対妖09
「簡易的な封術は、対妖にとって基本中の基本ですよー」
四限目。教壇に立つ緑先生が、黒板になにやら難しい説明を書いている。昼休み前の最後の授業中。この授業さえ終われば、一息つけるので気が楽だ。しかし、それは今日には当てはまらない。なぜならば今朝の会話から気まずくなってしまい、前の席にいる枕子に一言も話しかけていないからだ。彼女も振りかえりもしない。いつもなら授業の合間に笑顔で話しかけてくれるのだが。なんなら授業中だって振り向いて話しかけてくる場合もある。普段は煩わしく思う時もあったが、今日は話しかけて欲しくてたまらない。それなのに、あいから話しかける勇気は出なかった。枕子の背から話しかけるなオーラが漂っているからだ。
──四限目が終わったら話しかけようかな。もしかしたら枕子も話しかけて欲しいのかもしれない。どうしよう……。
悩んでいるうちに授業の終わりを告げるチャイムがなってしまった。
「お昼休みが終わったら実技ですー。二班のみなさんは校外学習ですねー」
あいは校外学習を受けた経験がない。確か学園の外に出て、妖との実戦経験をつむ授業だったはずだ。成績の良い班が受けられる特別な授業だった。成績のふるわない四班には関係のない授業かもしれない。
「ちなみに今日の実技は式神ではなく、先生が相手です」
生徒たちに戦慄が走った。
「もちろん、先生はできるかぎり手を出しませんが、みなさん、怪我をしないように気をつけましょうねー」
そう言い残し、緑先生は教室から去っていった。生徒たちは深刻な表情で、殺されないようにがんばろう、などと励ましあっている。あいはその様子を心ここにあらずという状態で眺めていた。
なんだか眠くなってきたなー、とあくびをこらえた直後、あいは視線を感じ、前を見る。すると枕子がこちらを向いていた。
「今日の緑先生、ちょっと元気なかったね。なにかあったのかな」
不意をつかれたせいで、あいは固まってしまった。枕子はあいを見つめ、微笑む。
「あいも元気ないね」
「そ、そんなことないけど。緑先生も元気なかった? 気がつかなかったよ」
むしろ枕子のことで頭がいっぱいだったので先生の様子にまで気が回らなかった。授業内容もほとんど覚えていない。封術がどうのと言っていたような気がする。
「今日もお弁当食べてくれる?」
「うん、食べさせて!」
「いいよ」
微笑む枕子に、あいは安心した。彼女の機嫌が回復して本当によかった。
「はい、あーんして」
「あーん」
木陰にある、いつもと同じベンチで、あいと枕子は仲良く座っている。いつもと違うのは、枕子が箸で次々と食べ物を口へと運んでくれていることだった。
「美味しい?」
「もちろん、美味しいよ。美味しいけど……」
「けど?」
あいの言葉を促すように、枕子は片眉を上げた。
「ここって、先生も生徒も歩いてく道の前にあるんだよ」
「だから?」
「あーんは恥ずかしいよ……」
「あいが『食べさせて!』って言ったんだもん」
「ち、違う。そういう意味じゃないよ」
「まあいいから。あーん」
「あーん」
「美味しい?」
「うまうまー」
「うまうまーは、はしたないよ。美味しいって言いましょう」
「美味しい」
「えへへ、そうでしょ」
あいが食べて枕子が喜ぶ。二人の日常風景だ。転入してきて三年間、当たり前になった日常こそが、あいにとって大事になっていたと今気づく。だからこそ、枕子には生きていて欲しい。たとえ、彼女の望まない生き方でも。
「枕子、午後の授業は、ま──」
真面目に受けようよ。と言いかけたが、それを察したかのように枕子の笑顔が真顔に変化した。
「ま、真面目に怖いよね。緑先生が相手の実技って」
無理やり内容を変えたあいの言葉に、枕子は笑顔をとりもどした。
「本当に怖いよね。緑先生の術は、完全に誰かを殺すために特化してるところあるもん」
緑先生が相手の実技は運が悪いと大怪我をする。基本的に反撃してこない先生を攻撃し続けるだけの訓練で、ストレス解消にもなる。しかし『できるかぎり手を出さない』と本人が言っていたとおり、たまに手が出る。つまり殴られる。子供のように小さい体をしているが、彼女が拳でコンクリートの塊を破壊しているのを見たことがある。同じように破壊できる人間は、この学園に何人もいる。あいが心から緑先生を恐ろしいと思ったのは、彼女が殴って砕けたコンクリートが、直後にブスブスと音を立てて溶けて消えたことだ。
「人間には加減してるとか先生は言ってるけど、絶対に危険だよね」
「真田先生が実技をしてた頃は、死人も出てたもん。マシだよ」
あいは知らなかった。転入してから三年、実技や戦闘に関する授業は緑先生がすべて担当していた。
「何人も生徒が殺されちゃったんだよ。それなのに事故だって言うの」
「真田先生って、数学の真面目そうな先生だよね。紫水姫の輸送をしてるっていう」
真面目かどうかは知らないけどね、と呟いてから枕子は頷いた。
「あの人は四年前くらいまで実技と数学が担当だったの」
「もしかして、枕子って真田先生が苦手?」
あいの問いに彼女は目をそらし、怯えた様子を見せた。
「無理には聞かないけど……」
「わたしがこの学園のやり方に、心の底から疑問を持ったきっかけは、真田先生の実技の授業だったの」
「どういうこと?」
「友達になれそうかなーって子がね、授業中に殺されちゃったの」
「ど、どうして、そんな」
「その子は結構、強くて。真田先生と模擬戦みたいなことしてたんだけど、先生の顔に一発パンチを当てちゃったの。それで……」
「それだけで殺されちゃったの?」
「うん。ナイフで、こう喉を掻っ切られて」
枕子は喉を人差し指で水平になぞる。
この学園はどうなっているんだ。枕子の話に、あいは今日も唖然としてしまった。
「わたしはあの時ね、泣いちゃって。真田先生が泣きやむように言ってきたけど、どうしても涙が止まらなくて」
枕子が震えている。あいはそっと彼女の肩に手をのせる。
「真田先生が静かにしないと殺すよって言いながら、ナイフを構えてるのが見えたんだけど、余計に怖くなって泣いちゃって……」
──許せない。
あいは怒りが口に出そうになったが、気持ちを抑えて枕子の話に耳を傾ける。
「騒ぎを聞いた緑先生が割って入ってくれたから、わたしは助かったの。そして次の日から真田先生は実技の授業をしなくなった」
「そんな人がどうして今も数学の先生していられるの……?」
「どうしてって、どうして?」
「せ、生徒の命を奪ってるのに、先生なんてさせてちゃだめだよね!? 人を殺したら捕まったりしないの……?」
ぽかんとした枕子の表情に、あいは言葉を詰まらせる。
「言ったでしょ?」
「なんて……?」
「この学園の先生たちは生徒の命なんて軽く思ってるって」