対妖15
あいが帰宅してから、枕子は一人寂しく窓から外を眺めていた。月が綺麗……だったら、よかったのだが、空は曇っている。ちょっと切ない気分にしてくれる曇り空も、それなりに好きだが。
「緑先生にぶん殴られたのを引いても、今日は良い日だったなぁ」
笑みが止まらない。どうしても、ヒヒヒと笑みが溢れてしまう。
「あいなら信じられる気がする」
枕子を受け入れてくれた。嘘をついていたとしても気にしないと言ってくれた。
「しばらくベッドで安静にしてろとか、保健の先生が言ってたけど、いいや。明日も授業受けよっと」
枕子は志を新たに、真面目に授業を受ける。つもりはない。ただ、あいに会いたいだけだった。寝ていてはあいに会えない。
「奇声レベルの泣き声を捻り出しても嫌わないでいてくれたし」
──もう一生、ついてこ。あい好き、あい好き。
ヒヒヒヒと笑いながら、上機嫌で今後の方針を決めた枕子の気分を、騒音がかき乱す。
「なんだろ。やかましいな」
壁の時計を見ると零時をすぎたところだ。深夜なのに騒音を立てて迷惑な話である。同じ部屋で寝ている水島が暴れだしたのかと、音のほうへ目をやると、廊下がなにやら慌ただしい。どうやら新たな怪我人が運ばれてくるようだ。枕子の寝ている保健室はベッドが八の大部屋で、怪我人が運ばれてくるのも当然だった。個室もあるにはあるのだが、生徒は使わせてもらえない。対妖専用だ。
大部屋なら騒音もしかたないね、と枕子は諦める。
「暇だし、覗いてみようかな」
ベッドはカーテンで仕切られて、それなりのプライベートは守られている。そのカーテンから顔を出して、室内の様子をうかがう。見ると部屋の中央に保健医が立ち、別の二人がストレッチャーにのせられている誰かを運んでくるところだった。二人は保健医の助手だ。
「その子、どうしたんです?」
「ベッドに移せ。そっとだ」
保健医に尋ねてみたが、返事はなかった。ベッドに移された者が体形から女性だとは察せたものの、幾重にも包帯が巻かれていて顔は確認できない。部屋が薄暗いのもあって怪我人が誰なのかわからなかった。
「和歌山、なにか言ったか?」
保健医がこちらを向いた。
「そ、その子になにがあったのかなって……」
「知らん。本人に聞け」
素っ気なく言いすてて、先生は部屋から立ちさってしまった。
こ、この子、あいじゃないですよね!? と叫びそうになったが、体つきをよく見みたら、彼女ではないと確信できたので安心した。
──あいの体形なら厚着しててもわかるし。
ヒヒヒ、と笑う枕子の声に重なるように、包帯まみれの少女が苦しげにうめいた。
「う、うううう、苦しい……助けて」
「なにがあったのか、本人に聞けって言われても」
質問できる状態でもなさそうだ。枕子は、そこまで野次馬根性が強いわけでもないので、詮索しないことにした。
それよりも、事故にあったのか妖との戦いで重傷を負ったのかは知らないが、とても痛そうで見ていられない。枕子は痛いのが苦手なのだ。自分が痛むのも他人が痛むのも好ましくない。少女から目を離そうとした瞬間、口元にあるホクロで彼女が誰なのかわかった
「も、もしかして二班の鈴村さん……? わたしの前の席の」
確か二班は校外学習に出ていたはず。緑先生が四限目の終わりに言っていた。校外学習は妖を生徒に退治させて実戦経験をつませる、という授業内容だが、それは枕子がもっとも嫌う授業だった。戦う相手は人に危害を加えた妖だけではない。人畜無害なモノも戦う相手に選ばれる。幸いなことに枕子は、一度もその授業を受ける機会はなかった。
──もしかして、妖に返りうちにあっちゃったのかな。
