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 単純なイメージから始めたいと思う。今、七十才になる人が鏡を見て、ふと二十歳の頃の自分の顔を思い出し「ああ、自分も年を取ったなあ」と慨嘆するとする。この時、この人は「何」にたいして慨嘆したのだろうか。

 

 私は前のエッセイ「アップデートの思想に抗して」という文章で、現在は絶えず「今」が上書きされている状態で、時間性が欠如していると言った。だとしたら時間はどこに存在するのか、それをもっと明瞭にすべきだと感じている。

 

 時間は流れる、と普通言う。では時間は一体どこに流れるのだろうか。時間が流れているのを見た人は今まで誰もいない。それにも関わらず、我々は時間が流れる、と言う。それはどういう状態だろうか。

 

 流れている川の比喩で考えてみよう。もしすべてのものが同時に流されているのであれば、それは「流れている」とは言わないはずだ。我々は回転する地球の上で暮らしているが、普通この回転は感じない。

 

 仮に、この地表そのものが大きな川の上の筏のような平ぺったいもので、今も流されている最中だとしても、その地表の内部で生きている限り、その流れには気づかない。現実生活においても何も支障はない。流れるものは、流されていないものとの対比でしか認識できない。川の場合は両岸との対比で初めて流れていると認識できる。

 

 最初のイメージに戻る。七十の人が二十歳の頃の自分を思い出し、慨嘆する。「若かった頃の肌艶は失われて、皺だらけになってしまった」 この詠嘆が機能するのは、この人物が二十歳の頃の自分と七十の頃の自分に同一性を見出しているからだ。

 

 しかし、ここで同一性を見出す、二十歳の自分と七十の自分が「同一」だというのはおそらく人間にしかない思考だろう。動物はまさしく「現在」を生きているので、己を嘆いたりしない。見方を変えれば、現在という時代は「動物=現在」に還っていこうとする姿であると言えるだろう。人間が作り上げた社会そのものを絶対化し、その中の快楽・娯楽という水平的な感覚のみに惑溺し(教養の否定・娯楽の肯定、とは時間の否定と水平的な現在の肯定にほかならない)、人間は社会の上を跳ね回る動物のようなものになってきている。

 

 さて、ここまで来て何が言いたいのか、整理してみよう。時間というものが流れる、と感じられるのは、それが流れないものとの関係において初めて感じられると私は言った。

 

 この場合、七十の人が慨嘆するのは、自分自身は同一のものだという確信があるからである。本来、同一であるはずの自分ーーその自分が変化しているのが悲しいのである。当然、逆の場合もあろう。整形して美人になった人が鏡を見て喜ぶ、この時には逆の感情が生じるわけだが、起こっている事は同じである。つまり変化していないものの上に変化が生じている、と感じている事になる。人が変化そのものであれば、時間を感じない。

 

 つまり、二十歳の自分がそのままの自分、七十の自分もそのままの自分、と「ありのままの自分」を現在性としてそのまま認識してしまえば差異は消える。その場合はバラバラになったその時々の現在があるだけで、二十ー七十の差異は感じる事ができない。「今」だけを生きるものには時間はない。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 開始早々に難癖をつけるわけではないのですが 七十の自分が「今この経験」を現在性としてそのまま認識したとして そこには二十の自分は存在しないのでは そこに時間がないのは当然として、バラバラの…
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