五年前
1.
正面に、三百程度。音に聞いた、姫君の騎士たちである。
王陛下が身罷られた。即位したのは、長子ダヴィド。しかし母親の血筋は、他のきょうだいと比べ些か劣り、またその器量についても不満の声が強い。
比べれば、先王の弟君である王叔殿下ゾルタンなどは、他国との縁も強く、政にも明るい。こちらを王として戴くべきという声は、大きかった。王叔殿下は重ね重ね、不満なしと表明しているが、内心、いくらか以上の野心があることは、透けて見えていた。
フェダークは、隣領の領主であるスキーパラと共謀し、王叔殿下を唆した。返事は、色よいものだった。合計、八百程度の戦力。他領からも加勢の声が出ていた。そして他国からの協力も、獲得できた。
王陛下、君たるに相応しからず。それで、立ち上がった。国側はこれで、孤立するはずである。
上手くいったのは、そこまでだった。
誰も、動かなかった。他領も、他国も、王叔殿下も、あるいはスキーパラでさえも。他領からは掌を返され、交易も絶たれた。王叔殿下は、麾下将兵が不同意を表明したとして、内部で揉めているようだ。
その内に、国側の勢力が動きはじめた。
奸賊が王叔殿下を煽動せり。それで、すべてが覆った。
他国は次々と、謀反に加勢するつもりは無かっただの、聞いていることと話が違うなどと言い訳を並べはじめ、離れていった。王叔殿下すら、叛意無しと釈明し出した。
残ったのは、スキーパラと、自分だけだった。
そのスキーパラも、先ごろ攻められ、戦死したという。
降伏するにはもう、機を逸していた。戦うより他あるまい。緒戦で優位を取り、その後に籠城。講和に持っていく。軍議を何度開こうが、それぐらいしか、案は出てこなかった。
領の内外を問わず、掻き集めた戦力が、五百。うち、半分が傭兵。それも、ほぼ賊徒といってもいい。副将のハラディルの言により、これを後詰とし、領主であるフェダーク自ら先陣に立ち、士気を維持することとした。あの姫君か、その側近に、矢を射かける程度まではやっておくべきだと。
それまでは、必死になるしかない。
隘路に、陣取られている。戦力差が意味を成さない。何とかして、引きずり出す必要がある。
「軽騎で、釣り出せ。表面を触る程度でいい」
それだけ告げ、具足を着込んだ。引きずり出した分を、重装騎兵でなぎ倒す。並行して、弓兵、弩兵を前に出していけば、時間はかかるが、相手は下がりはじめるだろう。
隘路は、自分の動きをも縛る。小娘風情め。生兵法でこの俺に挑もうとは。その姿勢だけは、褒めてやろう。
表面の槍衾には当たらない程度で、軽騎兵が駆け回っている。焦らしているところに、両翼から、矢を降らせた。それで、下がりはじめた。ならばこちらから、攻め入る。隘路を取る。
歩兵を副将に任せて、重装騎兵を前に出した。
「重騎。槍、用意」
並んだ。二列。鈍色の、馬と甲冑。
「父祖よりの尚武の血。我がフェダークの名の下に。続け」
吠えた。それで、壁が動きはじめた。
風を切る感覚。甲冑の重さと、視界の狭さ。それが、酔わせる。戦場という極上の美酒。名にあぐらをかいた男では無いことを見せつける。絶好の機会だ。
正面から出てきた。赤い旗。五十程度の軽騎。撹乱のつもりか。武器も、剣か、普通の槍だ。馬上槍ではない。
ならば、教えてやる。死とは得てして、予想以上の質量と速度を伴って訪れるということを。
正面からぶつかる。一瞬だった。五十は、影もなくなった。
そのまま、本陣へぶつかりに行く。後は勢いでいい。フェダークと側近二名は、馬脚を緩め、後ろについた。隘路に入る。槍衾は下がっていた。
臆したな。ならば押し切れる。
不意に、列が乱れた。馬脚を更に緩めた。
「閣下。柵と、穴です」
側近の声だった。
面頬を上げた。視界が広がる。馬止めの柵と、壕。それに阻まれるか、足を取られて、重装騎兵の二列が、無力化している。足を止めたものの後ろから、別の騎馬がぶつかったり、倒れた馬から投げ出され、打ち捨てられたものたちに、敵の歩兵が群がっている。
「お逃げ下さい」
側近のひとりが、馬の尻を叩いた。それで、駆けはじめた。
隘路の出口。弓兵たちと、軽騎と合流すれば、組み直せる。
出口。混乱していた。弓兵も、軽騎兵も、揉まれている。こちらに戦力はいないはずだ。
「如何したことか」
合流した軽騎に向かって叫んだ。
「赤い旗。五十です。人馬の紋章」
「何だと」
フェダークの背筋に、冷たいものが流れた。
踏み潰したはずの、五十。正面からぶつかって、いや、躱したのか。躱して、回り込まれた。それでも、五十。残している歩兵や、後詰めが押してくれば、やり直せる。
「歩兵は、動かんのか」
「伝令は何度も出していますが、動かず」
自陣を見た。人の群れの中に、何かが揺らめいている。
「白旗、だと」
愕然としていた。
裏切られた。あるいは、見捨てられた。それでも、早すぎる。副将のハラディルは、どうした。あるいは、斬られたか。
何かがぶつかった。右肩。よろめいた。矢。板金鎧は貫かれたが、肉にまでは届いていない。ただ、馬が怯んで、暴れている。馬上槍を捨て、馬を抑え込んだ。
赤い旗。人馬の紋章。いた。ひと世代前の、古臭い具足。馬上で、平原拵えの短弓を、ひっきりなしに絞り込んでいる騎馬ひとつ。
