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私自身の印象の話になるが、空を見上げて雲が静かに動いていくのを見る時、自分の中にある感慨がよぎるのを感じる。
その感慨は自分の中である種の「謎」として感じられていた。謎…例えば、地下鉄の駅構内を見ても同じ感慨は感じない。高層ビルを見ても感じない。
自然は唯物論的に見ればただの物質かもしれぬが、私はそこに生きているもの、運動しているものを感じる。そして何より重要なのはそれが自分というちっぽけさを遥かに超えて運動していると思わせてくれる事だ。
人間が作った構築物では、そうはいかない。確かにそこに壮大さや崇高さが宿る事はある。私は夜にクレーンの動く様を見ると、人間が神話の中の巨人になったように感じる。それは人間が壊したり作ったりできるものの総量が莫大に増えた事を意味している。この崇高かつ恐ろしい感じは、人間が自分が生み出したものをコントロールできないのではないかという危惧につながっているのだろう。
自然の大きさを感じる時、私はそれが人間社会を超えたものとしてある、とイメージしている。それが私にとっては慰めである。例えこの世界は、人間が滅びても月や太陽は届かぬものとして回り続ける、また、雲は人類が滅んだ後もこのようにたなびいているに違いないと思わせる、その感慨が私の胸を締め付ける。
私がここで何を感じているか。ここでは分析が重要であるから、詩的な共感を読者にお願いするつもりはない…。多分、私は東洋人・日本人らしく、自然の中に何か大切なものを感じているのだろう。それはカントで言う「物自体」に近いものと考えてみたい。カントは西洋人らしく、物自体を一神教的な、非常に抽象的な普遍性と感じ取っているが、私はそれは人間の理法を越えてもある自然として考えたいと思っている。
もちろんこの考えは感覚的なものに引きずられる、という東洋・日本的欠点があるのだが、このあたりが自分の中の感性とカント哲学に対する尊敬を反芻した時に出てくる、もっとも納得できる融和点になる。そういう意味では、カント哲学よりも仏教哲学の方がしっくり来るとは言える。