対妖13
「さあ、好きなように攻撃してきてくださいー」
手招きする緑先生から目をそらし、枕子はあいへと顔を向ける。彼女は心配そうに、こちらを見つめていた。
「和歌山家は代々、体内のあるモノに刻呪をし、独特な戦いをするそうですねー」
「わ、わたしには使えません。どんな術も呪具も……」
そう言って震える枕子の様子を見た生徒たちから、冷やかしの声が届く。別にかまわない。自分が無能で役立たずなのを枕子はよく知っている。殺すのも殺されるのも嫌なら、対妖として失格だ。
「和歌山くんのご両親はかなりの使い手だったと聞いていますー」
「ぱ、パパとママがどんな対妖だったなんて知りません……」
「そうですかー」
「戦いは苦手で──」
枕子が言葉を言いおえる前に、大砲の弾のような拳が顎に向かって迫ってきた。
「きゃああああ!」
悲鳴を上げながら尻もちをつくと、数瞬前まで枕子の顔があった位置を拳がえぐっていった。
「和歌山くんがこないなら、こちらから攻めますよー」
「偶然、転んでなかったら、わたしも大怪我してました……!」
「そうですねー。水島くんの顎を砕いた時と同じくらい速く鋭く突いたのですがー」
緑先生の言葉を無視して、枕子は畳に尻もちをついたまま後ずさる。
「水島くんは、よけられなかったですー。『偶然』に感謝ですねー」
「み、緑先生は……手を出さないって言ってたのに……!」
枕子の訴えに耳を貸さず、緑先生は向かってきた。どう見ても転んだ枕子へ手を差しのべるつもりではないのは、殴る気まんまんの構えから容易に察せる。
「できるかぎりですー。手を出す可能性はあるのですよー」
枕子は両手と足を使い、後ろに飛びのき、その勢いで後転して床に倒れこむ。緑先生の拳が畳と床を貫く音が追ってきた。よけてなければ、畳と床の代わりに枕子の体が貫かれていたかもしれない。
「ひ、ひいい、やめて、怖い……!」
震える足で立ちあがった枕子に容赦ない追撃が迫る。
「緑先生、やりすぎです!」
あいの叫びに緑先生の動きが一瞬、鈍くなったが、攻撃を止めるつもりはないようだ。彼女の貫くような突きが枕子の胸部に向かって放たれた。
「あああああ、もう! やめてって言ってるのにいい!」
拳を素早くかわすと同時に、緑先生の顎に肘を叩きこむ。
──寝てなよ、このチビ助ッ!
手ごたえがあり鈍い音がしたものの、先生は倒れることなく余裕の表情で後退する。
「ちょっと本気になってくれましたねー」
緑先生は左手をひらひらさせながら、そう言った。その手は腫れあがっている。どうやら枕子の肘は、左手で防がれたようだ。
──うわ、なにこれ、肘が焼ける……!
肘部分の道着が溶けて、皮に張りついている。このままでは皮まで溶けそうだ。生徒たちがざわめきはじめた。彼らと枕子の間に緑が立つように誘導しての攻撃。枕子がなにをしたのか、生徒たちには理解できなかっただろう。
「みなさんの目が気になりますかー?」
衆目を気にする枕子は、心を見透かされたようで動揺した。
「え、べ、別に。それより、ごめんなさい。なんか事故で肘が当たっちゃったみたいで──」
半泣き状態で謝る枕子の隣へ、緑先生は瞬時に移動し、肩をつかんできた。
──か、体が動かない。
肩の道着が溶けはじめて、緑色の煙が上がる。
「事故で先生の左手にヒビを入れちゃうなんて、和歌山くんは凄いですねー」
──こ、この緑原人……!
とっさに殴りつけようとしたが、体が動かない。
「和歌山くんの本性は、よーく知っていますー。先生にはお見通しなのですよー」
緑先生の囁きに枕子は動揺する。
「その表情。今度は演技じゃないみたいですねー」
「な、なんのことですか」
「先生に肩をつかまれて、毒を送られているのに動けなくなる程度でいられるのは、和歌山くんの術が有効に働いてるからですねー」
──こいつ、わたしが本当は術を使えるのも気がついてるの……!?