あれが、かの白箭卿。精強。その一言で、表された男。
「白箭卿。お相手願おう」
剣を抜いて、駆け出した。
あれさえ破れば、巻き返せるはずだ。咆哮。着いてこい。あの男さえ、斃せば。
降将ごとき。平原の蛮族と戯れていた、田舎武者めが。短弓なぞ、騎士にあるまじき卑しきものを使うとは。姑息な手まで用いて、そんなに俺がこわいか。そうだ、フェダーク家は、代々の尚武。教えてやる。騎士の戦いを。俺の力を。
腿と、右腕。同時だった。視界も、回っていた。馬も射られたか。衝撃と苦痛。
しばらく、空が見えていた。馬蹄が、周囲を回っている。
「フェダーク卿とお見受けした」
深い声だった。
反射的に、身を起こした。立つことはできなかった。それでも膝立ちで、動く左腕で、面頬を上げた。古めかしい具足と、短弓の騎馬。正面にいた。
固まっていた。これが、精強。辺境の雄、白箭のハンズリーク。侮っていた。殺される。次の一矢で、確実に。
「お慈悲を。王陛下の意に背きしは、忠信なればこそ。父祖の地と、神たる父に誓い。永久の忠義をお示し致す。なればこそどうか、弁明の機会を」
跪き、許しを請うていた。相手は馬も降りず、面頬も上げない。あるいは弓すらも、視線すらもあわせなかった。
「王妹殿下、御前にございます」
傲然と告げられた。その視線の先だった。
馬上。小さな姿。金色の、甲冑。面頬は上げている。顔が見えてきた。
女。まだあどけない顔。裏腹な、睥睨する瞳。
「騎士、フェダーク。殿下の御前に」
声が、震えていた。
戦場の姫君。王妹殿下、マリシュカ。
隣に控えた男が、何かを投げて寄越してきた。ちょうど目の前に、それが転がってきた。
短剣。
「自裁せよ」
幼い声だった。それでも、恐ろしく冷たい声。
「死せば、戦死とする。信念と、領民のために殉じたと。さすれば、麾下の兵どもと領民には、害は及ぼさぬ」
後ろに気配。これも、騎馬。巨躯。大斧を担いでいた。それで、体も震えはじめた。
「どうか、お慈悲を。どうか我が身を、安んじたもう」
「卿の生命に、如何ほどの価値がある。麦の何粒ほどか?畑のいくつ分になる?あるいは城か、交路か?申してみよ」
淡々と告げられた。血も涙もない。およそ年頃の娘御からは、発せられることはないであろう言葉。
「今一度、言う。自裁せよ。さもなくば、白旗ごと焼くぞ。賊ばらの降伏なぞ、何ひとつ信用できぬ。騎士として死ぬか、賊として死ぬか。与えられる慈悲は、それだけだ」
汗が、土の上に落ちた。短剣に、恐る恐る手を伸ばした。
叫んだ。体が、動いていた。小娘。殺してやる。殺して、ここから。
俺は、ここから。
「賊ばらか」
血だまりの中、聞こえたのは、そこまでだった。
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2.
麾下の兵は、解散させた。
戦い続けていた。領土を守るため、そして、領土を栄えさせるため。
領土は、平原に隣接していた。常日頃、脅かされ、あるいは交易を通して、協力しあった。弓の技術も、彼らとの交流の中で、磨いたものだった。
領主からは、疎まれていた。
あれの父親とは、信頼関係があった。腹心として見てもらえていた。国との関係も、悪くなかった。交易についても理解を示してもらい、国に収める税も、双方で協議して決めていけた。
領主は、それが面白くないようだった。
交易の利を恣にしたがった。国に対し、反発的になり、遂には歯向かうようになった。
何度も諭した。無益な戦いになる。領民に負担を強いる。聞き入れては貰えなかった。お前は唯の駒だと言われ、戦うことを強いられた。あるいは近隣の領土や、平原の民への侵攻も強要された。
必死に説き伏せたが、やはり無駄だった。
戦う以上は、領民を守り、兵を守らなければならない。理解を得るところからのはじまりだった。兵や領民と何度も話し合い、どうにか説き伏せ、できる限り最低限の兵数と行動で戦っていった。
そして、音に聞いた姫君の騎士たちとの戦い。
長く、熾烈な戦いだった。普通にぶつかれば、犠牲は避けられない。兵站線を守り、交易路を守り、平原の民も慰撫しながらの戦い。
ぎりぎりの、戦いだった。そして、無為な戦いだった。
そうして戦っているうちに、領主は逃げ出した。
民も、兵も混乱した。平原も不穏な状態になった。何とか取りまとめ、降伏を決意した。領土と領民を安んじるよう、死にに行った。生命ひとつで、許しをもらおうと思った。
あの姫君は、誰も罰しなかった。
領土は王領となった。平原との交易の利は、国のものになった。
国は能く政を成したので、領民は喜んだ。交易の利が分配され、民も土地も、豊かになった。領主が溜め込んでいたものもまた、分配された。
ハンズリークはずっと、屋敷にこもり続けていた。罰せられることもなく、責められることもなかった。むしろ護国の将として、称えられた。
それでも心は、晴れなかった。
自分は、何のために戦ってきたのだろうか。そればかりを、自問し続けていた。
妻が、誰かが訪いに来たと伝えてきた。居間に行くと、幼い娘が待っていた。
「やあ。卿に、会いに来たのだ」
