彼女と黒猫もどきの日常
うちの高校には年に何度も、無駄に長い距離を走らせるマラソン大会がある。あ、無駄というのは完全なる私見ですのであしからず。
超ど田舎にあるけれど、県有数のお嬢様学校でお馴染み、J女学院にめちゃくそお勉強を頑張りまくって、やっとのことで合格したというのに、まさかこんなにマラソンをさせられる日々が待っていようとは…これは完全に想定外だった。
ぶちぶちと文句な独り言を言いながら、ため息をついてふと見れば、前後にいたはずのたくさんのクラスメイト達はとっくに消えていて、昔、おじいちゃんが観ていた、木枯らし吹きすさぶ西部劇のワンシーンが脳裏にちらつく。ほら、謎植物の塊がコロコロしてくるやつ。
もう、壮大なため息しか出ない…。
「はぁぁぁぁ」
「マラソン…ため息でるよねぇ」
「はぁぁっふっ、あ、えっとえ~っと、あぁ!て、転校生の!?」
「うん。深淵ノゾミです」
お嬢様学校にはお嬢様学校のつながりとやらがあるのかないのかなんなのか、たま~に時期問わずで他県だけでなく他国からだって転校生がひょっこりやって来ることがある。彼女もどこか別のお嬢様学校からやって来たんだろうな。
「こちらこそよろしく。私は一ノ瀬二胡里」
「良いねぇ、スマイルだ」
「うんうん、よく言われる。えっと、私はニコリンとかって呼ばれてる感じです」
「そっかそっか。私もニコリンって呼んでも良い?」
「もちろん!深淵さんは?」
「ノゾミって普通に呼ばれてる。ひねりなしで」
「ひねりなしノゾミ」
「いやそれ枕詞じゃないから」
「枕詞って、古典の授業みたいなことを言う子やな。ノゾミ、いと古し~…なーんちゃって」
あ、ノゾミがこっちをチラ見してる。
ファーストインプレッションでつまらん奴だと思われたかもしれん…。
そんな私の気持ちをよそに、つるりとした綺麗な眉間に皺をうっすらと寄せてノゾミが言った。
「転校初日にマラソン大会という、ついてなさに泣いてたら誰も居なくなっていたっていうダブルパンチで」
「だぶるぱんちって…何?」
「えーっと…要するにマラソン最悪って事…かな、うん」
「そんなマラソン嫌いの同志に残念なお知らせです。ここの高校って信じられないくらいマラソン大会が頻発するからー!マジで地獄だからー!」
「ゆっくり走ったら怒られたりするの?長距離苦手なんだけど」
「私も苦手~。怒られはしないけどさぁ…ゆっくり行こうと思って、ちょっとぼんやりしてたら誰も居なくなってた、ってくらいには、みんな真面目に走る感じなんだよね。ノゾミがいてくれて良かった。ね、ここで会ったのも何かの縁だし、一緒に行かない?」
「おーい、おーい、待って~」
「あれ…マーヤ?」
幼馴染のマーヤがゆっくりと歩いてやって来た。
おぉ、ここにも同志発見!
