69.エストバン国の王太子
「私はあのままで良かったのに……」
私の真横で、不服そうな顔をするファビア様。
「「どうかと思う(思いますわ)」」
それに対し、私の対面に座るヘリー、いえ、ガルーダ侯爵令息と私は、声を揃えて抗議する。
ファビア様の言う、あのまま。
それはファビア様の胸の双丘を、顔で感じる状態の事で……。
思い出しただけで、顔が熱くなってしまいますわ。
これ以上、私の頭皮が臭え脂を滲ませたら、どうしてくれますの。
『でもマルク?
山で遭難したマルクを、私が連れ帰った日。
マルクは私の胸を触ったよ?
今更抱き締めたくらいで赤くなるなんて。
初心で可愛らしいね』
この発言の直後、ガルーダ侯爵令息が物凄い顔で睨んできた。
ファビア様が言うには、私の邸のソファで並んで座った時、ファビア様があまりに近づきすぎて破廉恥だとパニックになった時らしい。
全然、覚えてねえですわ。
ファビア様の胸は普段、サラシを巻いて押さえているらしい。
今は私が予想外に朝から突撃訪問してしまった為、サラシを巻いておらず、厚めのベストで胸の膨らみが目立たない状態だと言われた。
けれど……もしかするとファビア様も、昨日の歌劇を観て、冷静でいられなかったのではないだろうか。
ガルーダ侯爵令息はファビア様の幼馴染だけあって、ファビア様が女性だと知っていた。
ファビア様を長年、ずっと心配しているらしく、時折、平民で使用人のヘリーとして、ファビア様の邸を出入りしているとか。
そんなガルーダ侯爵令息はファビア様が私に、ああああい、んんっ。
愛を囁く度、どこか寂し気に、切なそうに目を伏せる。
ちなみに私がファビア様の胸を触った話が出た時以外では、睨まれていない。
ガルーダ侯爵令息の仕草と顔つきが、ふと淑女時代、エンヤ嬢を見つめていたある殿方を思い起こさせた。
その殿方とは、前世で私が暮らしたエストバン国の王太子。
フローネが存命中は、子爵令嬢だったエンヤ嬢と身分違い。
夜会で身分違いの二人が並び立つには、色々と不都合が多かっただろう。
エンヤ嬢は王太子の事を、殿方として気にしている様子はなかった。
ファビア様が思い出したという、エンヤ嬢だった頃の話を聞いても、私の判断は間違っていないと思う。
けれど王太子は、エンヤ嬢と違う想いを持っていた。
多分、そんな気がする。
だって子爵令嬢という、エンヤ嬢と身分が釣り合う令息達が、エンヤ嬢と談笑する度、王太子は今のガルーダ侯爵令息のような眼差しを、エンヤ嬢に向けていたもの。
もちろんエンヤ嬢は子爵令嬢とは言え、騎士団長の娘。
エンヤ家も、新興貴族と比べれば由緒正しい家門だ。
新興貴族の伯爵令嬢だった私と違い、夜会中に羽目を外した殿方達に、ふしだらな誘いを受ける事はなかっただろう。
それに王太子の恋慕を窺わせた出来事が、一つある。
エンヤ嬢が夜会に出席するようになって、比較的すぐの頃。
私を嵌めた公爵令嬢が一度だけ、大々的にエンヤ嬢の粗相を責めた事がある。
実はその時、私もたまたま居合わせた。
そしてエンヤ嬢を庇うような発言をしている。
私は見たままを告げただけ。
給仕の者が、グラスを持ったエンヤ嬢へ派手にぶつかった。
そのせいでエンヤ嬢はグラスの中のワインを、公爵令嬢のドレスにかけて汚してしまったのだ。
エンヤ嬢に悪意はなかったと……。
怒りが治まらない様子の公爵令嬢と取り巻き令嬢達は、私とエンヤ嬢を取り囲んで責め立てた。
そんな時、正に白馬に乗った王子様のごとく、王太子が颯爽と現れた。
公爵令嬢ではなく、私に理由を尋ね、エンヤ嬢共々庇ってくれた。
その際、王太子から普段の言動も含めて諌められた公爵令嬢は、公の場で恥をかかされたと思ったらしい。
以来、公爵令嬢は私の方を目の敵にし、エンヤ嬢に対しては陰で嫌味を囁くに留めるようになった。
当時を思い出し、げんなりしてしまう。
もしかして、あの一件のせいでは?
私が公爵令嬢に目をつけられ、最後には嵌められて処刑される事態になったのは。
王太子が私を庇ったのは、確実にエンヤ嬢のついででしたわ。
以来、夜会の場で私が公爵令嬢からいびられていても、王太子に庇われた覚えがありませんもの。
王太子とは、身分社会においては上位種。
王太子がもっと考えた庇い方さえしていれば、私が公爵令嬢に嵌められる事も……。
いえ、どちらにしても、私の婚約者が私の事を何かしら裏切ったはず。
そう思うと、何だか悔しいような、虚しいような……。
「マルク?」
知らず、眉根を寄せてうつむいた私に、ファビア様が呼びかける。
「ああ、何でもありませんわ。
少し、昔の事を思い出しただけですの」
慌てて顔を上げて苦笑する。
今更ですわ。
フローネだった私は死んだんですもの。
「昔……」
するとガルーダ侯爵令息は、どこか痛ましげな眼差しを私に向けた。
「えっと、ガルーダ侯爵令息。
昨日の……」
「ヘリーでいい。
公の場でない時は、そう呼んでくれ。
最初っからアンタとは、ヘリーとして気安く接してたんだ。
ガルーダ侯爵令息って呼ばれるのはむず痒い。
あと、身分を偽ってて悪かった」
「では、ヘリー。
さっさと本題を喋ってくれる。
マルク、気に入らなければ、ヘリーなんて愛称で呼んであげる必要はないからね」
私の言葉を遮って謝罪したヘリーへ、私ではなくファビア様がすかさず返事をしてしまった。
「だ、大丈夫ですわ……」
ファビア様は笑顔なのに、どうして仄暗さを感じますの?