素朴な、愛らしさのある顔だった。
「あいつの屋敷から、良さそうな白を見つけたのでな。どうせなら、卿もどうかと思ってな」
「お気持ちだけ頂戴いたします。私はもはや、死人です」
「生きておろうが。なに、世間話だよ。妾も、家臣どもの小言を聞くのにも、些か飽いたのでな。妾の愚痴を聞くぐらいなら、構わんだろう」
王女殿下、マリシュカ。齢、十の半ばを越えたぐらいだと聞いた。本当に、子どもそのものだった。
妻が、とりあえずのものを用意してくれた。それでも、その小さな娘は、笑顔でそれを頬張ってくれた。幼い顔で笑いながら、妻に礼を言っていた。
王陛下の末子。庶子と聞いていた。女ながら、十ぐらいの頃から、戦場に出はじめた。
この国は王の権威が低く、事ある毎に、どこかが蜂起、叛乱する状況だった。それをこの幼い娘は、少ない兵力で、次々と平定していった。天賦の戦術家であり、謀略家。あるいは、そういう家臣を従えているのだろう。そうやって、行く先々で人心を獲得し、権威を高めていった。
戦場の姫君。王女殿下、マリシュカ。
何が、この少女を戦場に駆り立てるのかは、わからなかった。
「こことの戦いも、ようやく終わった。やはり、卿は凄いなあ。何度も打ち負かされたものだ」
「殿下は、年若くとも才気煥発。本気でかからねば、不作法にあたります」
「本気も本気で当たられたものだよ。あの、何とかという領主自体は、わけもなかったが、卿だけはとびきりだった。たった百。それがどこから来るか、何をしでかしてくるか、毎度毎度、大いに悩ませてもらったものだ」
「すべては、兵と領民に負担を強いることのないようにするための、小手先の策にございます」
本心だった。
姫君の騎士たち。そう呼ばれたものは、士気が高く、統率がよく取れた、精鋭中の精鋭だった。正面からぶつかれば、全滅は免れない。
だから、使えるだけの策を使った。伏兵、夜襲、陽動。あるいは、平原の民も使った。そうやって撃退したとしても、やはり被害は少なくなかった。
「昨年の冬だよ。覚えておるか?あの時の卿は凄まじかった。追い詰めたと思ったら、いつの間にか、卿は妾たちを後ろから追い立てていた。あれはこわかった」
「おそれいります」
「あの時な。卿は、この妾に恥をかかせたのだぞ」
恥。そう言って、マリシュカは顔を赤らめた。
「逃げながら、卿に矢を射掛けられた。本当にこわくて。泣くほどこわくって。妾は、その、漏らしてしまったのだ」
真っ赤な顔で、俯きつつ、それでもこちらを見てきた。本当に可愛らしい、子どもの顔だった。
思わず、顔が綻んでいた。
「これはこれは。大変に失礼をいたしました」
「内緒だからな。まだ、誰にも言っていないのだ」
「御意にございます」
子どもだった。可愛らしい、女の子だった。
腹を割って、話に来たのだ。おそらくは、ハンズリークを配下にしたいと思って、説得しに来たのだろう。家臣のひとりも伴わず、単身、かつての敵将の屋敷に訪いに来たのだ。
やはり、人の上に立つ何かを、持っている。
「卿ひとりのために、妾は三年も費やした。乙女の三年だぞ?ひどい色男もいたものだよ。それだけ、妾は卿に惚れたのだ。卿を何とか手籠めにしたくて、鉄牛にも、蛇にも、頼みに頼み込んで、諦めなかったからこそ、ここまで来れた」
それでも、心は動かなかった。
「奸計を、以てしてでもですか」
その言葉に、その愛らしい顔は歪んだ。
いつからか、不自然さを感じていた。マリシュカを撃退しても、領主は行賞を出さず、むしろ詰るようなことばかりを言ってきた。被害が多い。金がかかりすぎている。
そしてそのうち、物も金も、出さなくなった。ありあわせのものだけで、戦わざるをえなくなった。
兵からは、不満が溢れた。それを抑えるだけでも、ひとつの戦になるほどだった。
謀略を掛けられている。領主の、不安と不信を煽っているものがいる。
手のものに探りを入れさせたところ、ふたりほど、潜り込んでいたのを見つけた。マリシュカの手のものだった。
ただ、見つけたのが遅すぎた。ひと月もしないうちに、領主は逃げ出していた。
領主は生きている。かつての館の前に、鎖に繋がれた乞食となって。その前を通る人々に、石を投げつけられながら。
「妾は、卿を傷つけたのだろうか?」
「いいえ。私は心より、殿下を敬服しております。殿下は必要なことを成された。離間もまた、ひとつの策。戦わずに勝つために、執るべき策のひとつです。私は、殿下の成されたことは、最善にして最良の手だと思っております」
「ならば、意地悪を申すな」
「武人として、そして人として、責を負うと決めただけです。ですから、私はもう、死人なのです」
しゅんとしたままの、小さな娘。それに、何かを重ねそうになった。
「どうか、お引き取り願います。そしてどうか、この地と民を、永く安んじいただくことを、お願いいたします」
それだけ言って、背を向けた。
しばらくして、マリシュカは何も言わず、去っていった。
「よろしいのですか?あなた」
妻が、心配そうに寄ってきた。
「いいんだ」
目も合わせなかった。やはり、重ねそうになったから、そうしてしまった。
「あれらの弔いが、済んでいない」
息子ふたり。戦いの中で、喪っていた。
3.