マラソンやる気ない勢がまたひとり現れたぞ。
「えーっとね、こちらはうちのクラスの転校生で、深淵ノゾミさん」
「転校初日がマラソン大会だった深淵です」
「おぅ、それはついてないマンっすね…。私は破魔矢魔耶。マーヤって呼ばれてるよ。宜しく~」
「マーヤ、宜しく。私はノゾミで」
「はいはい、二人共。自己紹介は歩きながらでお願いしますよー」
「トイレに行ってる間に、みーんないなくなっちゃってさぁ…ニコリンとノゾミがまだ居てくれて良かった」
「そうそう、気が付けば抜け駆けってやつ。ほんと世知辛いったらないわ」
「それはマラソンあるあるだな」
「「なにそれ」」
§
「うそ…でしょ…」
まっすぐな長い階段を目の前に、まっすぐで艶やかな黒髪を、低い位置できっちりと一本に結んだノゾミが横で呟いた。
髪が綺麗だと、必死に頑張るけど頑張りを見せないニュアンスヘアアレンジとか、まったくもって不要だ説を容赦なく見せつけてくる。要するに、ただただ羨ましいだけです、はい。
私は自分のうねり放題の髪を指にくるりと巻き付けながら、ノゾミのげっそりした声に答えた。
「これがマジなんよ」
「何段あるの?」
「1000段だったっけ?」
「うんうん。そして丑三つ時は999段的な」
「それは…どういう意味?丑三つ時になると、参拝者に微妙に優しくなる神社って事?」
「え?ノゾミってもしや天然?おどろおどろしい雰囲気ってのはもっと大事にしないとさぁ、ステキな大人になれな…って…あれ?」
§
「…ノセ…おい、一ノ瀬?ぼけっと突っ立ってどうした?」
さっきまで喋っていたマーヤとノゾミは、いつの間にやら私の横からいなくなっていて、クラス担任のマチコ先生が目の前に仁王立ちしていた。
「へ?あ、階段を見てただけです…って、マチコ先生が今日の階段担当なの?お願い見逃しt「はい、見逃しませーん!」」
「…ですよね」
チャーンス!とばかりにダメモトでマチコ先生に階段お目こぼしを直談判するも、一縷の望みむなしく見事に瞬殺される。
いやまぁ、わかってたけどね。一応試して損はないというかさ…。
「ほれ、ぶうぶう文句をたれたって階段は消えないぞ。早く行った行った」
階段をため息混じりに見上げたら、マーヤとノゾミ、二人は…とっとと上り始めてる!
これが…これが…マラソンの抜け駆けあるあるなのかっ!
ここまで不思議と他の生徒に出会わなかったマラソン道中、神社へと向かうその長い階段には、脇にだらしなく座り込むJ女学院ご指定、えんじ色ジャージがちらほらと見えていた。
私はまだ階段を一段も上っていないのに、既にしゃがみたくなってくる。ほら、数段上がっただけで息が…ひぃぃ…。
「ちょっと!置いていくなんてひどいよ!こういう苦行こそ共に…」
「ごめんごめん。そこに階段があったから、つい」
途中で階段後方の私の姿に気づいた二人が、立ち止まって待っていてくれる。マラソンあるあるは無事回避の模様。
「そこに山があったから、みたいに言うなーっ!ってか、ここさぁ…いつも先生が絶妙な位置にいるから、全然サボれないの。これってちょっと酷くない?」
「しかも学校からの中間地点がここだと、ショートカットもできない仕組みだな」
「そうそう。ちなみにこの階段の半分でこっそり折り返しても、何故か絶対にバレます」
「おぉ、さすがプロ」
「小娘の企みなんて全部お見通しなんよね」
「所詮は釈迦の手のひらで踊るようなものか」
「しゃかのてのひら…?」
「…何でもない」
「ねぇねぇ、ニコリンとノゾミはさ、さっきからず~っと喋ってるけど、体力温存しなくて大丈夫?ここまだ100段目あたりなんだけど…」
§
「つっかれたー!ガッツリそこのベンチで休憩していこうね」
「ぜぇ、ぜぇ…そりゃ休憩するに決まってるでしょ。やっと上ったんだから暫くは絶対動かないんだもんね、ぜぇ」
周囲を見回すと、階段を登った先の神社の敷地にはえんじ色|は皆無。いつもはもっといるのになぁ。私達三人以外の姿がないというのはなんとも珍しい…ぜぇ、ぜぇ…
「ねぇ、ずいぶんと息切れが酷いけど…ニコリン、大丈夫なの?」
「ぜぇ、ぜぇ…う、うん。いや…やっぱやばいかも。私、マジで最近、運動不足なんだよね。ぜぇ、ちょっとクラクラしてきたし…ぜぇ、ぜぇ」
「あっ!ニコリン、あれ、アサギギギマダラじゃない?」
「え、え?どこ?」
クラクラ撤回!私はすくりと立ち上がり、マーヤが指差す方向に抜き足差し足しで歩き出す。
あまり大きな声で宣伝してまわってはいないけれど、私もマーヤも小さなころから蝶スキスキの民。この時期に、しかも県内でアサギギギマダラですと!?
