23
松崎医師が降りたのは、大広田だった。松崎医師は駅前の路地を右に左にと曲がると、木造の一軒家に入った。純香はゆっくりと通り過ぎると、表札を視た。〈松崎〉ではなく、〈炭谷〉とあった。……誰の家だ?
そもそも、松崎医師を尾行したのは、松崎刑事の住居を知るためだった。松崎医師が長男なら、父親と同居していると考えたからだ。だが、目論見が外れた。もしかして、婿養子?いや。だったら、『炭谷産婦人科』となるはずだ。……愛人宅?それにしては、堂々と入って行った。
ちょっと待てよ。その前に、松崎医師は独身?既婚者?年齢的には既婚者と見る方が妥当だが。……さて、どうしよう。近所で聞き込みでもしようか、と思った時だった。駅の方からやって来た二十歳前後の男が、〈炭谷〉の門扉を開けた。男がチャイムを押すと、開いた扉から松崎医師の顔が覗いた。
「おかえり」
「ただいま」
そんなやり取りで扉が閉まった。その男同士の関係が純香には理解できなかった。親子?兄弟?従兄弟?……。どれひとつとってもピンと来なかった。
釈然としないまま帰宅した。純香の頭の中は、足の踏み場もないほどに散らかっていた。松崎刑事の住まいを知る方法は?……津久井に訊くしかないか。
純香は、富山△署に電話すると、捜査一課の津久井を呼び出した。
「――その節はどうも。すみませんが、松崎さんの住所を教えていただけないでしょうか」
「え?どうして」
「実は、柴田と結婚した後に、一度お祝いにいらしてくださったんですが、ろくにお礼もしてなくて。ご挨拶を兼ねて菓子折りでもと思って」
「……そうだったんですか。今、見てきますので、ちょっと待ってください」
――松崎刑事の住所を入手した純香は、松崎刑事の息子が独身かどうかと、兄弟の有無もついでに訊いてみた。津久井の返事は、“独身”と“一人っ子”だった。ということは、あの二十歳前後の男は、従兄弟か甥の類いだろう……。
津久井が教えてくれた松崎刑事の住所は、『下奥井』だった。途中で買った水羊羹を手土産にすると、〈松崎〉と表札のある、古い平屋のブザーを押した。
「はいはい」
愛想良く曇りガラスの引き戸を開けたのは、紛れもなく脂ぎった禿頭の男だった。ストローハットを脱いだ純香の顔を認めた途端、松崎刑事は禿筆のような眉毛を上げると、垂れた目蓋を引っ張った。
「突然に申し訳ありません」
純香はお辞儀をすると、
「刑事さんにお花をいただいたのに、なんのお礼もしてなくて」
と、笑みを作った。
「いやいや、何も気にすることはないのに」
純香の挨拶の常套句にホッとしたのか、松崎刑事は慌てて表情を緩めた。
「これ、ほんの気持ちです」
水羊羹が入った紙袋を差し出した。
「こりゃこりゃ、わざわざ。どうぞ入られ。男所帯で散らかしとるが」
松崎刑事は袋を受け取ると、快く招いた。……寡夫か。例の話をしない限り、松崎刑事が機嫌を損ねることはないだろう。純香は刹那にそう思った。
松崎刑事は、い草の座布団を押入れから出すと、丸い卓袱台の脇に置いた。
「今、冷たい麦茶を持ってくるがで」
「どうぞ、お構いなく」
片付いた六畳ほどの茶の間を見回したが、古い調度品が主のように居座っているだけで、何一つ、医師との同居を知る手がかりになる物は無かった。
「津久井君に聞いたがやけ?」
松崎刑事が台所から声をかけた。
「え?」
「住所ですちゃ」
「ええ。街でバッタリお会いして、刑事さんが退職されたことを知りました。お礼がしたくて、津久井さんに教えてもらったんです」
「そうやけ。わざわざすまなんだですね。どうぞ」
純香の前に麦茶が入ったコップを置いた。
「いいえ」
あまり長居もできない純香は、本題に入った。




