32.素尻
『それじゃあ、私の前に跨ってくれるかな』
『……へ?』
崖から私を引き上げた後、ファビア様の形の良い唇から発せられたこの言葉。
呆けた声を出してしまったのは、仕方ないと思いますわ。
ファビア様の意図を理解した後、私の顔は真っ赤に染まる。
『ま、ままま、前!?
ファビア様の……前に跨がれと!?』
『そうだよ』
まさかと思って確認するも、当然のように頷くファビア様。
ちなみに昨夜の時点で、二人きりの間は名前で呼ぶよう言われている。
なので私も、マルクと呼び捨てにして欲しいと伝えた。
今後ファビア様と二人きりになる事は、きっとないだろう。
恐らく期間限定の、高所で一夜過ごす私を励ます為の気遣いによる提案だ。
『だって馬は、この一頭しかいないからね』
更に続けたファビア様の言葉は、私の胸キュン淑女な乙女心を、奈落の底に突き落としましたわ。
そう、ファビア様は私と二人して、お馬に乗って帰ろう。
そう提案して下さっているのだ。
気遣い紳士ですわ!
けれど恥ずか死ぬというやつですわ!
しかも今の私は、臭えオッサン!
間違いなく臭えんですのよ!
だって五日は山中を歩き回ったのだ。
一応、小さな小川を見つける度に頭や耳元、首筋と脇は洗ったり、拭ったりして臭いエチケットに気を配っていた。
でないと愛ロバのロッティーが、臭えんだよと言わんばかりに、体当たりで小川に突き落としにかかるのだ。
『だ、駄目ですわ!
歩きますわ!
私なぞ、徒歩で十分ですわ!』
『それは……おすすめできないかな。
君のお尻がね……』
困ったように微笑み、言い淀むファビア様。
『お、お尻?』
突然のお尻発言に、身をくねらせて自分のお尻を見ようとした。
体が分厚いせいか、横尻しか見えませんわね?
そっと手をやる。
『ひいっ!
素肌の感覚!?
まさか、落ちた時の尻ソリーで!?』
間違いなく、ズボンが破けて、素肌ならぬ素尻を曝してますわ!?
幸い、ズボンは破れ切っているわけではない。
風でヒラヒラと布が上がると、誰も望まぬオッサンの、醜いデカ尻の一部がコンニチワするだけ。
誰も見たくありませんわ……。
見せた途端、変態行為だと捕まるやつでしてよ。
膝から崩れ落ちそうになるのを、何とか堪える。
『そ、それなら、せめてファビア様が私の前に乗って下さいまし』
心の中で滝のような血涙を流しながら、掠れた声で提案。
素尻を曝す臭えオッサンを抱えて、馬に乗る王子様。
想像しただけで、罰ゲームだ。
もちろん、罰を受けるのが助けに来てくれたファビア様になる。
『コニー男爵?
君、その手で手綱を握れる?』
ファビア様に言われて、初めて手に意識を向けた。
『傷だらけ……いつの間に』
極限状態だったせいか、気づいていなかった。
意識した途端、ズキズキと地味な痛みを主張し始める。
細やかな所に気づく殿方、素敵ですわね。
『だからね、ほら、乗って。
ここで押し問答しても、無駄に時間が過ぎるだけだから。
ほら、ね?』
おかしいですわ。
ファビア様の王子様スマイルに、早く乗れよという無言の凄みを感じますわ。
『わ、わかりましたわ。
よろしくお願いしますわ』
そうしてお馬に乗った私。
もちろんファビア様は、私の背後にピッタリくっついて手綱を握る。
爽やかな風を感じながら山を降りる間中、臭え臭いが風で後ろのファビア様を殺傷しないかと、気が気でなかった。
私の体へと回るファビア様の腕の、何と華奢なこと。
更に私の体が分厚いせいで、私の背中に密着せざるを得ないファビア様のお胸。
殿方のお胸は、もっと硬いと思ってましたわ。
そもそも、殿方に後ろから抱かれた事もありませんでしたわね。
平坦ながらも硬すぎないお胸には、正直ドキドキした。
死ぬまで、いや、死んでも内緒にしておく案件だ。
そうして二人して邸へと帰路につき、今に至る。
ファビア様のお馬が、思っていた以上に訓練されてましたわ。
お陰で早く下山できたのは、ようございましたわね。
「臭えなどと一言も漏らさない、性別にも別け隔てがないファビア様の紳士っぷり。
さすがでしたわ」
「うーん、確かに薄っすら体臭を感じたけど……」
「も、申し訳ありませんわ!」
ファビア様が皆まで言う前に、体臭の一言で慌てて謝る。
「マル坊!
これ以上臭いで伯爵様に迷惑をかける前に、さっさと風呂に入るんじゃ!」
「わ、わかってますわ!」
同じく慌てるバル爺に、追い立てられるようにお風呂へと向かう。
「うーん……体臭に隠れた枯れ葉みたいな臭いは、嫌いじゃなかった……」
「あの、何人か残って、ファビ、いえ、グロール伯爵にお茶を入れて下さいまし!
ダン!
こないだ私が通した応接間。
覚えてまして?」
「おう、任せな!」
「お茶なら、私が淹れるよ!」
「ありがとうですわ!
キーナは緑茶を含ませたおしぼりを、グロール伯爵にお出しして下さいまし!」
「わかった!」
指示を出しながら、ふとファビア様の言葉を遮ったような気がすると思い至る。
けれどダン一家の明るい声に、そんな思考はかき消されていた。
「コニー男爵。
慌てなくて良いから……ああ、マダム・エリー」
バルハマダム三人衆の一人、エリー婆と面識があったらしいファビア様。
「へ!?
あ、ああ、そういや名乗ってたんだった!」
「マダム・エリーは残って、コニー男爵がお風呂から出たら、手の平の処置をしてあげてくれない?」
「ま、ままま、任せな!
いや、お任せ下さい!」
エリー婆が、頬を赤らめたですと!?
ファビア様の王子様オーラに当てられましたのね!?
わかりますわ!