と詮索してもしかたがない。枕子が事情を知っても、彼女に対してなにかしてやれるわけでもない。枕子は自分のベッドに戻り、布団を被ることにした。
「寝よ。早く朝になんないかな。あいに会いたいし」
「苦しい……うううう」
「……うーん」
「助けてぇ……」
隣のベッドから聞こえる苦しげな声が気になって、この数時間、枕子は眠りにつけずにいた。この病室はエアコンがきいてないせいもあり、眠るに適した環境とは言いがたい。今夜は熱帯夜なのだ。
「もう家に帰ろうかな」
マンションの自室でエアコンをつけて熟睡したい。そのほうが怪我も早く治るような気がする。
「く、苦しいよお……」
保健室を立ちさろうとした枕子だったが、苦しげな少女の声に躊躇する。
──別にこの子がどうなろうと知ったことじゃないけど。
あいならどうするかな、と枕子は考えはじめた。きっと見捨てたりしない。枕子が美咲を見捨てたように。辛そうな子を見たら手を差しのべるだろう。枕子にしてくれたように。
今夜の枕子は、あいのように行動して、あいのように考えたい気分だった。彼女を模倣して理解し、同じようになってみたい。いつもあいのように生きるのは疲れそうだが、今夜はあいの真似をしたい。
──誰だって痛いのも苦しいのも嫌だよね。
彼女の苦しみを止めるには、とどめをさすくらいしかできない。枕子はパジャマの袖から小さなナイフを取り出す。このナイフで鈴村の命を絶つわけではない。そんなマネをしたら枕子が殺害したと、真っ先に疑われる。生徒が生徒を授業中の事故以外の理由で殺害すると厳罰を科されてしまう。即座に火葬だ。生きたまま焼かれるとしても、できるだけ先延ばしにしたい。
それならば、ナイフをなんのために使うかというと、自分の指先を切るためだ。枕子の術は血を操る。その血を傷だらけの鈴村に一滴たらせば、彼女の血管に入りこみ、やがては心臓へとたどり着き、その鼓動を止めるだろう。
──わたしなら、こんなに苦しむくらいなら、いっそ楽にして欲しいもん。
枕子は無表情でナイフの切っ先を指に近づける。
──違う。わたしなら、じゃない。あいならどうする?
ナイフを握った右手を止めて、枕子は思案した。あいならとどめをさそうとはしないのではないだろうか。なにかできることはないかと考えはしないか? 枕子を守るために強くなろうとしたり、生徒の待遇を改善するために生徒会を作ろうとしたり。
「そうだ、保健の先生にエアコンをもう少し強くしてって、お願いしてみようかな」
保健医は緊急時にいつでも対応できるように、保健室の上部にある部屋で暮らしている。今から行って懇願すれば、エアコンを強くしてくれるかもしれない。深夜なので良い顔をされないかもしれないが。良い顔をされないどころか、高い確率で怒られるだろう。
「怒られるのは嫌だけど、あいならそんなの気にしないよね」
この暑さを和らげることができれば、鈴村の苦しみも多少は楽になるはずだ。
よし、がんばってみよう、と枕子が廊下へ向かって足を踏みだした刹那、水滴の落ちる音が聞こえた。とても小さな水の音。耳を澄ますと、定期的に等間隔なリズムで聞こえてくる。音のほうへ目を向けると、そこには点滴があった。
「点滴の音?」
枕子は不思議そうに首を傾げる。実は耳がとても良いので、小さな音もよく聞こえる。そのせいもあってうるさいのは苦手だ。病室に鈴村が運ばれてきた際に、騒音が不快だったのも耳が良いせいだった。そのため、点滴の音まで耳が拾ってしまうのは不思議でもなんでもない。不思議なのは──
「急に静かになったような」
さっきまで点滴の音なんて聞こえなかった。別の大きな音でかき消されていたからだ。鈴村が苦しむ声に。