伴をしてほしいと、蛇殿から頼まれた。
あまり好んでいない男である。王女殿下、マリシュカの、第一の側近。そして、宦官。蛇こと、ビストロン。聡明だが、何より冷淡である。酷薄でないだけまし、という程度で、恬淡としているが、人付き合いもよくない。
鉄牛こと、弟のヘルベルト・ドランスキーなども、大いに毛嫌いしていた。そのヘルベルトも、伴うように言われていた。
ヨーゼフは、領主ドランスキー家の長子だが、庶子だった。商家の奉公人として育った。算術が得意で、税制などの法律も勉強させてもらえた。
二十を越える辺りで、大男がひとり、訪ねてきた。ヘルベルトという、ドランスキー家の嫡男で、粗暴なうつけ者として通っていた。
家臣として、それも側近として迎え入れたい。弟はそう言った。自分はこの通り、体の大きさと力しか取り柄がないので、兄者の方が、領主としては適任だろうと。
突然のことで驚いたが、何よりも快活さと、その度量の深さに惚れ込んだ。育った商家の方にも、あらかじめ話は通していたらしく、心残りなく、応えることができた。
そうして、父が没し、ヘルベルトを領主とし、ヨーゼフがそれを支えるというかたちで、領土を養ってきた。
領土経営では、商家で学んできたことがそのまま、役に立った。あるいは、他の家臣の協力と信頼も、すぐに得られたので、衝突なく運営できた。
王女殿下が、隣領の反発に対し、鎮撫の軍を出す。
当時、十かそこらのころである。王陛下も、随分と馬鹿なことを言うものだと驚いたが、ヘルベルトは更に上を行った。ドランスキー家とその領民、王女殿下にお仕え致す。そうぶちあげて、数騎だけを伴って、飛んで行ったのだ。大慌てで軍勢を組み上げて、後を追った。
到着する頃には、隣領の領主は、焼けた柱に括りつけられていた。
素朴で、垢抜けない女の子。ぶかぶかの甲冑を着込んで、馬の上で揺れながら、とびきりの笑顔で領民に手を振っていた。その隣で、巨躯のヘルベルトも、ごうと笑っていた。
破天荒な弟が、滅茶苦茶な主君に仕える。どうしたものかと思った反面、これからずっと、楽しいだろうなとも、思った。
そうやって、各地の叛乱などを平定していった。姫君の騎士たち。その最初の面々が、蛇のビストロン、鉄牛のヘルベルト・ドランスキー、そして羊のヨーゼフ・ドランスキーであった。
宿敵たる白箭卿を有する、この辺境の地をようやく平定した今、ヨーゼフはこの地の経営に追われていた。交易の地である。以前の領主は、それをひとりで抱え込んで、民には貧しい暮らしを強いていた。だからそれを、食い物や衣服、あるいは住むところとして変換し、提供していく。歪んでしまった市場経済を立て直し、商人たちと、領民に、富が行き渡るようにする。
平原の、異郷の民に関する理解も必要だった。平原で食べるものが無くなると、彼らは襲いかかってくる。だから、そうなる前に相談するなり、別のかたちで提供できるようなしくみをつくるべきだと、考えていたりした。
正直、一日たりとも無駄にしたくないのに、蛇殿の我儘のお付き合いなど、御免被りたかった。
「姫さまが、泣いておられた」
道中、理由を尋ねたところ、ビストロンは答えた。
「白箭卿に、ふられたとのことだ」
「それで蛇殿は、如何なさるおつもりか?」
「生命ひとつ、捨てに行く」
淡々と答えたそれに、唖然とした。話についていけない。
「謀略を以て領主を追いたて、この地を平定した。それが気に障っているのだろう。ならば姫さまではなく、それを提案した私に、責任がある」
「だからって、蛇殿が死ななくたって」
「それぐらいの覚悟で望む、ということだ。私も自裁などははじめてだから、しくじるやもしれん。鉄牛殿ならば、喜んで殺してくれよう。羊殿には、後始末を任せたい」
「なるほどな。その覚悟だけ汲んだ。苦しまずに殺す、というところまでは保証しきれんが、付き合おうじゃないか」
ヘルベルトが呵々大笑した。性質そのものは正反対だが、お互い、恬淡としているところだけ、通じているのだろう。
「そこまでして、あのおっさんが欲しいものかねえ」
「兄者は戦場に出ないのでわからんだろうが、あれは相当だぞ。馬上での弓もそうだが、指揮官としても飛び抜けておるし、何より頭が冴えてる。此度も、蛇殿が邪魔立てしなければ、未だこの地は平定できなかっただろうさ」
「資源も人員も、余裕が無くなってきたところだった。それは羊殿が一番ご存知のはずだ。武人の矜持とかいう、下らんもののために、他の人間が食うめしや、人の生命そのものを、これ以上は無駄にできないところまで来ていた」
この通り、お互い、嫌味の言い合いである。殴り合いにならないだけ、ましなのだろうが、間に挟まれるこちらとしては、身の細る思いばかりであった。
「姫さまが欲しいと仰るのだ。それは、叶えねばならん」
その言葉だけ、ビストロンは強く言った。
痩躯の美形。典雅な声。だが冷たい。沼に潜む蛇のような男。
噂でしかないが、王族の数奇者のところに売り込むためだけに、両親により去勢され、男娼として過ごしたという。その数奇者が死んだ後、マリシュカが拾って、世話役になったとかいう話だ。
この奇妙な男にあるのは、幼い姫君、それだけなのかもしれない。それが生命を賭してまで、迎え入れたい男。
白箭卿、ハンズリーク。精強。ただその一言で、その強さを表すことができた。
快進撃を続けてきたマリシュカに、はじめて土を着けた相手である。辺境の領主に仕える、歴戦の勇士。そして兵法の熟達者。あるいは権謀術数を巧みにこなす、謀略家。
四百のうち、ハンズリークの麾下の百。これだけが、絶対に倒せなかった。伏兵や陽動は当たり前。夜襲。暗殺。兵站線の破壊。離間に偽装。自身の死すら模してみせた。どこから来るかわからない。いつの間にか赤い旗が、あの人馬の紋章が、後ろにいる。板金鎧すら貫く、平原の短弓。一瞬で、二つ、三つの矢が飛んでくる。