「ほら、そこの…木の枝のところ!」
「え、どこどこ?マーヤは目が良いなぁ…。見たい~、どこだー?」
「私は…ここだよ」
いつの間にやら私の真後ろに来ていたらしいマーヤが、急にぎゅうと…私の腕を後ろに引っ張った。
えっ!
上を見ながらも振り向こうとした瞬間、体がぐらりと揺れて、視界が大きく開く。
視界が…開く?
思いっきり下方向に、開いた…。
あれ?
マーヤがひっぱった方向には、あの長い長い階段しかなくて。
あれ?
マーヤは確かに今、私の腕を引っ張った。だけど、マーヤは階段になんて居なくて。
あれ?
あれ?
あまりの事に完全に頭が混乱。混乱してる自分を客観的に見てる感覚もあって、それが妙におもしろくなってきた。
そして突如、悟る。
一体全体何が起こっているのかはわからないけれど、そんな事はこの際、どうでも良いのだという事を。
だってこれは…あの長い長い階段から足を踏み外したってやつだから。
そうかぁ…これから死に際に見る走馬灯ってやつが始まるのかもしれない。
ふーん、コンマ一秒でも色々考えられちゃうもんだよね。
そろそろ子供の頃からの思い出映像が、一気に頭の中に流れちゃったりして…はい、メランコリックなオルゴール音楽っぽいやつ、スタート~!
≪uzarakeburerusaw…orokokonerono!≫
あれ?オルゴールの代わりに、ノゾミの囁くような声が聞こえてきた気が…。
それもそのはず、どうやら私は1000段の階段落ちを披露していなかったようだから。
そしてそれは何故ならば、階段の上から落ちそうになった私を逆方向にぐいっと引っ張り上げてくれたおかげ。
もの凄い力で私を掴んでいるノゾミは…え?ノゾミ?
漆黒だったノゾミの目は何故か青く鋭く光っていて、目の前にいるマーヤと対峙していた。
そのマーヤは…ちゃんと階段の上にいたんだ。
いや、正確には階段の上というか、階段の上空で浮いたまま…静止。
えーっと、こんな時になんですがね…ホント、ホントにすみません。私の意識は遠のいちゃうんだなぁ、これが。
§
「ご、ごめんなさい。私、私は…こんなことするつもりはなくて…ただ一目、ニコリンに…あ゛ぁぁぁーん?…お前はだぁぁーれだぁぁぁ゛?」
マーヤが必死に謝っている。が、途中からその声はかき消され、その代わりに、マーヤの声ではない、この世のものとは思えない、不協和音と金属音で作られたような、おぞましい音が声として紡がれて、マーヤの口から発せられていく。
「邪魔すんなあぁよぉぉぉ…そうかぁ…おまぃらぁみっつとも…その魂は喰っていぃのかぁぁ゛ん?」
その姿は先程までは確かにマーヤの形をしていたのに、今はただ、真っ黒な何かがどろりどろりと蠢いている、巨大な影となり果てていた。
やがて、マーヤだったものは、不気味にその形状を歪ませながら、その蠢く影をノゾミと気絶しているニコリンの方へと伸ばしていった。
この、あきらかにこの世に存在すべきものではない何かに冷静に対峙しているのはノゾミ、深淵ノゾミである。
ノゾミはまるで自ら盾となるかの如く、ニコリンを背後に庇い、己は真っ黒な何かの前に進み出た。
「我は穢れを払いし者。人の心を蝕む稀の穢れ…去ね!」
その凛とした声に、真っ黒な何かが一瞬ビクリと静止する。その瞬間を待っていたかのように、ノゾミの手が印契を結び、まるで、その指先から奏でるかのようにその手を口元へ運びながら、呪文を繰り出した。
≪iak ustem naz issme…ukaykuoys!≫
「おまぇ、なんなんだべぇさぁぁぁ゛…」
真っ黒な何かは、ぐちゃりぬちゃりと耳障りな音をたてながら、一瞬にしてノゾミの手の中へと吸収されていった。
§
「マーヤ、ちと苦しいだろうが、その心…元の体に戻してみよう。ううむ…これは、体の方が耐えられるか…」
そんな声を…覚醒し始めた意識の中で聞いた気がする。
ううう。こんなに頭が痛いって事は、どうやら死ななかったらしい。だけど…一体何なの?何が起こっているの?
