5 そして扉は開く①
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(…………おなか、すいた…………)
物置小屋に閉じこもって、三日目、深夜。
横たわり、痛いほどの空腹に苛まれながら、私は残り一欠片のパンを、霞む目で見つめていた。
お腹がすきすぎ、そもそも栄養状態も悪すぎるせいだろう、視界に砂嵐がかかっている。
不埒者が小屋に入ってきたときに身を守るため、毎晩薪割り用の斧を枕元に置いて眠るのだけど、もし今入ってこられても、それを振るう力があるかどうか。
いつもなら、捨てられる古新聞をこっそり持ってきて読んで空腹をまぎらわすところだ。
本になんて触らせてもらえない私にとっては、新聞がこの十年唯一の活字。
だけどもう、この三日で小屋にあるぶんはすべて隅から隅まで何度も読んでしまった。
(…………お父様とお母様は……本当は私を、修道院に送りたかったのよね。修道院に行っていたら私、もう少し食べることができたのかしら?)
十年前、領地のこの邸に連れてこられた私は、しばらく文字通りの監禁生活を送った。
地下の暗くカビ臭い小さな部屋に入れられ、本も服も小物も何もかもないその場所で、一日一度か二度の食事をじっと待つ。入浴も週に一度できれば良い方。
毎日毎日何をすることも許されない、長い長い、頭がおかしくなりそうな時間をすごした。
その間、両親は私を入れる修道院を探していたらしい。
だけど結局、受け入れてくれるところが見つからなかったのだとか。
お父様とお母様は、社交シーズンを終えて領地に戻っていらした際に、使用人たちをほとんど辞めさせた。
そして私は、ヴァンダービル家の娘ではないことにされた。
『この娘は、不祥事を起こした使用人の子で、行き場がないのでこの邸に置いている』
『虚言癖があるので変なことを言っても信じないように』
そう言い含められた新しい使用人たちに囲まれて、八歳の私は大人に混じって、ハウスメイドの仕事をすることになったのだ。
「あなたのせいで、我が家は社交界から閉め出され、多大な被害を受けたのよ。ジェームズもエヴァンジェリンも、どれだけ傷つき、つらい思いをしたか……せめて使用人の仕事で役に立って、罪滅ぼしをしなさい」
お母様は、そう、冷たく言った。
お父様はもう決して私に話しかけようとはせず、ジェームズお兄様やエヴァンジェリンは、私の方を見ようともしなかった。
(……そんなに……みんな、そんなにも私のせいできずついたの?)
おまえのせいだ、おまえが悪い、みんなを傷つけた加害者だ……そう言われれば、もう何も言い返すことはできない。
アンナだって……きっと人生が狂ってしまったのだ。私のせいで。
使用人が少なくなった邸のなかで、毎日毎日、山のような仕事をこなした。
子どもだから大人たちほど仕事はうまくできない。なのに何だかんだ理由をつけてまともに教えてもらえず、失敗しては、新しい家政婦長に罵られる。
罰だといわれ、しょっちゅうごはん抜きにされ、お腹がすきすぎて目が回ってフラフラになって、また失敗する悪循環。
給金などもらえるはずもなかったし、そもそも外にも出してもらえなかったので、ご飯抜きにされてしまえば食べ物を手に入れる手段がない。
お腹すきすぎで倒れそうな私のところに、リサが、時々人目を盗んで自分のぶんの食べ物を持ってきてくれるようになった。
貴族令嬢としてのマナーさえ忘れて夢中で食べる私に、リサは涙をボロボロこぼした。
「お嬢様はまだ子どもなのに……これから大きくなるためにもしっかり食べなきゃいけないのに、こんなの酷すぎます。
たったこれだけしか用意してさしあげられない私をお許しください」
普段はもう感情も麻痺しているのに、そんな時だけは私も涙が出てきてしまって、リサの胸で声を上げて泣いた。
彼女は他の使用人たちににらまれていて、表立って私の味方をすることはできなかった。
けれど、リサがいなければ、私はきっと自分を責めすぎて死んでいたと思う。