ヨーゼフ自体は後方支援なので、戦場には出ない。それでも恐怖を覚えるほどの戦巧者だった。相対する度に、散々に打ち負かされた。あるいはマリシュカすらも、生命を取られる寸前まで追い詰められたこともあった。その度にあの姫さまは、ぼろぼろと泣いて、次こそは、次こそはと、こぼしていた。
武力では対抗できないと、ビストロンが都度都度、説得し、ようやくマリシュカが首を縦に振った。ヘルベルトなどは不満たらたらだったが、結局はうまくいった。
ヨーゼフとしても、確かに資源も人材も、一切の余裕がなかったので、ほっとしていた。何しろ辺境である。行き帰りの行軍だけで、相当量の資源と金がかかる。それに加えて戦闘、そして敗退ともなれば、すべてが無駄になる。死んだものがいれば、その遺族に対して渡すものも、当然必要になる。そのあたりはすべて、ヨーゼフの仕事なのだ。
館では、ハンズリークその人が、迎え入れてくれた。朱夏の半ばを迎えたあたりか。ただ、金色の体毛の殆どが白くなっている。老人と言ってもいい、枯れたものを感じた。あるいは敗残の将ということもあり、生気がなかった。
「先に王女殿下にお伝えした通り、私はもう、死人です。仕える気は、ございません」
「ハンズリーク卿のお気持ち、確かに頂戴いたしました。本日は謝罪のため、罷り越した次第でございます」
促された席で、ビストロンが淡々と述べた。
「謀略を以て白箭卿を討つべしと提言したのは、この私、オリベル・ビストロンであります。王女殿下ではなく、このビストロンに、一切の責任がございます」
そこまで言って、短剣一振り、卓の上に置いた。
「それと、もうひとつ」
その言葉に、おや、と思った。聞いていないことである。
「ご子息さま、おふたりについても」
ビストロンの言葉に、ハンズリークの目が光った。いや、火が灯った、とでも。
「ご存知でしたか」
「この三年の戦のなか、おふたりとも、戦死なされている。武人は戦の習いという言葉で、それを片付けようとするでしょうが、ただひとりの人間としては、そうもいきますまい」
あくまで淡々と告げる言葉に、ヨーゼフの体は震えていた。ヘルベルトも、神妙な面持ちである。
お互い、血を流しすぎていた。怒りと恨み、憎しみも、積りすぎていた。戦場では、誰のせいでもないものを、誰かに押し付け合っていた。
あるいは今、かつての居城の前で鎖に繋がれている、あの憐れな男に、すべてを押し付けてもいいだろうが、それですべてが解決するわけでもなかった。
三年。失われたものは、戻ってはこない。
「汚された武人の矜持。失われたご子息がたの生涯。この私の生命ひとつでは、とても贖いきれないのは、承知の上です。それでも我が自裁により、卿が、一歩でも先に。今、おられる場所から、先に進めることが叶うのならば。この生命、惜しくはありません」
そこまで、やはり淡々とした口調で述べてから、ビストロンが短剣に手を伸ばした。
「お屋敷を汚すことだけ、お許し願いたい」
そっと目を閉じ、その刃を、首に添えた。
蛇殿、本当に死ぬ気か。
「おやめなされ」
深い声。ハンズリークだった。
「お覚悟、天晴にございます。また、せがれどもへの哀悼のお気持ちについても、感謝を申し上げます」
その顔は、穏やかで、そして寂しげだった。
「そしてビストロン殿をはじめ、お三方が、どれほど王女殿下をお慕いしているのかも」
そう言って、ビストロンの後ろに回り込み、その短剣に手を差し伸べた。それで、ビストロンは短剣を静かに下ろした。
「三年。色々なことがありました。でもすべて、過ぎたことです。私は敗け、この地は平定され、民の暮らしは安定しはじめました。我々が統治していた頃より、民たちはずっといい顔をしている。素晴らしいことです」
朴訥とした口調。言われて、嬉しさと、悲しさがあった。
「曲げて、ご寛恕を賜りたい」
しばらくして。ヘルベルトだった。
「このヘルベルト・ドランスキー。干戈を交えた同じ武人として、是非ともハンズリーク殿と轡を並べたく願います。どうか。曲げてどうか。王女殿下のもとへ来ては下さらんか。どうか、この通りにございます」
体躯通りの大声で、ヘルベルトが頭を下げている。
「鉄牛殿。本日は謝罪のみだぞ」
「いいや、蛇殿。このお方を連れて帰るのだ。蛇殿も申したではないか。姫さまの願いは、叶えねばならんと。ならば俺は、こうするまでだ。これしか、俺はやり方を知らん。どうか、ハンズリーク殿。我らが姫さまのために、姫さまの下に来ては下さらんか。さすればこのヘルベルト・ドランスキー。卿の麾下として、喜んで先陣を切りましょうぞ」
弟が、汗を流しながら請うていた。
ならば兄として、弟を支えねばならない。それが我ら、兄弟の在り方なのだから。
「ヘルベルトが兄、ヨーゼフと申します。愚弟の不作法、まずはお許しください。それでも、その上で。どうか我らと共に、戦ってはくれますまいか。王女殿下と、愚弟の、たっての頼みでございます。どうかこの通り、お願いいたす」
立ち上がり、頭を下げていた。
「鉄牛殿、羊殿。まずは落ち着かれよ」
ビストロン。冷たい声。
「姫さまが、泣いておられたのです」
淡々と。それでも少し、声量は大きかった。
「卿に、責を負わせたと。誰にも責を問わず、誰も罰しなかったのに、卿はひとり、責を負われた。武人として、ひとりの人として、そうしたと。そうさせてしまったことを、姫さまは、泣いて、悔やんでおられました」
「左様でございましたか」
「私からは、何も言いますまい。ただ、この両名、そして姫さまも、本心より、卿を迎えたく思っております」
そうして、ビストロンが起立し、一礼した。
「姫さまの思いを叶えるのが、我が役目にして、我が願いにございます」
その一言だけは、気持ちがこもっていた。
姫君のためだけに、生命を捧げる男の、願い。
「返答は、結構でございます。どうか、ご考慮のみ」
それでは、と告げ、ビストロンが去ろうとした。ふたり、慌てて席を立った。
退室ぎわ、その男の顔を見た。穏やかで、死人のような顔だった。
ただ、目だけは違った。
迷いが、生まれていた。
4.