彼女は眠れたのだろうか、と点滴から横のベッドに視線を動かし、枕子は目を丸くする。
「え、嘘」
掛け布団が床に落ち、シーツの乱れた無人のベッドがそこにあった。鈴村は姿を消し、点滴だけが残されている。その点滴のチューブを目で追うと、それは枕子のほうへ向かっている。ちょうどカーテンの死角で枕子からは確認できない位置、眼前に下がっているカーテンの裏へと。
「な、なんかヤバそう……」
背筋を凍らせて、枕子は後ろへと数歩下がる。同時にカーテンの裏から、口を限界まで開いた鈴村が飛び出してきた。
「ああああああああああああ」
鈴村は喉の奥から絞り出すような恐ろしい声をあげ、枕子の肩をつかもうと腕を伸ばしてきた。かなり驚いたが、枕子はとっさにその両手をかわし、彼女の顎へ掌打を叩きこんだ。鈴村はその衝撃で倒れて、床を転がっていく。
「あいの前なら悲鳴の一つも上げるところだけど。弱虫アピールのためにね」
今は、あいもいなければ衆目もないので、冷静に対処した。
「大丈夫かな、鈴村さん。頭打ってなければいいけど」
枕子の心配をよそに、鈴村はうなり声を漏らしながら、床を這っている。
「え。鈴村さん、意識あるの?」
──気絶させるつもりで一撃くらわしたのに、びっくりだよ。
「ご、ごめんね、急に襲ってきたから、つい。事故だったんだよ」
──やば。か弱くて可愛い和歌山さんに、凄い体さばきで気絶させられたとか、噂を流されたら困る。
「わ、わたし弱いから、今のは窮鼠猫をかむってやつだもん」
言い訳をしながら彼女に近づく。すると鈴村が急に起きあがってきたので、枕子は驚いた。
「も、もう立てるの? 頑丈だね、鈴村さん」
立てるどころか、彼女は恐ろしい声を出しながら、再び襲いかかってきた。
「ちょ、やめて……!」
その攻撃をよけた時、枕子はさとった。鈴村の状態が尋常ではないことに。青白く変化した肌の色。血走った目。そして小さな角のようなものが額から生えてきている。
──この子、鬼に成ってる……!
枕子に攻撃をさけられ、鈴村はバランスを崩して倒れた。彼女が立ちあがるよりも早く、枕子は人差し指の先をナイフで切り、そこから溢れた小さな赤い宝石のような血を親指で弾く。
その血は包帯の隙間に覗く鈴村の目へと付着し、染みこむように消えた。すると鬼に成った少女は白目をむき、床に両膝をついた。そして顔から、ゆっくりと床へと倒れこむ。
「ああ、もう。先生たちに、なんて言い訳しよう」
鈴村の眼窩から送りこんだ枕子の血は硬質化し、彼女の頭蓋骨の内部で激しく移動した。そうして鈴村の脳を完全に破壊したのだ。鬼や妖怪は内臓も体も人間より頑丈だが、脳を破壊されても活動を続けられるモノは多くない。成りたての鬼ならなおさらだ。よほど強力な妖でなければ、無事ではすまないだろう。たとえば紫水姫のような。あの妖は首を切り落とされても滅びはしなかったと聞く。
──妖のことよりも自分の明日だよ。
枕子は頭を抱えた。どうやって鬼に成った鈴村を倒したのかと問い詰められても答えようがない。血術は使えないと学園には申告してある。実際は成りたての鬼とはいえ、見てのとおり瞬時に殺害できるほどの強力な術を枕子は習得している。血術を扱えると先生たちに知られれば虚偽の申告を咎められて、よくて火葬、悪ければ対妖として即時採用されてしまうかもしれない。
「それに相手が誰だって、殺しちゃうと嫌な気持ちになるんだよ……」
──鬼に成った鈴村さんの攻撃をよけてたら勝手に死んじゃったってことにしよう、そうしよう。苦しい言い訳だけど。
枕子は右手を伸ばし、鈴村の見開いた目を閉じた。




