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 ここでは年を取る事の悲しさについて書きたいわけではないので、話を進める。

 

 重要な事は人間は変化するものの中に同一性を見出すという事だ。二十歳の人が三十歳になっても、同じ人間と見られる。同じ人と見られる。物質的には細胞は入れ替わっているが、それにも関わらず、同じ人間とみなされる。ここには既に唯物論的ではない何かがある。

 

 おそらくこの同一性、アイデンティティの延長に霊魂の不滅とか、死んでも意識は残ると言いたくなる精神の根拠があるのだろう。現在でも、死後にも意識は残る、というような本が人気になっている。それらは、変化の先の同一性を信じたいという想念から来ている。人間は、二十歳の自分も七十歳の自分も同一のものと感じるのだが、死はその同一に感じるもの(精神・意識と呼びうるもの)自体を消滅させてしまう。そのように感じられる。だから、同一性を求める精神は「その先」にも続くものがあると考えようとする。

 

 ヴォリンガーの意見のパクリにもなるが、例えば、ピラミッドのような崇高な、抽象的な、圧倒的な造形というのは、人間の有限性を乗り越えようとする試みだったのだろう。その為に無限に近いような、天に迫るような巨大な構築物が必要だった。死後いつまでも続く、つまり永遠の観念とあのような壮大な建築物にはどこか関連性があるだろう。

 

 人間という存在物にとって「永遠」という観念が必ず宗教と関連がある、あるいは宗教的な響きを持つという事もこのような関係があるように思われる。「永遠」とは、人間が現在から抜け出し、記憶によって自己を過去からの連続体と感じる、そのような人間本質の先にあるものに思われる。それは時間感覚の果てにあるとも言える。永遠に対する憧憬は、動物が人間になっていく過程で時間を自分の中に立体的に作り上げていく、更にその先の場所にある。

 

 当然「神」という観念もそうしたものに類するだろうが、今はそこまで話を広げない。言いたいのは、仏教に関連する事だ。

 

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