その日は、雨だった。
あの後も、マリシュカも、その家臣たちも、何度も訪いに来た。妻に頼んで、断っていた。
ひとりだけは、会うことにしていた。
羊のヨーゼフ。後方支援と戦後処理の担当だった。平原と隣する辺境というものに、些か理解が及ばず、とくに平原方面の対応が上手く行っていない。助けて欲しいということであった。こればかりは、領民の生活に直結するものなので、助言をすることにした。
戦場で剣を交えた、鉄牛のヘルベルト・ドランスキーとは異なり、どこにでもいるような背格好の男。柔和で、親切な人となりだった。
領民の慰撫や、壊された設備の再建、水の管理など、実にまめやかに気を配っていた。残っていた役人や、他の、もと家臣たちとも、こまめにやり取りを行い、賊に身をやつしそうになっていた兵たちの説得まで、やってくれていた。
平原の民のうち、長老の何人かを、直接会って紹介した。長老たちには、以前の領主がいなくなったこと。以後は自分のかわりに、ヨーゼフや他のものが応対することを説明した。
その後、ヨーゼフは何日か、平原の民の中で暮らした。そうやって、どう暮らしているのか、何が不足しているのかなどを調べて、少なくなったもの、欲しいものの値段を下げたり、場合によっては貸与するなど、そういった提案をして、平原の民たちに歩み寄っていった。
武力による解決は望まない。だからできるだけ、話し合いで決めていこう。お隣さんには、できる限りのお手伝いをしたい。そう言って、信頼を獲得していった。
「見事なものですな、ヨーゼフ・ドランスキー殿」
「いやはや、ハンズリーク殿のご指導なくば、ここまで来れませんでした。これで、平原からの脅威も、幾らかはましになればいいのですが」
「卿が羊と呼ばれるのも、何となく分かるような気がします。羊の血肉、そしてそれを育む草木は、人々の暮らしに、欠かせないものです」
「かの白箭卿にそこまでお褒めいただけるとは、この羊も苦労した甲斐があったというものです」
そう言って、草臥れた顔を綻ばせていた。
東方の領主の長子ではあるが、庶子だったという。商家で育ち、算術や経営、法律を学んでいた。
弟であり嫡子のヘルベルトに請われ、ふたりでひとつ、そうやって歩んできた。弟はあの通りの男だから、マリシュカの初陣に、我先にと加勢した。それだけならいざ知らず、領土を丸ごと献上してまで、マリシュカの臣下になると言い出したので、本当に大変だった。苦労ばかりだと、笑っていた。
「愚弟と姫さまのためですから、楽しく苦労をさせてもらっていますよ。本当に毎日、何が起きるか、分かったもんじゃない。ふたりとも、思いつくまんま、口に出しますからね」
「それはそれは。それを、ヨーゼフ殿と、ビストロン殿で分け合ってらっしゃるのですか」
「そうですね。ただ、蛇殿も大概、無茶な人ですから。結局は、殆ど俺ですよ」
親しみやすかった。何より、領土と領民のことを考えてくれた。それが、頼もしく、嬉しかった。
そうやって、領土はどんどん、穏やかになっていた。かつての動乱が、嘘のようになっていった。すべては羊のヨーゼフの手腕と、王女殿下たるマリシュカの指導力によるものだった。
自分の心も、晴れやかになっていった。もう、戦わなくていい。張り詰めることもなくていい。穏やかに、ひとりの人として、生きていくことができる。
そして、それと決別するために、ひとつだけやっておいた。
かつての領主。矢の一本で、それは終わった。
「お姫さまのお誘いに、お応えしなくてもよろしいのですか?」
その日の、朝食の後だった。妻が、そう聞いてきた。
「どうすべきなのかな。正直、わからんのだ」
「お姫さまと、この国の人々のためになるのなら、お応えするべきかと思います」
「そうだな。お前の言うことは、正しい」
それでも、何かが迷っていた。
「こわいのかもしれない」
言葉に、出してみた。
「せがれどもを喪った。それは、乗り越えた。王女殿下に、それを重ねてしまいそうなことが、こわい」
「それは、いいことだと思います。もう一度、人の親になれるのですよ?こわがらなくても、いいことですわ」
「私は、いい親では、無かったよ。子どもに人を傷つけさせる親が、いい親なわけがない」
出した言葉に、妻は押し黙ってしまった。
それが何よりの、悔悟だった。
戦など、するべきことではない。それを、押し付けた。あるいは、子どもたちから、言い出したのかもしれない。何れにしろ、ハンズリークは、子どもたちを戦場に連れ出した。子に、人を、殺させた。人の業を、子にまで背負わせた。
それは親として、決してやってはいけないことだと思っていた。戦いが終わり、ただの人になってから、ますます悔いるようになっていた。
今までの生涯とは、何だったのか。ただ、業だけを積み重ねてきた。人を害して、抑え込み、騙してきた。すべては領土と領民のため、そして、武人としての矜持のため。
