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「……もう、いいんです。松崎さんの気持ち、よく分かりました。それが証拠に、弟のそばに居てくれてるんですもの」
「……純香さん」
徹は徐に上げた顔を純香に向けた。
「弟には、いつ打ち明けたんですか」
「あいつが大学に入って間ものうや。お母さんの伯母さんにあたる炭谷さんに真実を話した。最初のうちは門前払いをされたが、そのうち分かってくれて。
晴樹も最初のうちはなかなか受け入れてくれませんでしたが、そのうち仲良しになって。一緒に暮らすかと聞くと、炭谷のお父さんとお母さんが悲しむさかいて言うて。結局、僕が炭谷さんの家に遊びに行く形を取った――」
「松崎さん」
「え?」
「柴田に会ってくれませんか」
「……」
徹は考えるように俯いた。
「あれから、仲違いしてるみたいですね?あなたが開業したことも、実家が火事に遭ったことも柴田は知らなかった。あなたのことを誤解してます。でも、弟の件を知れば、誤解も解けるはずです」
「いや、一度嫌われた人間や。今更……」
「私は母の件で、柴田を疑いました。正確に言うと、母を犯したのは柴田だと思い込んでいたんです。柴田に復讐するために富山に戻ってきたんです。
でも、柴田と接しているうちに、いつの間にか惹かれていました。そして到頭、愛してしまったんです。それと同様に、柴田と会って話をすれば、きっと分かり合えると思うんです」
「……考えてみます」
「お願いします」
ふと気づくと、晴樹が波打ち際を歩いていた。
「晴樹!」
徹が呼ぶと、駆けてきた。
「……晴樹君。私はあなたのお姉ちゃんなんだから、たまには遊びに来てね……」
純香はそう言いながら、目頭を熱くした。
「はい」
晴樹ははっきりと返事をした。
「……純香さん、ありがとう」
徹が深々と頭を下げた。純香は徹に向けた笑顔を海辺にずらした。「海の家」の〈氷〉ののぼり旗が潮風に揺れていた。
このこと知ったら、柴田はどんな顔をするだろう……。あなたの曾ての友人には子供がいるのよ。そしてその子は私の弟でもあるのよ。その瞬間の、エッ!とたまげる柴田の顔が想像できた。
二人が元通りの友人に戻れるのは必至だ。レイプしたことは軽蔑に値するが、その後の徹の行いを咎める道理はない。ましてや、その子は私の弟にあたるのだ。女房の弟を足蹴にするはずがない。二人が握手する光景が目に浮かんだ。
徹自らの意思で訪ねてくるまでは、柴田には何も語るまい、と純香は思った。私に年の離れた弟がいたと同様に、美音にも年の離れた弟か妹ができるのだ。この時また、〈因果応報〉という言葉を思った。母が遺した弟も、私が産もうとしている子も、どちらも、母の想いがこもった、私への贈り物だ。
柴田に復讐する目的から始まった今回のことは、意外な展開を遂げたが、それは喜ばしい結果だった。天涯孤独だと思っていた私に弟がいたのだ。そして、結婚も出産も諦めていた私に子ができるのだ。これ以上の幸せが他にあろうか?……いや、無い!純香は自分に言い切った。
私を愛してくれた柴田に感謝し、弟を産んでくれた母に感謝し、弟を見守ってくれた徹に感謝し、私を受け入れてくれた美音に感謝し、そして、柴田に会わせてくれた神様に感謝した。〈All is well that ends well. (終わりよければ全てよし )〉。純香はそんな心境だった。
そんな折、柴田から絵本の翻訳を頼まれた。タイトルは、『Family bonds(家族の絆)』。母親のお腹にいる子に対する、五歳になる長女の気持ちと母親の想いを描いた作品で、同じ立場の母親の想いに共感を覚えた。
果然、一升瓶をぶら下げた徹が、晴樹を伴ってやって来たのは、庭先に咲く薄桃色の小菊が、そよぐ風に芳香を放つ頃だった。――
完