必死に片目だけでもと薄目を開ける。すると視界のその先ではノゾミが一人…一人で喋っていた。その声はすぐ近くにいるはずなのに、何故か上手く聞き取れなかった。
≪inatagusikeburaehoysabikebura…ereak!≫
ノゾミがまた何かを呟く。呼応するように、ノゾミの手の先で光って見えている丸い小さな玉が、徐々に青い炎に包まれ…それはやがて、勢いよく遠くへと飛んでいった。
これは夢?現実?…わからない。
ただ、私の目の前にはノゾミだけがぽつりと立っていたけれど、声…声が…これはマーヤの声だ!そう思った瞬間に、うっすらと覚醒し始めた意識がまたゆっくりと遠のいて…
「ニコリン…ごめんね…私、ずっと、ずっと寂しくてさ…ニコリンに一目会いたかっただけだったのにね…ニコリンに会ったら…一緒にずっといたいって思っちゃったんだ。ごめん、本当にごめんなさい。バイバイ、二胡里」
ゆらゆらと揺らぐ微かな意識の狭間で聞こえてくるのは、絞り出されるような、そしてまるで泣いているかのような…紛れもないそれはマーヤの声だった。
ごめんって。
バイバイって。
ごめんって何だよ。
バイバイって何だよ。
ごめんって言いたいのは、言いたいのは…
遠のく意識の中、ノゾミが私をベンチに運び、そっと体を横たわらせてくれたのがわかった。
「さてと、私もお暇しよう…さよならだ。一ノ瀬二胡里」
ねぇ、ノゾミ…さよならって…それは、どういう…意…味…?
≪/ietis/#irotirikukoik~edam#…#irotirikukoik~edam#…eteled!≫
§
「…セ、…ろ…」
「ン…リン…!」
「…のせ、しっかり…目を覚ませ!」
「んんん…、あれ…マチコ先生?ナベチもユキも…みんな、どうしたの?」
「一ノ瀬!」
「ニコリーン…よ、良かったぁぁぁ!」
「お前ら、一ノ瀬を動かしちゃダメだ。おいこら、一ノ瀬、起きあがっちゃいかん。今、救急車を呼んでいるからそのままで、頭も体も絶対に動かすなよ、わかったか?」
「え?私、別に大丈夫だけど…あぁぁ…い、痛い。あ、あのマーヤはどこ?あの…ほらあと、えっと…あの子は?」
「…一ノ瀬、本当に大丈夫か?」
「で、でもマーヤが…一緒に走ってたマーヤが…それからあの…」
「一ノ瀬は…一体何の話をしているんだ?今日は珍しく一人で走ってるし、何かおかしいなとは思っていたが…そう言えば、さっき先生の前を通った時だって独り言を…」
「え?マチコ先生何言ってんの?転k…い、痛っ」
転校生の…と言おうとした瞬間、頭が割れそうに痛みだし、思わず開いた口をギュッと閉じる。
でも…そうだよ、あの子はうちのクラスの転校生なんだから、担任のマチコ先生だってもちろん知ってるはず。
だって、転校生なんだから。
…転校生?
朝のホームルーム…転校生…転校生なんて…いたっけ?
名前…あの子は…。
あの子って、一体何のこと…?