それはすべて、人の道に反することだったのではないのか。
人の道を外れたものが、人らしい生き方を、してもいいのだろうか。人の親を、やってもいいものなのだろうか。
不意に、外に誰かがいる気がした。立ち上がろうとした妻を制し、外に出た。
雨の中。マリシュカは、濡れて、うつむいていた。
「別れを、告げに来た」
声が、震えていた。
屋敷の中に招こうとした。差し出した手を、強く払われた。
目は、合わせてはくれなかった。
「妾たちは、帰らねばならぬ。東で、謀反が起きたようだ。これを鎮めねばならぬ。だから、ここを去る」
「殿下、御自らのご挨拶とは」
「いやだ」
叫んでいた。子どもの、声だった。
「卿といたい。卿と一緒にいたい。妾はいやだ。帰りたくない。卿がうんと言うまで、帰りたくない」
「どうか、お気をお鎮め下さい。私はもう」
「生きておるではないか」
しがみつかれた。小さな体は、戦慄いていた。雨音の中、泣きじゃくり、鼻を啜る音が、聞こえてきた。
「卿は生きている。ならば、共に歩めるではないか。ご子息どのを奪ったことも、謝る。計略を以て誇りを汚したことも、謝る」
言葉が、胸に刺さった。生きているという、言葉が。
「妾は楽しかった。卿を如何様にして打ち負かそうか。そう考えているときが、一番うきうきしていた。そうやって、ようやく卿を打ち負かした今、卿が生きたまま死んでいるのが、つらいのだ。卿には、生きてほしいのだ」
望まれている。生きることを。そして、望まれていた。生きて、戦い続けていたことを。
重ねた業を、受け入れてくれるのか。あるいは、認めてくれるのか。この小さな娘に、それを委ねても、いいのだろうか。
その体に手を回そうとしたとき、それは、顔を上げた。
「妾ね、卿と、一緒にいたいんだ。駄目?」
子どもの顔。駄々をこね、泣きじゃくる、幼い顔。
重なった。重ねてしまった。自分から、重ねに行ったのかもしれない。
抱きしめていた。あの頃の、子どもたちにしたように。
「万事、御意のままに」
驚くほどに、穏やかな声だった。気持ちが、温かかった。
姫さまは、泣いていた。わんわんと、本当に子どもの泣き方、そのものだった。知っている泣き声に、心に色が着いていった。
あの頃の、人だった頃の自分の、心の色。人の親だった頃の、シモン・ハンズリーク。
「嬉しい。嬉しいよお。ハンズリーク、ありがとう。いっぱい、いっぱい一緒にいようね。妾と、いっぱい遊ぼうね」
泣きながら、笑ってくれた。愛しさが、溢れてきた。子どもたちに抱いていたものが。ふたり、雨に濡れながら、それでも温かかった。失ったものを、この小さな娘が、可愛い我が子が、届けに来てくれたのだ。人に戻るための、最後のかけら。人の親に、戻っていもいいという、幸せを。
有難き幸せに、存じ奉ります。姫さま。
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5.
論功行賞。功績第一、ハンズリーク卿。
不満を言うものは、誰ひとりいなかった。新王陛下即位にあたり、フェダーク卿、スキーパラ卿に不穏の動きがあることを見抜き、それを炙り出すための謀略を案じたビストロンでさえ、功績を推挙したほどだった。
それほどまでに、戦場における戦術の数々と、あの五十の精鋭の武勇は、凄まじいものであった。
白箭卿。人馬殿こと、ハンズリーク卿。姫君の騎士たちに加わって、五年になる。
あの頃の、生きながらに死んでいた敗残の将は、もういない。残った金色もすべて白くなった、謙虚で、物腰穏やかな紳士。聡明で、領土経営にも明るく、頼りがいのある知識人。そして戦場では、やはり精強の一言で表し尽くせるほど、鮮烈な武を咲かせる猛将。
そして戦場の姫君、王妹殿下マリシュカの、一番のお気に入り。辺境の降将、シモン・ハンズリーク。
「爺や、爺や」
ひとまずで乗り込んだ城塞。戦後処理はこれからだが、兵に酒と肉を振る舞うぐらいは許していた。そうしたささやかな宴の中、まだ可愛らしさの残る声が響いた。
ヨーゼフがちらと見ると、ふたつの影があった。やはり素朴で垢抜けない、それでもちゃんと年相応の貴婦人になった、我らが姫さま。そしてきっと、実際の歳より老いて見えるであろう、白髪の、それでも背筋のしっかりと伸びた男。
「爺や。いいものを見つけたぞ。いい白だ。一緒に飲もう」
「これはこれは。姫さま。いいものを見つけられましたね。でも、お酒の飲み過ぎは、美容に悪うございますよ」
「少しぐらい、いいではないか。勝利の美酒じゃ。功績第一の卿に、酌でもさせておくれ」
「姫さまのお酌など、畏れ多くございます」
「妾の我儘に付き合うのが、爺やの役目だろう」
「そうでございましたね。では万事、御意のままに」
「それでこそ卿だ。さあ、行こう」
嬉しそうな顔でその手を取り、マリシュカは、ハンズリークとともに、奥の方へ消えていった。
