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「アパートまで送るよ」
「私の方が送ります」
「いや、君の方が近いんだから、先に送る」
純香は黙って柴田の言うことを聞いた。コートの襟を立てた柴田は背を丸めると、先を歩いた。
ゆっくりと歩く柴田の背中は、何かを考えているようだった。結局、柴田は一言も喋らなかった。
アパートの近くまで来た時、横顔を向けた柴田が足を止めた。純香が傍らに行くと、突然振り向き、強引に腕を引っ張ると、顎を掴んだ。見詰め合う格好になり、徐に唇を重ねてきた。
「うっ……」
純香は小さな抵抗をしてみたが、柴田の発するアルコールの匂いが、理性を麻痺させた。そのキスが長かったのか短かったのかは定かではなかった。ゆっくりと純香から離れた柴田は、
「……君が好きだ」
酔いしれたように目を閉じた純香の耳元に囁いた。
「おやすみ」
柴田はそう言って、背を向けた。
「……おやすみなさい」
街灯に照らされた柴田の背中は、やがて路地の角に消えた。
純香はライティングデスクの原稿を前にして、ジーっとしていた。何も考える気になれなかった。ただ、柴田の口の匂いだけが、いつまでも唇に残っているのを感じていた。
翌晩、いつもの顔で原稿を持ってきた柴田は、校正を終えた純香の原稿と交換すると、
「……昨夜はごめん」
目も合わせないで、一言そう言って帰っていった。純香は何か物足りなさを感じた。
それから数日して、柴田から電話があった。
「……食事をしよう」
「え?」
「Wホテルのロビーで待ってるから。六時頃に来られるだろ?」
「あ、……はい」
「じゃ、待ってる」
そう言って、柴田は電話を切った。
いよいよ来た、と純香は思った。今夜、本格的に口説くつもりのようだ。どうしよう……。はっきりと拒絶してはいけない。柴田の逆鱗に触れたら、復讐のチャンスを逃してしまう。そのためにも不即不離の関係でなくてはいけない。……かと言って、どんな躱し方をすればいいのだ……。純香は悩んだ。
純香は久しぶりにおしゃれをすると、富山駅前のWホテルに向かった。――窓際の柴田が外に目をやっていた。窓ガラスに映った純香に気づくと、目を合わせて笑った。
「素敵だね、その服」
純香のパープルのツーピースを褒めた。
「ありがとうございます」
「カクテルでも飲むかい?」
「ええ」
純香は作り笑いをした。
階上のラウンジに行くと、窓際の席に着いた。柴田は手を上げてウェイターを呼ぶと、
「ウイスキーの水割りと度数が低いカクテルを何か」
と注文した。
「かしこまりました。ウォッカベースの口当たりの良いカクテルをお作りします」
若いウェイターは純香を一瞥すると、お辞儀をした。柴田は灰皿に置いていた煙草を銜えた。
「夜景が綺麗だろ?」
そう柴田に言われた純香は、店内が映った大きな窓ガラスの外に目をやった。
「ええ。とっても」
街の灯りと流れるヘッドライトが光彩陸離と耀いていた。その明かりの中に、白く浮かび上がった粉雪が戯れていた。
ふと、窓に映った柴田を見ると、それは純香を見詰める横顔だった。純香が柴田と目を合わせると、間もなくウェイターが水割りとカクテルを運んできた。
純香は碧色のグラスを手にすると、琥珀色の柴田のグラスに近づけた。互いは見詰め合うと、グラスを傾けた。