‥‥‥。
私は今、一体…誰の事を考えていたんだろう。
「一ノ瀬、頼むからもう喋るな。頭を打って混乱しているのかもしれない。すぐに救急が来る。だからそのままじっとして…」
そうだ、マーヤ!
え?マーヤの事?
マーヤの事はもちろん知ってるよ。
だってマーヤは私の幼馴染だから。
小さい頃からずっと一緒だったし。
でも…中学にあがると同時に病気が見つかって、それからずっと…ずっと入院してて、結局高校受験も出来なくて…それで、それで、私も高校に入ってからは色々と忙しくなって会いに行く機会が減って…。
いや、違う。
これは自分についた嘘だ。
自分だけ楽しくおかしく毎日能天気に生きてるのに。そう、一度考えたらもう駄目だったから。
だから私は…逃げたんだ。
日に日にやせ衰えていくマーヤが、信じられないくらいに管が沢山ついたあの体が、私の姿をあの落ちくぼんだ目だけで追う姿が、ベッド脇にある袋に入った濁った体液が…お見舞いに行くのがだんだんと怖くなった私は…私は…もう、ずっと…。
それなのに今日、マーヤは私とお揃いの高校のジャージを着て、一緒に…そんな、そんな訳が…あるはず…。
私は…何を見ていたの?
目の前が真っ暗になった。
「ニ、ニコリン?…しっかりして!」
「ほら、もうすぐ…」
再度、落ちていく意識の底で、かすかに救急車のサイレンを聞いた気がした――
§
「ノゾミー!俺、来たよ~」
救急車のサイレンの音が遠くなり、幾度となくその音を変調させた頃、神社の階段脇から、がさごそと現れたのは一匹の黒猫もどき。
「ん…トキオか、随分と早かったな」
「臭いからして雑魚っぽかったから、早く終わるかな~って思ってさ。すぐに来てみたんだ」
「そうか」
「うわっ、まだ凄い悪臭がする!クサイクサーイ!こういうさ、弱ってる人間につけ入る奴の臭い、俺、きらーい」
「だからもっとゆっくりして来いと言ったのに。でもな、嫌いでも雑魚でも、立派な飯のタネだぞ」
この世界には、この世界で生を受けた者と、この世界の外で生を受けた“稀”と呼ばれる者が混在している。
稀と呼ばれる者達は、一見ではこの世の住人と区別がつかない。ただ、一風変わった発明をしてみたり、芸術方面で異彩を放つ人物が稀である場合が多いのだが、それはまた別の物語。ここでは語るまい。
ただ、そんな稀の中に、この世界の住人の弱った心や負の感情をひたすらに好み、さらには害をももたらそうとする悪しき存在が、時に混じり入る事がある。
それらは“穢れ”と呼ばれ、その“稀の穢れ”を祓う者達が…
「ね、もういいの?」
「あぁ、頼む」
稀の穢れが消滅する時にこの世に落としていく、通称“サンド”。そのサンドがびっしりとついた両手を彼女は黒猫もどきに差し出した。
黒猫もどきの赤い舌をくすぐったそうにしながらも、その手に受け入れている彼女は、深淵家、三代目当主、深淵ノゾミ。
彼女こそが、世にはびこる稀の穢れを祓う者である。
§
彼女の手のひらについているサンドを、黒猫もどきがペロペロと舐めとっては、せっせと小さな石へと変化させていく。
深淵家に生を受けた者で、当主にふさわしいとされる者の傍には、いつの間にやらこのトキオと呼ばれる猫…のような、黒猫もどきがあらわれるらしい。
黒猫もどきは、サンドを取り出す事のできる特異な手を持つ人間を、自らで主人を定める習性を持っていた。
そんな黒猫もどきからペッペッと次々に吐き出されたそれは、近年の言葉ではサンドキャンディと呼ばれている何の変哲もない小さな石。
このサンドキャンディ、ダークウェブや難解なパスワードを要求される、妙に入口が分かりにくく、そして何やらいかがわしい個人サイトで、もしかしたら見かけた事がある人もいるかもしれない。