誘拐犯が監獄に送られたことも、リサが教えてくれた。
使用人の仕事は、大人たちのそれを盗み見、会話を必死で盗み聞きして覚えた。
わからないことは、リサがこっそり来てくれた時に訊いた。
それでなんとか一通りできるようになったけど、私が失敗して効率が悪くなるだけなのにみんなどうしてこんな意地悪をするのか、という疑問はいまだにとけない。
毎年領地に家族がいる時期は、家族となるべく顔を合わせないように仕事をする。
つらかったのは、それでも否応なく家族の姿が目に入ってしまうことだ。
お父様もお母様も、お兄様とエヴァンジェリンをとても優しく慈しんでいる。
何人も家庭教師をつけ、何もかも彼らのためには惜しまない。
あの日までの記憶にあるお父様とお母様が私に向けてくださった優しい眼差し。それを、お兄様とエヴァンジェリンには今も向けているのだ。
立派な両親。成長してハンサムになったお兄様。そして、お母様に似て背が高くなり、年々美しくなるエヴァンジェリン。
私以外の四人は変わらず絵に描いたような理想の家族であり続けているのだ、という現実を突きつけられる。
(そういえば……新聞を読んでみても、今のヴァンダービル家は社交界から締め出されてはいないみたい。
特に、晒し者になっている感じもしないわ。
だとしたら……私のことはどうなったのかしら)
十年前のマージェリー・ヴァンダービル誘拐事件は、もう皆には忘れられた、ということなのだろうか。
(それでも私は、まだこの家に償わないといけないのかしら?)
思考がどんどん悪い方に行く。
(エヴァンジェリンはどんなものでも買ってもらって、今回の催しだって……また新しいドレスを仕立ててもらったみたいで、幸せそうだった。
今はエヴァンジェリンがヴァンダービル家の『自慢の娘』……)
修道院に入ることができれば良かったのに。
いえ、いっそ孤児院でも良かった。
お兄様とエヴァンジェリンが変わらず愛されている、その事実を目にしないでいられる場所なら。
どす黒い感情が胸に渦巻き、それを吐き出すように、深く息を吐いた。
(ダメだわ。こんなことを考えていても、どうしようもなく病んでいくだけだわ。
……あの人のことを考えましょう)
ギュッ、と目を閉じて、私は、あの人の顔を思い浮かべる。
私を助けてくれたあの少年の顔は、瞼に焼きついて消えない。
いえ、もちろん助けてくれたのは彼だけじゃない。一生懸命他の人に助けを求めてくれたアンナと、私を探してくれた全ての人が恩人だ。
ただ、その中でも彼の顔を思い出すと、心が温かくなって元気が湧いてくるのだ。
だからこの十年間、つらい時はいつも、彼のことを考えて現実逃避してきた。
漆黒の髪に浅黒い肌の、絵画から抜け出したかと思うほど綺麗な少年。
私を案じる真剣な瞳。励ましてくれた優しい笑顔。抱き上げる頼もしい腕。
(アンナより少し年下の気がしたから、十五歳くらいだと思ったのだけど……良く考えればあのとき八歳の私には正確にはわからなかったかも)
いつかここを抜け出して、自分の力で生きていくことが叶ったなら。
王都に行って、あの人を探そう。
助けてくれた憲兵や警吏のうち、何人かは名前をフルネームで教えてくれた。
そのうちの誰かを探し出せたら、あの人のこともわかるんじゃないかな。
そして、大人になったあの人に会って、お礼を言うの。
きっともう、素敵な婚約者か奥様がいらっしゃるでしょうけど、それでもお礼だけは言うの。あなたのおかげで生きてこられました、って。
────そんなことを妄想しているうちに空腹で気絶してしまったようだ。
ふと目を覚ますと、小屋のなかにうっすら朝日が差し込んでいた。気を失っている間に長い夜が開けてくれたことに感謝した。
(最終日……ね。今日を乗り切れば、終わりだわ)
再び目をつぶった。
パンはもう少し後に食べよう。
もうちょっとだけ我慢、我慢。
そう心のなかで呟いた、その時。
「────っ、おまちくださいっ!! 殿下!!」
小屋の外から、焦ったようなお父様の声が聴こえた。