27 マージェリーは役に立ちたい②
殿下は、今日は少しお疲れなのか自制心が緩んでいらしたようだ。普段は極力避けようとなさるお仕事のことを話し始める。
「審議中の法案がいくつかあるのだが、それについて、貴族の各派閥から出た意見書にかなり翻弄されている」
「そうなのですね。法案については新聞で読みました……災害時の対処に関する法案や、新しい教育制度の法案などですよね」
「ああ。ただ今回は、役職についたことがない貴族たちまでこぞって意見書を出してきている。
普段、公文書を書き慣れている官僚や、役職を持っている貴族たちと違って、正直、出来がひどい」
「ひどい?」
「たとえば、自分の意見の根拠として過去の事例を上げていても、うろ覚えの記憶で『いつ頃こんな事例があった』といったざっくりした書き方だったりな。
何年何月何日に、何州のどこで、どんな身分・肩書き・年齢・性別の何という名の者が、どのように何をしたのか、何が起きたのか、それにはどのような固有名詞がついているのか……そういった情報がなければ、事実確認がかなり難しいだろう。
皆、いい歳をした貴族たちなので、基本的な文章力はあるのだが、いかんせん必要な事柄が全然書かれていない」
「ええ……それは確かにひどいですね。
王家に提出しているのにそんな書き方をなさるのですか?」
「ひどいという自覚がないのだろうな。
いつもは自分より低い身分の者相手に出す書類ばかりだから、不備があっても相手が何とかしてくれるのが当たり前になっているのか……あるいは受け取った側が貴族に忖度して、本人には何も言わずに何とかしているのか」
「なるほど……身分が高い側は特に何も意識していなくても、低い側からすれば圧を感じますものね」
「そういうものなのだろうな」
私も両方経験したから実感しているところはある。
ただ、うまく言えないけど何となく、何かが違うような気がした。
言葉にはできないのだけど、何となく。
「本来なら、あまりにひどいものは自分で全部正しいかどうか見直して修正してこいと突っ返したいところだが……いまは何度も修正をやり取りする時間はないし、年長の高位貴族たちにヘソを曲げられても面倒だ。
結局、一、二度で修正が済むようこちらが細かく赤字を入れざるを得ない。それにひどく時間がかかってな……。
特に、先ほど言った過去の事例も、せめて日付を正確に書いてくれていれば先に補佐官が調べて確認してくれるのだが、今回ばかりは彼らも手が回っていない」
「それで殿下もご自身でご覧に……。
あの、その意見書は……私などが見るとまずいものですか?」
「ん? いや、今回の件はそんなことは……どうかしたか?」
「いえ、あの……もしかしたら」
確証はなかったけれど、もしかしたら。そんな思いで私は殿下のお顔を見つめた。
「私、お役に立てるかもしれません」
***
初めて入った殿下の執務室。
私は殿下から意見書のひとつを手渡され、私が確認できる箇所に目を通していった。
「こちらの水害、日付が書かれていないですが場所と季節からみて八年前の六月十日にあった『第十五次ファーレン川水害』でないかと思います。
ただ、おそらく、死者の数が大きく違うのではないかと。
隣の河川で十五年前の十月三日にあった『第十八次ファーラ川水害』の死者数と混同して書いている可能性があります」
「……ん……ああ、本当だ。確かにどちらも記録があった。
言われてみれば、この頃に水害があったと何となくは思い出せるのだがな」
殿下は、日付順に編纂された膨大な記録資料をめくって、私の言った日付のものを探し出した。
「それにしても、十五年前のものも把握しているのか?」
「はい、八年前、近い場所で過去にあった水害の経験を生かして日頃から対策を練ったことが死者数を減らすことにつながったという論調で新聞に書かれていましたので。
それと、こちらに記載されている東部辺境の土砂災害、日付が書かれていませんが、この被害の特徴からみて……六年前の五月二十日だったと思います」
「六年前……ああ、確かにその年は初夏から秋にかけて災害が続いていたな……。
あ、これだな。記録にもあった」
それからしばらく私は、意見書に書かれている事故や災害、事件などの記述を読んでは、自分の記憶と照らし合わせて日付を言ったり間違いを指摘したりした。
「君は、縁もゆかりもない土地で起きた、まったく自分に関係のない出来事やその日付まで覚えているのか。君の記憶力はすごいな」
「そういうわけでは……」
私は首を横に振る。
物置小屋の中でいつもながめていた古新聞は、私が唯一外界のことを知れる手段であり、そして数少ない癒しだった。
これは、好きな物語を繰り返し読んでいたら台詞や文章を自然と暗唱できるようになるみたいなものだ。
だから何も特別なことではないのだけど、殿下のお役に立つなら良かった。
私はあっという間にすべての意見書を見終わった。
幸いにも、私が知らない出来事はほぼなかったので、事実確認の手間は大幅に省けたようだ。
殿下はホッとした顔を見せた。
「ありがとう、マージェリー嬢。かなり時間が短縮できた」
「お役に立ちましたでしょうか?」
「ああ。本当に助かった。
これは今日のうちに終えられそうだ。
本当にありがとう」
(……嬉しい)
やっと殿下のお役に立てて嬉しい。
沸き立つ気持ちと同時に、一度グズグズに溶けて崩れてしまった人としての自信が、少しずつよみがえってくる感覚を覚えた。
(もっと殿下のお役に立ちたい。
もっと勉強しなきゃ)
思わず笑顔になってしまったのだろうか、殿下がまじまじと私の顔を見つめていらした。
「……殿下?」
「ああ、いや、何でもない」殿下はスッと目をそらす。「女性の顔をじろじろ見て失礼だったな」
「い、いえ! こんな顔で良ければいくらでもどうぞご覧になってください! 妹のような美人ではありませんけれど」
「……なぜそこで君の妹が出てくるのだ?」
「え? それは……」
なぜか、殿下は怪訝そうな顔をしていらっしゃる。
「それは……その、エヴァンジェリンは美人ですから?」
長身美男子の殿下と、すらりと背が高くスタイルの良い美人のエヴァンジェリンが並べば、これ以上なくお似合いのカップルに見えるとは思う。
両親は、エヴァンジェリンの嫁ぎ先としてロデリック殿下を狙っていた。
もしも私の存在が発覚しないままだったら、殿下は、彼女を見初めていたかもしれないのだ。何もおかしなことは言っていないつもりだけど……。
何だか殿下の表情が、何ともいいがたいものになった。
もちろん憂いを帯びたお顔も、とても素敵なのだけど、何だろう……困ったような、もどかしいような、何かを言いたいような言いたくないような。
どうかなさったのだろうか。
数秒の沈黙に、私が心配になった時。
「……君の方が綺麗だ」
「………………え?」
「比較にもならない……いや、何でもない。こんな夜に淑女を男の部屋にいれて申し訳なかった」
「えっ、え、いえ、そんな……」
私の聞き間違いだろうか。幻聴だろうか。
殿下の素敵な声が耳に残り、離れない。
問い返す勇気がない。その私に、殿下はそのお顔を近づけていらした。
「あ、あの……」
「……また、協力してくれるだろうか」
「は、はいっ、ぜひっ」
殿下の役に立った喜びが、隠しきらなければならない想いに塗りつぶされていく。
顔が赤くなっていないかしら。心臓の音が聴こえてしまっていないかしら。
息をするのも必死になりながら、私は何度もうなずいたのだった。
***