ただ、ネット上の雑多な情報に巧妙に隠された、この石の購入にまで漕ぎつけられる人はそう多くはないだろう。いつも結局、これを手に入れるのは、この世界にいるごく一部の…サンドキャンディの本当の価値を知っている人だけなのだから。
サンドキャンディはこの令和の御代にも高額取引されている、知る人ぞ知る貴重石であり、それが彼女と黒猫の生活の糧となっているのだった。
彼女が生業とするこの祓い屋家業だが、これは決して慈善事業などではない。
口伝によると大昔には同じような穢れ祓いを生業とした一族がたくさんあったという。けれど、その多くは時代と共に消滅していった。
何故かと言えば、彼らはサンドを取り出す術がなく、無料の奉仕活動として、ただただ稀の穢れを祓っていたからだったという。
結果、黒猫もどきを従える深淵家と、深淵家とは少し異なるけれど、また別の特別な能力を持つ一族がほんの僅か、今もひっそりと生き残り、稀の穢れを祓い続けている。そうして、この世界の人々の生活を、日々、あくまでも陰から密やかに守っているのだった。
「なぁトキオ、今回は工作要らずで人手もゼロ。それでこれだけのサンドキャンディだ。二人で一年はだらだら暮らせるぞ」
「そんな事したこともないくせによく言うよ」
「まあな。この業界は慢性的な人手不足ってやつだから仕方あるまい」
「マンセイテキ?…難しい言葉はすぐに忘れちゃうんだけど」
「いっつも、って事。まぁ、稼ぐだけ稼いで老後の資金にでもするさ」
「老後ねぇ…」
§
さて、そこに価値を見出す人達にとっては、一粒で千金とも言われるサンドキャンディ。一体何に使う物かおわかりだろうか。
ヒントはそう…いつの時代にも不老不死を望む人間は後を絶たないという事。
そして、その当主の座が空席となった時期はただの一度たりともないというのに、平安の時代から続く深淵家の当主は、現在で未だ三代目だという事。
「ぺっこぺこー♪ぺっこぺこー♪お腹がぺっこぺこー♪」
「なんだ、もう腹が減ったか?」
「うん!今日はこーんなに沢山作ったからさ。夜ご飯はご馳走にしてくれる?俺、肉が良いな。牛肉…ヒレステーキとビール…いや、やっぱり赤身のまぐろの漬けで日本酒…」
夕ご飯をああでもないこうでもないとリクエストしては、無邪気に喜ぶ黒猫もどきが作り出したサンドキャンディを、無造作にえんじ色のジャージのポケットにつっこむと、彼女はぽつりと言った。
「もう…長くはないのだろうな」
「自分が病魔に侵されてるってのにね。あんなのと取引してさ。バカタレが…自業自得だよ」
「こらっ、口が悪いぞ。稀の穢れは祓ったし、彼女の体に心を戻せはしたが、戻ったとて対価を払った事には変わらん。死ぬ間際まで…苦しむ事になるだろう」
「それでも、この世界に魂だけが彷徨い続けるココロダケにならないだけましだけどね」
「そうだな」
「今までだってずっとずっと病気で苦しんできたんだろうに…バカタレだよ」
そう言いながら、しょんぼりと首を垂れる黒猫もどきの背中を彼女はそっと撫でた。
「そうなの…かもな」
背中をたっぷりと撫でられて少し気分が良くなったのか、再び機嫌よく、夕ご飯の献立案を口にし始めた黒猫もどきが急に「わぁ」と叫ぶ。
「ど、どうした、トキオ?」
「俺、すっかり報告するのを忘れてた!」
「あぁ、あまり驚かすなよ」
「えへへ。えーっと、言われた通りに、一ノ瀬二胡里の搬送先は、ちゃーんと破魔矢魔耶が入院してる、雨ノ崎総合病院にしておいた。ここいらにおっきな病院は一軒しかないし、事象の歪みには該当しないと思う」
