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さて、この文章も書くのが辛くなってきたので、そろそろ終わらせてもらおう。
孔子は流れる川を見て言った。「逝くものはかくのごときかな、昼夜をやめず」
昼や夜という区切りを超えて川は流れていく。自然は滔々としている。そこにある自然観、近代的な自然観においては、例えば人間の自然の発見であるとか、風景の発見であるとかいうように言われる。ルソーが自然を見つけ、風景画家が風景を発見した、それはあくまでも人間的事象、つまり近代的なものである、と。
私は自分の中の後進性に照らし合わせて、むしろ自然が人間を超えて流れていっていると感じたい。孔子が見ていたのはそういう「川」ではなかった。我々の理論の外側に川は流れている。だからこそ「逝くものはかくのごときかな」というほとんどまとまった意味を持っていない語句が我々にある種の感銘を与えるのではないか。
だが、これが東洋的な自然との合一、社会的な体制との一致に救済を見出すものと考えられてはならない。決して。それは、既に戦争において我々が体感した問題に昔帰りする羽目になるだろう。人間を超えた理法はあくまで、理論の外側にある「物自体」としてでなければならない。これを概念化し、現実に取り込む事。それは我々に繰り返し地獄を現出させてきた。神の名において地獄を作るのは簡単だ。
西洋の、人間の主体性の追求というものは、もっと真摯に考えなければならない。孤独という問題ももっと突き詰められねばならない。我々が疲れた時、日本の「風土」が安寧として待っているが、それから離れ、人間という問題を徹底的に突き詰める必要がある。それが突き詰められた時、人間内部の自我意識が世界と極限的な対立を持った時、自我の限界がさらされる。我々はこれまで自我の限界というのを突き詰めた事はおそらくない。それは常に自然に融和されるものとみなされ、ある種の救済や、小さなまとまり方をしてきた。人は闘わねばならない。徹底的に、自己の破滅を賭けて闘うべきだろう。そしてその最後に見えた光景がようやく何かを意味するものとなるだろう。自然との融和、その一致、それから外れてはじめて人は人になる。
「現身の 人なる吾れや 明日よりは 二上山を 弟背と吾が見む」
悲哀がこの詩人を神から離反させ、一人の人間としての自覚を促した。ここに亀井勝一郎の言うような「神人分離」があると考えたい。これは聖書の楽園喪失にも近い物語性がある。我々は世界を拒否する事によって一人の人間となる。そして自己を突き詰める事によって、そのドラマを最後まで生きる事によって、再び世界と合一する。しかし世界と合一するのは主体の意識内部ではなく、その外側において、だ。キリストは正にそのような物語を生きた。彼は信仰があったから自己を廃棄できたのだ。そして信仰があったからこそ、その廃棄は廃棄ではなく、救済として我々の手に落ちてきたのだ。