58.新作のお誘い
「マルクはどうしてそんなに離れて歩くのかな?」
「いえ、ちょっとああああの、臭いが気になりまして」
「ふーん」
しまった!
このままでは、最近お決まりの「臭くないよ」行動に出られてしまいますわ!
ここ最近、ファビア様の距離が近い時、自分の体臭が気になるからと言って離れると……。
「どれどれ?」
き、来ましたわ!
こうやって更に近づいて、わざわざ臭えオッサンの臭いを嗅ぎに来やがりますのよ!
ファビア様は臭いフェチに違いありませんわね!
けれど私の中身は、淑女ですの。
緊張して、違うタイプの臭え脂を流している気がしてなりませんわよ!
そう、元々人は緊張した時、一味違う臭いを放つのは知ってますわ。
けれどマルクの体は一際に、何味も違う臭いを噴射してしまうんですの!
特に脇ですわ!
最近ではすっかりマシになったとは言え、脇汗と脇脂が入り混じるマルクのネチャネチャ脂は、シャツをこれでもかと黄色く変色!
するとお洗濯が大変になりますの!
なにせしっかり除去しないと、いつまででも臭えんですわ!
まるで生乾きの雑巾にお酢をかけ、数日発酵させたかのような最終形態になってくる。
カメムシなど可愛らしく感じるような臭いが、脇からネットリと体中にまとわりついて……ん?
カメムシ……。
「ああ!?」
「え、どうしたの?」
「あ、いえ、はしたなかったですわ。
うっかり大声を出してしまって、ごめんなさいですわ」
「それより、早くその虫を解放した方がいいんじゃないかな?」
「へ? 虫?」
そう言えば外に出た目的を、すっかり忘れてましたわ。
「虫がファビア様を襲っちゃいけませんものね。
こちらで少々お待ちになって〜」
言うが早いか、さっと木陰に行く。
振り向くと、ファビア様と目が合う。
「おほほほ〜」
誤魔化し笑いをしながら、握っていたハンカチをひらひらさせて、虫を放っているかのように演じる。
手早く胸ポケットから筒を取り出した。
筒は紙製だが柿渋を何度も塗り、防水仕様にしてある。
少し硬めに絞ったおしぼりくらいなら、紙がふやける事もない。
念の為、今日は二つの筒を携帯している。
「ま、まあ、虫がハンカチを気に入ったみたいで、なかなか離れませんわね〜、えい、えいっ」
適当に誤魔化しつつ、取り出したおしぼりをボタンの間から脇に差し込んで、ささっと拭き上げる。
もちろん両脇やる。
「苦戦してるね。
私がやろう……」
「おおお終わりましたわ!」
あっぶねえですわ!
ファビア様が近づいてくる気配を感じたものの、間一髪、ハンカチと筒を胸ポケットに戻した。
筒を閉じる時に感じた臭いは、やはりお察しな臭え臭いだ。
シャツの脇を黄色くする前に、対処できて良かった。
「ねえ、マルク。
さっき令嬢達と話していた歌劇だけど」
「歌劇?
ああ、ガルーダ侯爵家の後援している歌劇団の事ですの?」
話題が急展開ですわね。
それにどうしてファビア様は緊張なさっているのかしら?
顔が少し強張ってますわ。
「そう、その歌劇団。
最近、ある私小説を元にした歌劇をしてたんだけど、新作が出たらしくてね。
急だけれど、明後日一緒に観に行かない?」
「えっと……もしかしてファビア様も、薔薇を嗜まれる……」
今しがた騒いだばかりの薔薇が頭を過ぎり、ゴクリと喉を鳴らす。
「いや、違うよ。
マルクが興味あるなら、薔薇の演目も観るかい?
一応、私が今誘っているのは、昨日から上演が始まった新作だよ。
薔薇と呼ばれる類の方の歌劇もかなり人気があるから、少しアレンジして夜の部として継続するって聞いている。
新作は女性同士の友愛も少し入るって聞いてたけれど、こっちは私も勧められただけで、内容ははっきりと知らないんだ」
「そ、そうなんですのね。
でもガルーダ侯爵家が後援する歌劇団は今、人気を博しているんですのよね?
昨日から公開となった新作なら、すぐに席を押さえるのは難しいんではないかしら?」
「ガルーダ侯爵家とは、昔から交流があってね。
そこの令息とは幼馴染なんだ」
「ああ、思い出しましたわ。
バルハ領産の特産品にお声掛けいただいた、ヘリオス=ガルーダ侯爵令息は、ファビア様の紹介でしたわね」
そう、サンダルや緑茶を購入してくれたのだ。
しかも令息が所属する騎士団からも、かなりの数を依頼してもらえた。
その上、五本指靴下と足袋靴下の問い合わせもしてくれている。
「そうだね。
あの歌劇団が薔薇の私小説を取り上げたのは、私の依頼……」
「え?」
「ふふ、少しやっておきたい根回しを考えていたら、うっかり口にしてしまったみたいだ。
新作は先日、幼馴染のヘリオスが強く勧めてきたんだけど、そっちは私も知らないよ。
でも幼馴染からのお勧めだし、マルクもマナー講師の仕事が終わったから、三日後にバルハ領に戻るでしょう。
その前に一緒に行ってくれると、私としても嬉しいんだけど……」
ファビア様、私に上目使いをするのが手慣れてません?
私の弱い所を的確に突いてきますわ。
「わかりましたわ」
「ふふ、ありがとう」
花の蕾が綻ぶような笑みを浮かべたファビア様に、胸がドキリと脈打つ。
「と、とんでもありませんわ。
私、元々歌劇は好きですの。
楽しみですわ」
「うん、私も……」
「それよりキリア嬢が気になりますわ!
ちょっと行って来ますわね!」
「え……は、速い……」
話は終わったとばかりに、ファビア様から遠ざかる。
何ですの!?
今の幸せそうなお顔!?
令嬢のようにも見える、無垢な微笑みなんて、反則でしてよ!
顔が火照るのを感じながら、気になっていたキリア嬢の元へと急いだ。