もはや、見慣れた光景になっていた。降将と姫君。爺やと姫さまの、仲睦まじいやりとり。
「仲の良いこった」
呆れたように、漏らしていた。
「まあ、人馬殿だ。仕方あるまい。あのお方のおかげで、俺たちも随分、楽ができるようになったことだ」
「お前にしては、謙虚じゃないか。いつも突っ込みたがるくせに。功績第一も、大人しく譲っちまって」
「俺ももう、大人だぜ、兄者。それに、今回で言えば、順当に行けば、蛇殿が功績第一だろう。王叔殿下に他国まで巻き込んで、びしばしの謀略だ。やりたい放題やりやがって。それを戦場ひとっつで取り返したんだ。武人としては、ありがたい限りだね」
「まあ、言われてみれば、そうだがねえ。おお、蛇殿」
傍らに、ビストロンが腰掛けてきた。
冷たい男とばかり思っていたが、ハンズリークが来てからは、随分と穏やかになったというか、飄々とした面が出てきた。あるいはこちらが、本来の人となりなのかもしれない。
「ご苦労でした。羊殿、鉄牛殿」
「何でぇ、蛇殿。こんなところに来やがって、混ざるところが無いのか?」
「此度も姫さまを、人馬殿に譲ってしまったものでな」
ビストロンがそう言うと、ふたりとも、笑ってしまった。
この奇妙な宦官が、マリシュカの側に控えることは、幾らか少なくなった。代わりに、人とよく交わるようになった。最初こそ驚いたが、話しているうちに、これもただの人間なのだと、あらためて受け入れられるようになった。
この蛇に、毒はなかった。滑らかな鱗の、ただの蛇。
「いやしかし、人馬殿も馴染みましたなあ。蛇殿が死にに行くと言い出した時は、どうしたものかと思ったよ」
「姫さまのためだ。生命も捨てれよう。とはいえ、臆病だからな。鉄牛殿か羊殿がおらねば、死ぬこともままならん」
「なるほど、そうだったか。びびりの蛇殿め。今度そういう時が来たら、躊躇いなくたたっ斬ってやるからよ。また、ちゃんと呼びやがれよ」
ヘルベルトが大笑いした。相変わらずの嫌味の応酬はあるものの、心を許し合っていた。ビストロンも、突拍子のない冗談を言ったりして、驚かせたり、笑わせたりする。
ハンズリークが来た。ただそれだけで、姫君の騎士たちの雰囲気は、よくなった。
もともと、名ばかりで稼ぎのない貧乏騎士だとか、国や諸侯に覚えのめでたくない連中の集まりであり、殆ど捨て駒と変わりないものだった。それを、マリシュカの天賦の軍才、ビストロンの謀略、ヘルベルトの剛腕、そして自分の管理能力で、何とかかたちにしてきただけに過ぎなかった。
ハンズリークは、そのどれをも担える、歴戦の将であり、領民と兵に理解を示せる人格者だった。先陣も、後詰めも、あるいは後方支援だってできる。そしてそれを、人に教え、育て、託すこともできた。あの降将のおかげで、仕事が増え、仕事ができる人が増え、仕事が回るようになった。誰もが頼り、そしてハンズリークもまた、誰に対しても頼った。
精強。ただ一言で表された宿敵。それが今、柱になった。
「しかし、人馬殿も羨ましいなあ。姫さま、独り占めだ」
「蛇に牛に羊ときて、爺やだもんな」
「それぐらい、爺やが欲しかったのだよ。親もきょうだいも、誰も甘やかしてはくれなんだ」
ビストロンが、穏やかに言った。その言葉に、今更ながら、妙に合点がいった。
マリシュカが、幼い頃から戦場に出た理由。それは親が、それしか渡してくれなかったからだろう。
この世に産まれ出たのに、親にもきょうだいにも会えず、ただ宮廷の片隅で、忘れられたように生きていた子ども。そのうちに母親を亡くし、父親からは、戦場へ赴けと、つまりは死んでこいと言われた。傍らにいたのは、同じく用無しとなった宦官がひとり。それでも備わっていた天賦の軍才と、駆けつけたドランスキー兄弟、そしてビストロンの、非道とも取れる謀略の数々で、切り抜けてきた。
あの子どもにとっては、父親から告げられる出陣命令だけが、唯一知っている、親の姿だったのかもしれない。
そして戦場で出会った、かの白箭卿。はじめて敗北を教えられた宿敵。それにきっと、親の俤を見たのだろう。
だから、諦めなかった。泣きながら、望み続けた。奸計を使ってでも、手に入れたかった家族。
ハンズリークも戦場で子を喪い、その俤に苦しんでいた、ひとりの親。
それが戦場で、結びついた。
マリシュカは今、ようやく見つけた親の愛に、楽しい盛りなのだろう。齢二十を迎え、他国や名族から、縁談も来ているが、すべて蹴っているそうだ。それよりも爺やと、我々、姫君の騎士たちといる方が、きっと楽しいのだ。ハンズリークもきっと、喪った子どもたちをマリシュカに重ね、子どもたちにできなかったであろうことを、マリシュカに対して与えている。いつだってふたり、仲良く、そして愛し合っていた。
降将と姫君。爺やと姫さま。そして、父と、娘。
なんともまあ、羨ましい話だこと。そう思いながら、ヨーゼフは杯を傾けた。
(おわり)