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最初のイメージに話を戻す。七十歳の人間が鏡を見て、自分が年を取った事を嘆く…。この人物には自己という同一性が七十年間を貫いていると感じられている。他人もこの人物をそのように見る。
その人間の、同一性を消失させるのが「死」であると考えられる。更に、人間はこの死そのものさえも殺そうとする。それが、個人の死を全体性・システムに一致させる事だ。個人が死んでもシステムは回転するから、個人の死はシステムの一部と考えれば救済されるような気がする。ここに現代の宗教がある。現代の唯物論が作り上げた壮大な「物」の体系は、過去の宗教を現実に具現化したものとも言える。ここに永遠があるような気が、人にはするのだ。
だが、永遠にはまだ先がある。人の思考は永遠では終わらない。カントもそのように思考を持っていった。カントは永遠の先にあるものを見つけた。つまり時間感覚の消失、時間という思考そのものが理性にとっての形式にすぎず、理性はその限界を出られないという事である。
カント哲学は東洋哲学とある程度は類似する。今、言いたいのは「無常」の概念についてだ。
「無常」とは言葉で言えば「常では無い」と書く。つまり、連続性、変化があるという事だ。仏教には不生不滅という言葉もある。生まれるとか滅するとかいう言葉が作り上げた概念でしかない。本来の事物は「不生不滅」である、と。この思想はカントに非常に近い。カントは理性の限界を見てその先に「物自体」を設定した。仏教は、言葉=概念で物事を捉える事の限界を指し示していた。
無常、常では無い、という連続性から考えてみよう。先に言った七十才の人間は、自己の中に七十年間の統一性を見ている。一人の人間の在り方に、七十年の統一があると考えている。そういう同一性があると考えている。この思考方法の延長に「永遠」への思慕がある。
しかし仏教が、いわば理性批判的な言い方で言いたかった事は、その同一性そのものの在り方、その思考方法それ自体も「無常」だという事ではないのか。これは更に言えば「無常」という考え方そのものも無常だという思考につながっていく。ナーガールジュナは「空」という観念もまた「空」であるとはっきり言っていた。ここでは人間の理性批判が既に行われていた。ただカントのように「物自体」を指し示さなかっただけである。