「ありがとう」
「偶然に出会う為のお札ってやつ?あれもちゃーんと貼ってきたからね。あの規模の施設でなら、どこも歪まないと思うけど…」
「うん。明日にでも念の為、確認に行くとしよう。箒禊家は例の東京の後始末で忙しいだろう?些事で頼りたくはないからな」
「ふんだ。あいつ…あの掃除屋は最近さ、なんだか変な臭いのする女に色目なんか使っちゃって…それで忙しいだけじゃないの?」
息荒くイカ耳になる黒猫もどきを諫めつつ、彼女はその小さな体躯をひょいと抱え上げた。
「まぁまぁ、奴には奴の仕事がある。奴の仕事は私らの後始末だけじゃないのさ。あんまり嫌ってやるな」
「ふがー、ふがー」
「なぁ…トキオ。私は、要らぬおせっかいをしたかな。一ノ瀬二胡里の気持ちを何も聞かぬまま、最期に…一目会ってやってほしいと願ってしまった」
「そんなの俺にはわかんないよ。でもさ、そういう…“おせっかい”っていうの?たま~に人間から出てくる匂い、俺、嫌いじゃない。生霊になんてなっちゃったバカタレにまで優しくするほうが、全然わかんない」
「生霊になるほどの強い想いってのは…まぁ、色々とあるものなのさ。あまりバカバカ言ってやるな」
「ふぅん。“まぁ、ノゾミはオヒトヨシだから仕方ないよね~”」
「そんな言葉、どこで仕入れてきたんだ?」
「…って、掃除屋が言ってた」
「お前たちは仲が良いな」
「な、仲良くなんてしてないっ!」
「あはは、お前らは何百年も変わらんなぁ。さてと…そろそろ帰るとするか。雑魚は雑魚だったが、今日は妙に疲れてしまったからな」
「どうしてさ。あんな奴、余裕だったでしょ?」
「いやー、なんせなぁ、女子高生っぽくお喋りするというのが今回の一番の難関だった。階段が丑三つ時に減るなんて、まったくもって意味がわからん。トキオはわかるか?」
「う、丑三つ時に階段が減るのか!?俺、見てみたい!」
「いや、そういう訳じゃないらしいが…。まぁ、そんなこんなで彼女達が違和感を感じ始めたら、せっかく張った拒人対策が破綻するから、終始緊張を強いられたわ」
「大丈夫大丈夫。破綻の“ハ”の字も匂わなかったもん。それにもう一ノ瀬二胡里の記憶には、ノゾミの存在はちょっとだって残ってないんだ!」
黒猫もどきが自分の手柄のように胸を張った。
「…そうだな。私らは誰にも知られない存在だから」
「そう!ノゾミは強い術がいっぱい使えるんだ!とっても凄いんだぞ!」
「そうか…ふふ、そうだな」
「ね、ね、そう言えばさ。女子高生姿って制服じゃなくって、ちょっと残念だったと思わない?」
「今度は何を言い出すつもりだ、トキオ…」
「そりゃあ、そのエンジのジャージもなかなかだけど」
「ジャージ…」
「“J女学院の制服、きっとノゾミに似合うだろうなぁ”って…掃除屋が言ってた」
「…今日の夕飯は焼き鯖だ」
「にゃ、さ、鯖は嫌い!」
「知ってる」
彼女の腕にスリスリと鼻を擦り付けている黒猫もどき。傍から見れば楽しそうにじゃれているようにしか見えない彼女と黒猫もどき。
彼らはいわゆる普通の人々には知られることのない存在だ。
だが、どうだろう。
ふと気がついたら、ずいぶんと時間が過ぎていた、などという事が、これまでの人生に一度くらいはあったりしないだろうか。
例えば、気を失うような大袈裟な事でなくとも、電車でウトウトしてしまい、気付けばうっかり終点まできていたり、何度も観るような大好きな映画が、いつの間にかエンドロールになっていたり、こたつでごろごろしていて、はっと気付けば二時間三時間が経過していたり。
そんなちょっとした空白の時間を、日常で経験した事があったとしたら、それはもしかしたら…