いてこの国に来たのは、エンヤ嬢との間にできたお子様を、エストバン国から亡命させる為では?」
私の言葉に暫くの間、息を飲むヘリー。
「気づいたのか」
やがて息をゆっくり吐いてから、私にそう告げた。
「ええ。
ファビア様のこの髪……」
そっと髪を撫でる。
ちょうど私の目には、ファビア様のつむじが見えている。
色を入れて金色を濃くしているけれど、髪の生え際は、白金色。
そして光の加減で、薄青い色味が出ている。
そう、エンヤ嬢の髪色のように。
「そうだな。
シャルルの髪色に似てる」
「それじゃあ、やっぱり……」
「さっきファビアが自分の口で話すって言ってたのが、前世の俺とシャルルの間にできた子供の事だ」
ヘリーが過去を振り返るように、視線を逸らせた。
恐らく前世の子供へと、思いを馳せているのだろう。
「ヘリーの口から聞きたいですわ。
ファビア様は気づいていないかもしれんませんが、自分で思うより、ファビア様の心は繊細だと思いますの。
フローネに関しては、余計に……」
ファビア様は領主として、商団主としては優秀。
性格もしっかりしていて、正に余裕のある紳士。
けれどフローネが関わると、脆くて危うい気がしますの。
そうでなければ私やヘリーがいるのに、こんな風に泣き疲れて眠るなんて事、意地でもしないんじゃないかしら。
「……はあ、ちゃんとファビアを見てんだな。
フローネとして生きてる時も、もう少し見てやって欲しかったが……」
ため息を吐いたヘリーに、苦笑する。
「無理ですわ。
フローネにとってのシャルル=エンヤは、プライドを刺激して意地を張りたくなる存在でしたもの」
「何だ、そりゃ」
「エンヤ嬢は、とても眩しく映ってましたわ。
だからこそフローネだった私の中の、卑屈な感情を刺激されてしまいましたのよ」
「あー……それは、まあ……はは、わからなくもない」
王太子から国王となった前世のヘリーも、自身の伴侶だったエンヤ嬢に卑屈な、ある種の嫉妬を感じていましたのね。
二人して苦笑してしまう。
「マルクとして、何より男として生まれ変わったからこそ、ファビア様をすんなり受け入れられましたの。
もしファビア様が男であっても、きっと受け入れられたと思いますけれど、やはり私には性差があった事は大きいですわね。
けれど私がフローネとしての記憶しかなければ、きっとエンヤ嬢だったファビア様を受け入れる事はできませんでしたわ。
もしかすると、今と違ってエンヤ嬢を憎んでいたかもしれません。
そうならなかったのは、今の私にマルクの記憶があったから」
「そうなのか?
俺はてっきり、俺やファビアみたく始めからマルクとして生きてきて、ファビアと接する事で前世を思い出したのかと思ってた」
「そうでしたのね。
私達が初めて会った前日、マルクは事故のようなもので亡くなり、神様の導きで、私はこの体の中に転生しましたの」
ヘリーに転生した経緯を話しながら、もしかすると転生前に会った神様は、エンヤ嬢の興した神【ナルガ】かもしれないと思い当たる。
もっとも、確認のしようがありませんわね。
「この体が記憶していた本物のマルクが、愛情深い男だったからですわ。
マルクの記憶という愛情に接し、また、バルハ領民がマルクに対して与える親愛に接したからこそ、今の私がありますのよ」
女伯爵フローネの女としての愛は、婚約者から裏切られて失意のまま死んだ。
そんなフローネの愛を救済してくれたのは、残念だけれどファビア様じゃない。
この体に宿ったマルクと、領民だ。
「……そうか、そういう事だったんだな。
俺はフローネの事を、あくまで新興貴族の一人としてしか見ていなかった。
だが、それでも記憶していたフローネ=アンカスと、マルク=コニーは全くの別人だと思うくらい、違って見えていたんだ」
互いに視線を交わらせた後、ヘリーはそう言って、安堵の表情を浮かべた。