「体内すべての血液に呪が刻まれているのでしたっけー」
枕子は目を見開く。血液を操る力。それが和歌山家に伝わる術だ。血が流れこもうとする毒を防いでくれている。
「若山くんは実力を隠しているのですよねー」
図星をつかれて、枕子は言葉を失う。先生の言うとおりだった。枕子の実力はすでに学園を卒業していてもおかしくない。一定の強さに達すると、その時点で学園は卒業、対妖として働くことになる。しかし──
「和歌山くんは対妖になりたくないのですよねー」
それも図星だが肯定できない。肯定した瞬間、焼き殺されてしまう未来が確定するかもしれない。
枕子はたった一人の友達を見る。あいは憤慨したような面持ちで、こちらに向かってきているところだった。
──わたしのために本気で怒ってくれる人、あいしかいないもん。
「それでも今は強い和歌山くんが必要なのですよー。高辻くんのためにもですー」
拳を構える先生の言葉に、枕子は動揺した。
「あいのために……?」
「もっと強くなるためにも、ちゃんと授業を受けてくださいー」
突き出される拳。
「もう止めてください! 緑先生!」
拳と枕子の間に、あいが割って入った。
枕子は、いつも弱い自分を演出していた。
弱くて役に立たないと焼き殺されてしまうと脅してきた両親。父や母は根っからの対妖で、枕子にもそうあって欲しいと願っていた。幼い頃から毎日のように、厳しく血を操る術をしこまれたものだ。
厳しい修行。血に呪を刻むのは道具にするように文字を書けばいいというものではない。呪をこめられた墨を血管に打たれて、激しい痛みや苦しみにたえながら習得するものだった。普通の人間なら、血管に異物を入れれば間違いなく重篤な結果を迎えるはずだ。
両親や他人の前では必死に無能を装った。彼らが予想している以上に枕子は術の習得も格闘能力も向上していたが、自分だけの秘密にしていた。六歳の時点で、すでに対妖としては優秀な実力をもってしまったが、どうしても戦いには出たくなかった。
枕子は空を見るのが好きで、生き物が好きで、絵本を読むのが好きで、美味しい料理が大好きだった。今でも好きだ。しかし、血や争いは大嫌いだった。血を操る術というモノは、体内にある血液を文字どおり操作する。わざと出血して、その血を固めて刃物を作ったり、柔軟な紐に変えて束縛したりできる便利な術。当然、術を使うには体を傷つけなければいけない。枕子は血を出すために自身の体を傷つけるのが嫌で嫌でたまらなかった。父や母が平気な顔で自らの手首を切り、手本に術を使う姿も恐ろしかった。そうまでして術を習得して戦う理由が見つからない。両親は、そんな枕子を許さなかった。
術が習得できないなら格闘術を学べ、他にも術はたくさんある勉強しろ、望んでもいない未来を押しつけられて息の詰まる毎日。学園と呼ばれる閉鎖空間に居場所はなかった。そこはなにもできない子供を許してくれるような世界ではない。
それでも対妖として妖と戦うより、弱い自分を演じて罵られているほうが楽。枕子は心からそう思っている。今でもずっと。
弱い自分を演じていると守ってくれようとする人間が現れはじめた。仲違いする以前の健二や殺されてしまった美咲。しかし彼らは枕子にとって友達と呼べる存在とはなりえない。彼らは違う。弱い枕子を辛辣な世間から守ろうとしてくれてはいたものの、対妖になるために強くなるという方向に導こうとしていた。
『周りを見返そう。がんばって強くなろうぜ』
『枕子ちゃんなら大丈夫。対妖にだってなれるよ。わたし応援してる』
二人の言葉は重荷でしかなかった。枕子を対妖にしようとしている連中と変わりがない。違いは辛辣か優しいかの差でしかなかった。
そんなある日、美咲が真田に殺害されてしまう。枕子には真田を倒して彼女を守る実力があったのに見捨てた。理由は簡単だった。そんなマネをしたら実力が知られてしまう。対妖にならなければいけなくなる。戦わなくてはいけなくなる。そんな自分の都合で美咲を見捨てた。
冷酷に見捨てたはずなのに、涙が止まらなくなった。美咲の死体を抱き、泣き続けた。真田に泣くのをやめろと強く言われても、涙は止まらなかった。
