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再び時間の話に戻す。このエッセイのタイトルは「時間は何にたいして流れるか」となっている。
例えば、古典文学などを読んでいくとその殆どは失望や幻滅、悲哀が中心の話になっている。基本的に優れた物語は悲劇であり、根っからのオプティミズムの傑作というのは一つも思いつかない。ドン・キホーテの底にも悲哀があり、モリエールの喜劇も悲劇スレスレになっている。
これは何故なのかというのは自分の中でも謎になっていた。これが「謎」なのは結局、私も現代人であったという事を意味する。というのは、私も幸福になる事を良い・素晴らしいとどこかで思っており、また思いたいと思っていたからだ。だが同時に違和感も感じていたので古典を読み始めた。
優れた古典文学が、何故その大半は理想の消滅、挫折、悲劇などで占められているのか。それは、時間との関係で語れば、我々は時間を留めておく事ができないという真実から発していると考えられる。仮に幸福に達したとしても時間を留めておく事はできない。時間は流れていく、と感じられる。
文学は時間を語る芸術であるとも言える。ここに微妙な問題が起こってくる。人間は時間に流されていく中で、自己の同一性を感じ、また幸福=絶対境のような停止した時間を希う。しかし、それは不可能なので、幻滅や疎外、悲哀などが文学作品の主題になっていく。この時、仏教の「無常」にも似た世界観が開かれる。常では無いものの上に常であるものを建立しようとするのが人だからだ。科学法則や数式などが永遠である、と思うと人は僅かな慰めを得られる。科学法則の永遠性とピラミッドの崇高さとはどこか似た所がある。それは自然性、時間というものの中にいる人間の、時間に対する抵抗、永遠に対する憧れに他ならない。
だがそれでも時間は流れていく。それでも…。無常とは現代にはネガティブな人生観として通俗的に捉えられているが、おそらくそうではないだろう。カント哲学が認識というものを最大限に突き詰めたが為に、認識の限界に到達したように、「無常」というのも時間について深く突き詰めていったが為に、常であるものが何もないという人生観に到達したと考えられる。求道者、何かを求め人生を歩んでいくものだけが、大きなものに対して挫折する事が可能になる。
文学では、回想という形式はよく取られる。また一つの事象を連続的に時間の中で描いていく。その終わりがハッピーエンドであるのを喜ばしい、と人は思う。何故人はそう思うのか。それは私にはまだ中途の物語であるように思われる。おもうに、現代というこの時代そのものが、中途でしおりを挟んだ物語でしかないのだ。
カントの認識論はまっすぐ進み、4つのアンチノミーに到達する。アンチノミー(二律背反)によって、理性はその限界に到達する。これは理性の悲劇だが、ここまで理性が歩みを進めたから到達した挫折でもある。カント以前にヒュームが一歩進み、カントはそれを積極的に挫折させた。
幸福は我々の手元にとどまらない。また意識内部にも留まらない。仮に留まったとしても、それはすぐに逃れ去っていく。