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ここで、個人的にはトルストイを思い起こしたい。トルストイは誰よりも自我内部における救済を得る事を重視した。彼の主要な作品においては、そのクライマックスで、トルストイ本人を仮託された主人公が何らかの「救済」を得る。
村上春樹の小説でもそういう救いがあるが、村上春樹がトルストイと違うのは村上春樹はリアリズムを欠いている、つまり現実との巨人的な闘争を欠いている為にほかならない。(それを許した社会状況もあるが)
トルストイはあくまでも自我の内部に救済、善と幸福の一致を見出した。だが、先に言ったようにそれはその手をすり抜けていく。トルストイの巨人的精神はそれをしっかりと掴む為に、何度も何度も立ち上がった。だが最後にそれは彼の手を逃れ去った。それでも彼は追いかけた。そして最後の野垂れ死にがやってくる…。トルストイが現実において悲劇を達成したのは、例えば、決して挫折する事はないであろう村上春樹よりも巨人的な精神を持つ本物の作家だったからだ。だからこそトルストイは野垂れ死にしなければならなかったのだ。
トルストイは自我の内部に救済を見出そうとしたがそれは絶えずその手を逃れ去った。「永遠」や「幸福」の先にはなにものかが流れている。それを今、時間と呼びたいのだが、しかしそれは触れる事ができないものである。そしてこの巨視的な観点からすれば、人間の様々な営みは一つの方向性に統一されて見えてくるだろう。つまりそれは道徳や善悪・幸不幸という概念で分けられるものではない。もちろん正否で分けられるものでもない。それらは一つの統一的なドラマ・物語を形作られる。
我々はこんなにドラマや物語を欲しているが、本物の物語は我々の外部から見た我々の姿そのものであるに違いない。今書かれるべき物語は、我々が作り上げた現在というシステムの外側から、このシステムーーこの建築物そのものが何の存在に対して相対的であるか、という事なのだ。あえて言うならそこに未来がある。そしてこの未来とは現在の延長としての未来ではなく、触れ得ない、メシア的時間としての…未来であろう。