ずっと後悔している。余計なお世話と感じてはいたが、少なくとも美咲は枕子に優しかった。
その日から枕子はすべての罵詈雑言になにも感じなくなった。美咲を見捨てたのだ。罵られるだけのいわれはある。それに対妖になって妖と戦うのがすべての世界に生まれた自分が悪いと思う。生き方に選択肢はなかったのだが、未来を拒絶したのは自分なんだ、と。泣き虫を装っていたが、心には一滴の涙も流れなかった。
卒業して焼き殺される日を凍りついた心で待ちつづける日々にも慣れた枕子。そして、つまらない人生だったと諦めていた三年前の春。生徒同士の模擬戦で相手に突き飛ばされて、転んでいた枕子に声をかけてきた人がいた。
「膝、痛む?」
高辻あいだった。
彼女は転入生。ある理由から学園の外に居場所がなくなり、転入してきたらしい。転入先の学園内でも疎まれ、居場所がなさそうだった。鬼の子だ、血塗られた悪魔だ、今すぐ殺したほうがいいなど、あいは陰口を叩かれていた。
枕子は気になった。自分と似てると思った。
「どうしたの? 大丈夫?」
思考にふけっていて、あいに返事をしていなかった。
「とっても痛いよぉ……」
「よしよし、保健室に行って診てもらおうね」
泣きじゃくる演技を続ける枕子に彼女は肩を貸してくれて、保健室まで運んでくれた。その日以来、枕子とあいは一緒に行動するようになった。
彼女は枕子に対妖になれと押しつけない。学園で接したどの人とも違う価値観の持ち主。ただ枕子を枕子と認めてくれた人。話を聞いて、遊んでくれて、一緒に空を見てくれた。嬉しかった。彼女の前で弱音を吐く時だけは、演技なのか本音なのか自分でもわからなくなった。
あいと行動をともにしていて気がついたのだが、彼女は昼食に駄菓子しか食べない。それも五十円分の。枕子も駄菓子は大好きだが、さすがにそれだけでは体に悪いだろうと思い、ちゃんと食事をとるように伝えたのだが、あいはかたくなとして食の改善をしてくれない。欲しい物のために貯金しているらしいのだが、心配でならない。
──こうなったらもう、わたしがお弁当作ったげればいいか。
そう決意し、料理の勉強を本格的にはじめた。
初めて、あいに渡した弁当。彼女は美味しいと言って笑ってくれた。枕子はその時、生まれて初めて嬉しいと感じた。その感情が、こんなにも枕子を笑顔にしてくれるなんて。
「また作ってもいい……?」
「作ってくれるのは嬉しいけど」
「け、けど?」
「どうして、そんなに親切にしてくれるの?」
どうして? わからない。枕子が聞きたい。
あいの笑顔を見ていると幸せになれるから? 枕子を対妖になる存在と決めつけてないから? ちゃんと個人として接してくれるから?
わからない、もっと単純な気持ちのはず。心の中からなにかを伝えたい気持ちが溢れてくるが、それを表す言葉を枕子は知らない。いや、正確には知っているのだが、使った経験のない言葉だったので口から出てこない。
あいはせかさず、枕子の次の言葉を待ってくれている。
──どうしたらいいの。簡単な問いなのに。答えられない。
強い焦燥が表情に浮かぶ。これは演技じゃない。
「ちょっと、枕子。大丈夫?」
その時、美咲の言葉を思いだしかけた。
『枕子ちゃんなら大丈夫』
美咲にそう言われた時は、なにも大丈夫ではなかったので、心が冷えたものだ。しかし思いだしかけたのは、その言葉じゃない。大丈夫という単語で連想した言葉だ。美咲はなんて言っていたのか。
──そうだ。思いだした。
『わたしは枕子ちゃんの友達だから。いつでも頼ってね』
──友達。
「ど、どうして親切にしてくれるのって言ったけどさ。聞くまでもないことだもん」
「うん」
「わたしたち、友達だもん……」
あいは嬉しそうに微笑んでくれた。枕子は自分の顔が赤くなっていると自覚した。体が熱い。生まれて初めて照れているのだ。
──友達って伝えただけなのに、この胸の高鳴り……なんなの?
これは達成感なのだろうか。枕子の心の奥に埋もれていた感情が蘇ってきた。
「ずっと、お弁当作らせてね」
「ありがとう」
はにかみながらの感謝の言葉。
「枕子は、わたしの友達」
「友達」
この日、枕子にとって失いたくないモノができた。




