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「美音ちゃんが心配するわ。帰りましょう」
「大丈夫さ。死んだ母から料理を教わってるから。結構、料理作れるんだよ。何か作って食べてるだろ」
「同じ過ちは繰り返さないって言ったじゃない。今」
純香が睨んだ。柴田は苦笑すると、
「はいはい。帰りましょ」
と、徐に腰を上げた。――
電車の中で横に座っていた柴田は、向かいの席に人が居ないのをいいことに、純香の手を握った。
「娘に会ってくれるだろ?」
酒の匂いをプンプンさせながら、純香の耳元に囁いた。
「……ええ」
酒屋の角を右に行く柴田を見送って帰宅すると、シャワーを浴びた。満身創痍のごとき赤い斑点が、柴田との情交を証明していた。――満たされた余韻に浸りながら、布団に潜った。
翌日、洗濯をしていると電話が鳴った。電話番号を知っているのは柴田だけだ。
「はい」
ところが、相手はうんともすんとも言わなかった。
「もしもし?」
「泥棒猫!」
若い女の声だった。
「はあ?」
「お前の過去を暴いてやる!」
そう言って電話は切れた。純香は受話器を持ったままで凝然と立ち尽くしてした。――声はこもっていたが、紛れもなく、柴田が付き合っていたあの女のイントネーションだった。
純香は危惧した。復讐を遂げる前に自分の正体が柴田にバレたら水の泡だ。何もする気になれず、洗濯も途中にしたまま炬燵に入った。履歴書に大広田なんて書かないで、正直に岩瀬浜と書けば良かった。しかし、本籍地を偽ったのは、柴田に気づかれないための手段だった。だが、こうなると、そのことを後悔した。本籍地が違うからと言って、母の件と私を結びつけるとは限らないが……。
でも、どうしてあの女は私の過去に疑惑を抱いたのだろう。単なる脅し文句のつもりか?柴田にフラれた腹いせか?……〈 Man proposes, God disposes. (計画するのは人、成敗をつけるのは神 )〉純香はそんな心境だった。
夕食を作っていると、恋人気取りで柴田がやって来た。
「……後で来ていい?」
遠慮がちな物腰だった。
「……ええ。夕食はいつもどうしてるの?」
「早く帰った時は俺が作るけど、じゃない時は娘が作ってる」
「今、大根を煮てるの。良かったら持ってって」
「助かるよ」
「寒いから中で待ってて」
「はーい」
柴田は浮かれ調子で返事をしながら、急いでドアを閉めると、ダイニングのテーブルに着いた。
「綺麗にしてるね」
感心しながら見回していた。
「掃除したばかりだからよ」
菜箸を動かしながら横顔を向けた。柴田がライターの音をさせたので、適当な小皿をテーブルに置いた。
「はい」
「あ、悪いね」
花柄の小皿に煙草を置いた柴田がニコッとした。純香は例の電話の件は喋るまいと思った。打ち明ければ、余計な憶測を柴田に植え付けることになる。どっちにしても得にはならない。
いか大根と、いんげんのごま和えをタッパーに入れると、
「美音ちゃんになんて言うの?」
と聞きながらビニール袋を広げた。
「のんべえからのみやげにするさ」
「そうね。毎日でもいいわよ。多めに作っとくから」
「ホントに?恩に着ます」
柴田は嬉しそうな顔をした。
「早く帰って、美音ちゃんと一緒に食事して」
「ああ。サンキュー。じゃ、後で」
「ええ」
……私は何をしてるの?母の仇と関係を持った上に、その男の家族の幸せを願っている。私が美音の立場なら、やはり、親と一緒に食事がしたい。一人で食事をするのは寂しいものだ、と純香は思った。